各クラブの存続のために奔走した日々を語る川淵三郎氏

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Jリーグ初代チェアマン・川淵三郎が自著の中で「大きなトラウマ」と書く、1999年の横浜マリノスとの合併による横浜フリューゲルスの消滅。だが当時、ほかにも多くのクラブが赤字経営で危機に瀕していたという。

それから約四半世紀、今まで公には詳細を明かしてこなかった、各クラブの存続に奔走した「綱渡り」の日々を川淵が語る。(本文中の名称、役職、所属は当時のものです)

【写真】90分間語り続けた初代チェアマン

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■50万人の署名から始まったアビスパ福岡

「福岡、仙台、鳥栖(とす)、ベルマーレ、神戸......、今、勘定したら本当に危なかったクラブが10ぐらいあった。世間には出ていない話がたくさんある。いつか、それを書いてもらいたいと思っているんだ」

日本プロサッカーリーグ・Jリーグは今から30年前の1993年に10のクラブチーム――通称「オリジナル10(テン)」から始まった。

ぼくは今、オリジナル10で唯一消滅したクラブ、横浜フリューゲルスを追いかけるノンフィクション作品を執筆している。その中で、Jリーグ初代チェアマンだった川淵三郎に話を聞いた。冒頭の言葉は、そのときに出たものだ。そこで今回、あらためて取材することになった。

今や日本代表チームはW杯の常連国となり、全国に60ものJリーグのクラブが根付いている。地域密着、新たなスポーツ文化の形成、社会貢献を掲げたJリーグは日本のスポーツを変えた。ただ、川淵が指摘するように、まばゆいスポットライトから外れた陰の部分があるのも事実だ。

時計の針をJリーグ開始から3年経った96年に戻す。

この頃、川淵の耳に「負」の知らせが次々と届くようになった。最初はアビスパ福岡だった。

「Jリーグがスタートしたときから(福岡市の)博多の森球技場での試合は、常に超満員だった。だから多くのクラブが博多で試合をやりたがった。特にヴェルディ川崎が熱心だった。(責任企業だった読売)新聞の販促のために招待券を配って客を集めていた」

「責任企業」とはJリーグ設立当時、川淵が言い出した言葉である。年間10億円程度を10年間拠出し、クラブを支える覚悟のある企業を意味する。

福岡には博多の森球技場という、95年のユニバーシアード福岡大会のサッカー競技に使用されたスタジアムがあった。

「桑原(敬一・福岡市長)さんが福岡でもJのクラブを作りたいと考えた。そうしたら3ヵ月で50万人の署名が集まった」

この地区では、福岡ダイエーホークスを誘致するために3年間で30万人の署名を集めたことがあった。ホークスは3年間で30万人、今度は3ヵ月で50万人だよ、と念を押すように言った。

「福岡市の助役の方が50万人の署名を持ってJリーグの事務局に来られた。そこでなんとかクラブを作ろうと動くことになった」

Jリーグのオリジナル10に九州を本拠地とするチームはない。どこも手を挙げなかったのだ。野球、そしてラグビーが盛んな地であったせいかもしれない。

そこで、静岡県藤枝市を本拠地とする中央防犯FC藤枝ブルックスが福岡市に移転することになった。藤枝ブルックスはJリーグ参入を目指していたが、加盟に必要な座席数を備えたスタジアムを藤枝市で準備できなかったのだ。95年に福岡ブルックス、96年にアビスパ福岡に名称変更している。

「ところが、いざ始めてみるとスポンサーがなかなか見つからなかった。点がたくさん入る派手なサッカーでなかったこともあって、お客さんも来なかった。どうにも立ちゆかないっていうんで、ぼくが現地に入ることにした」

川淵は取材のために準備していたメモに目をやり、96年3月にスポンサーのひとつだった北九州コカ・コーラボトリングの社長と会っているな......と呟(つぶや)いた。

「(スポンサー企業の)社長、(ホームタウンの)首長とやりとりをしなければならない。だから他の人間には任せる気はなかった。その後も(クラブが)潰れるという話が来たときは、ぼくが全て引き受けて、足を運んだ」

北九州コカ・コーラボトリングの末安剛明をクラブの代表取締役に迎え入れ、全面的な協力を取り付けることで乗り切ることになった。

■「こんな高い年俸じゃ話にならない」

福岡、そしてその後に続くクラブ経営危機の元凶は、選手年俸の高騰だった。

「当時のJリーグのクラブは、これだけの収入があるから選手の年俸をここまでに抑えるという発想じゃなかった。他のクラブが払っている選手の年俸(水準)に倣(なら)っていた。収入を増やしてカバーしようとしていたんだけれど、それができず赤字になる」

福岡の危機をなんとか乗り切った直後、宮城県のブランメル仙台(現・ベガルタ仙台)の経営が危ないという連絡があり、川淵は仙台に向かっている。

「なんでこんな選手に3000万(円)を出しているんだ、こんな高い年俸じゃ話にならないって(仙台の経営陣に)言ったのを今でも覚えている」

東北電力サッカー部を母体としたブランメル仙台は95年にJFLに昇格、Jリーグの準会員となった。この時点ではJ2、J3は存在しておらず、J1のひとつ下がアマチュアリーグのJFLだった。

「サッカークラブの最大の支出は人件費なんです。JFLのクラブは数人、プロ契約選手がいて、あとは勝利給、出場給だけもらうアマチュア選手でいい。アルバイトをしながらサッカーをして、活躍してJリーグのクラブに移籍すればいい。一流選手として認められたいという気持ちで努力しなければならない」

しかし、現状は違っていた。各クラブの経営に危機感を持った川淵は、ある時期から選手の契約書を提出させるようになった。

「Jリーグで通用しなくなった選手が、JFLでJリーグにいたときよりも1000万円以上高い年俸で契約しているという例もあった」

ブランメル仙台の経営危機のきっかけは、東日本ハウスがJFL1年目終了後に、経営から手を引いたことだった。年間予算10億円のうち、東日本ハウスが約4割を負担していた。

「Jリーグがスタートした93年の段階ですでにバブルは弾けていた。景気が下降する中、Jリーグは3年目までは爆発的な人気だった。そこでJリーグの理念を理解した企業がスポンサーになってくれた。

ところが(Jリーグ自体が)そこから右肩下がりになった。まずは入場料を下げてお客さんに来てもらおうとした。するとクラブの収入が減る。それでもお客さんは来なかった。そうするとスポンサーのメリットは少なくなる」

それでいろんなクラブで火が点(つ)いた、と首を振った。

「(ブランメルは)仙台市長の藤井(黎)さん、宮城県知事の浅野(史郎)さんたちがバックアップしてくれた。特に藤井さんはご自分で年間シートを購入して、ご家族と一緒に応援されたと聞いた」
 
96年シーズンは仙台市、そして宮城県が増資することで乗り切ることになった。

■サガン鳥栖を救った世界的スポーツ企業

続いて火の手が上がったのは佐賀県の鳥栖フューチャーズ(現・サガン鳥栖)だった。

フューチャーズの元となったのはPJMジャパンが静岡県浜松市で立ち上げたPJMフューチャーズである。PJMジャパンは、アメリカ人教育家のポール・J・マイヤーが提唱する「SMIプログラム」という自己啓発キットを訪問販売していた。
 
93年、フューチャーズはJFL2部に昇格している。この頃、PJMジャパンの社長、有田平の出身地である佐賀県への移転を検討するようになった。そして翌94年、鳥栖市へ本拠地移転、Jリーグ準会員となった。準会員とはJFLに所属しながら、Jリーグに準ずる資格を持つクラブのことだ。いわばJ予備軍である。

PJMジャパンの申し出は鳥栖市側にとっても渡りに船だった。JR鳥栖駅に隣接した機関区、操車場跡地にサッカー競技場建設を予定していたのだ。

「スタジアムを造るので視察に来てくれと言われて、山下(英雄)市長と一緒に行った。鳥栖駅の裏に広い空き地があった。まさに交通の要所だった。

こんな所にスタジアムを造らせてくれるはずがない、お金をどうするんだろうって。どのように話をつけたのかわからないけれど、かなり安い金額で立派なスタジアムを造った」

山下市長もかなりの私財を投じたと聞いている、それだけ気概のある人だったんだ、と付け加えた。
 
96年11 月、PJMジャパンが運営から撤退した。バブル崩壊により、自己啓発キットの売り上げが落ちていたのだ。

「Jリーグの理事会で鳥栖の準会員の取り消しを検討することになった。Jリーグのあったビルの前でぼくが車を降りたら、4、5人(のサポーター)が立っていて、『川淵さん、鳥栖を存続させてください』って言ったんだ。

これだけ熱心な人がいるんだと驚いた。やれることはやりますよと返事して理事会に行った」

理事会の最中、川淵の頭に彼らの顔がちらついた。おそらく自分に直訴するためにわざわざ鳥栖から東京までやって来たのだろうと思った。

「準会員だったので、新しい責任企業が見つかるまで様子を見ることにした」
 
97年2月、佐賀県サッカー協会が任意団体「サガン鳥栖」を設立、クラブを引き継ぐことになった。この頃、川淵は市長の山下たちと責任企業を引き受けてくれそうな地元企業を回ったという。山下たちの意気に応えねばならないと感じていた。

「そのとき、ナイキがJリーグのスポンサーをやりたいと言ってきた。じゃあ、1年間1億円で、鳥栖に看板を出してくれって。ナイキが助けてくれたんだ」

次の危機はもっと深刻だった。

オリジナル10のひとつ、清水エスパルスが破綻しかけているというのだ。

■増収しても赤字が膨らむ清水

清水エスパルスはオリジナル10で唯一、責任企業を持たない市民クラブだった。Jリーグへの参加希望団体を20から10に絞った際、その中に清水が残ったのはふたつの理由があった。

ひとつは多くの選手を輩出する爛汽奪ーどころ瓩任△辰燭海函そして名物指導者であった堀田哲爾の存在だった。堀田は日本代表にも選ばれていた大榎克己、長谷川健太、堀池巧といった地元出身の有力選手を次々と清水に戻した。

さらにブラジルから帰国し、読売クラブにいた三浦知良も獲得する予定だった。

「エスパルスのスポンサーにJAL(日本航空)がついたのは、三浦カズが来るからだった。ところがカズは(読売の後身の)ヴェルディ川崎に残ったので、JALはスポンサーを降りると思っていた。

それでも続けてくれたんだ。ありがとうございましたと礼を言いに行ったよ。その後、JALは経営が厳しくなっても、ぎりぎりまでエスパルスを応援してくれた」

清水の財政的な柱は、戸塚陽弐が社長を務めるテレビ静岡だった。

滑り出しは良かった。運営団体であるエスラップ・コミュニケーションズは、93年度の売り上げが30億円。翌94年、95年にはそれぞれ37億円と増収している。

「スタジアムは常に満杯だった。(ホームでない)国立競技場で試合をしたときも、かなり客が入っていた。入場料収入と(グッズ売り上げなどの)マーチャンダイジングでものすごく儲かっていた。

Jリーグ2年目に静岡に行ったとき、戸塚さんにどれぐらい剰余金ありますかと聞いたら、『そんなのありませんよ、みんな選手に配っている』という返事だった。戸塚さんのような有能な経営者でもそうなのかとがっかりした」

戸塚の言葉どおり、93年度こそ4400万円の黒字収支だったが、94年は900万円、95年度は2億1300万円の赤字だった。

川淵は別のクラブの社長にも同じ質問をしたことがある。すると観客動員力があるにもかかわらず赤字だと言われた。責任企業から支援を引き出すために収入を使い切ったほうがいいのだと言い切られた。

彼は責任企業からの出向者だった。立場の違う戸塚は、経営が悪化したときに向けて備えているのではないかと川淵は考えていたのだ。

前出の堀田が沼津市の企業を探してきたが、川淵が会いに行くと、「沼津の人間が清水に金を出しても根付かない」と断られた。

「もう完全にお手上げだった。そうしたら鈴与の鈴木(與平・代表取締役)さんが手を挙げてくれた。鈴与は一帯で最も大きな企業なので面倒を見なければならないと考えられたんだろう」

関東地区でも横浜マリノスが、いくつかのスポンサーが降りて困っているらしいという話が聞こえてきた。

その後、しばらくして横浜マリノスの高坂弘己と横浜フリューゲルスの山田恒彦、ふたりの社長が川淵へ面会を求めてきた。何かと思って話を聞いてみると、両クラブが合併するという報告だった。

「もうびっくり仰天だよね。何も言えず、しばらく黙っていたんじゃないかな」

フリューゲルスの責任企業は全日空空輸(ANA)とゼネコンの佐藤工業だった。佐藤工業が経営危機に陥り、手を引くことになっていた。もはや全日空一社では運営できないので合併するというのだ。

「これまでと違っていたのは、合併するということ。潰れるわけではない」

横浜には合併したクラブが残る。フリューゲルスは関東圏では人気のないクラブだった。そこまでサポーターからの反発もないだろうという読みもあった。

しかし、川淵の予想は外れた。98年10月、両クラブの合併が報道されると、大騒ぎになった。選手、サポーターは署名活動を行ない、その数は30万人を超えた。選手たちが全日空に対して抗議の意で、試合前の集合写真撮影の際、ユニフォームの「ANA」と書かれた部分を隠したこともあった。

サッカークラブの公共性の高さを自治体、企業に示し、簡単に潰してはならないという戒めになったと川淵は考えている。


時折、メモを見ながら86歳とは思えない抜群の記憶力で、話は尽きないとばかりに約90分間語り続けた初代チェアマン

■川淵たちの犢謀呂雖瓩Jに残したもの

同時期、ベルマーレ平塚(現・湘南ベルマーレ)の責任企業のフジタが6374億円もの有利子負債を抱えていた。経営再建のひとつとして、平塚から手を引くという。平塚自体も慢性的な赤字経営だった。

「フジタはもう潰れかかっていると聞いていた。そんなときにベルマーレの面倒なんて見てくれるわけないと思いながら、社長だった藤田(一憲)さんのところに行った。

半分諦めながら、なんとかクラブを残してほしいと頼んだら、『負債はゼロにしましょう。ゼロからスタートしてください』って言われた。びっくりするやら嬉しいやらだったね」

つまり、クラブの累積債務はフジタが引き受ける。まっさらの状態で渡すというのだ。

「(平塚の)吉野( 稜威雄)市長が全面的にバックアップしますと言ってくれた。最後は行政トップの支援が大切だと思ったね」

その他、ヴァンフォーレ甲府、ヴィッセル神戸、水戸ホーリーホック、コンサドーレ札幌も消滅の危機があり、それぞれの場所で踏ん張ってくれた人間がいたと川淵は言う。「もう綱渡りだったよ」と苦笑いした。

特に甲府は、クラブ存続のためやれることはすべてやったという。試合中の負傷者を運ぶための担架にまで地元の整形外科の名前を入れていたが、わざわざそれがテレビカメラに映るようにしていたんだよ、と笑った。

日本代表がワールドカップでそれなりの成績を残しているのは、Jリーグの耕したサッカーという土壌が日本全国に広がっているからだ。現在の中心選手である鎌田大地、伊東純也はいずれもそこまで将来を嘱望される選手ではなかった。

彼らを涵養(かんよう)したのは、それぞれ消滅の可能性があった鳥栖、甲府だった。もし川淵たちが犢謀呂雖瓩房最圓靴討い譴弌彼らが世界で輝くことはなかったかもしれない。

Jリーグ30周年の今年、クラブ存続のために奔走した人たちに一瞬だけでも思いを馳せるのも悪くない。

●川淵三郎(かわぶち・さぶろう) 
1936年生まれ、大阪府出身。大阪府立三国丘高校でサッカーを始め、早稲田大学、古河電工でプレー。64年東京五輪に日本代表として出場。現役引退後は古河電工監督を経て日本代表監督。88年に日本サッカー協会(JFA)理事に就任しプロ化を牽引。91年、Jリーグ初代チェアマンに就任。2002年からJFA会長を務めた。現在は日本トップリーグ連携機構会長

●田崎健太 
1968年生まれ、京都府京都市出身。ノンフィクション作家。主な著書に『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社+α文庫)、『球童 伊良部秀輝伝』(講談社)、『電通とFIFA』(光文社新書)、『真説・長州力』『真説・佐山サトル』(共に集英社文庫)など。『フットボール批評』で連載していた『汚点 横浜フリューゲルスはなぜ、消滅しなければならなかったのか』が書籍化予定

取材・文/田崎健太 撮影/本田雄士