2024年パリ五輪のマラソン日本代表の座を狙う、女子選手たちへのインタビュー。パリ五輪出場のためには、MGC(マラソングランドチャンピオンシップ・10月15日開催)で勝ち抜かなければならない。選手たちは、そのためにどのような対策をしているのか、またMGCやパリ五輪にかける思いについて聞いていく。

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パリ五輪を目指す、女子マラソン選手たち
〜Road to PARIS〜
第1回・松田瑞生(ダイハツ)前編



2020年大阪国際女子マラソンで優勝するも、東京五輪出場を逃した松田瑞生

 8月開催のブダペスト世界陸上、10月開催のパリ五輪代表の座を決めるMGC。

 松田瑞生は、2カ月間でふたつの勝負レースに挑むという。周囲からは「MGCで勝ってパリを」という声が多かったが、松田の二兎を追う決意は変わらなかった。東京五輪(2021年)でマラソン代表の座を失った彼女はどのように失意の底から這い上がり、今、なぜ開催時期が近いふたつのレースの出場にこだわるのか──。

【東京五輪落選で「陸上をやめるかどうか真剣に考えた」】

 2020年1月、大阪国際女子マラソンで松田は2時間21分47秒の自己ベスト(当時)で優勝。MGCファイナルチャレンジ派遣記録を上回り、その日の長居スタジアムは松田が東京五輪へのラストチケットを手中に収めたかのように大きく沸いた。

「MGC(2019年)では結果を出せなかったので(4位)、このレースにかけていました。ベルリン(マラソン・2018年)での自己ベストを超える走りを要求されたんですが、それを超えられたのは優勝したこと以上にうれしかったです」

 ただ、これで五輪の椅子が確定したわけではなかった。その権利を得られる第1候補にはなったが、MGCファイナルチャレンジに指定された名古屋ウィメンズマラソン(2020年3月開催)がまだ残っていたのだ。

 MGCは、後半に粘って追い上げたものの、4位に終わり、2位内に与えられる代表内定を勝ちとることができなかった。それ以降、距離を踏んで大阪国際に臨み、結果を出して東京五輪の出場を待つ最前列に並ぶことができた。人事を尽くして天命を持つ。名古屋を前に、そんな気持ちでいたが、不安は待っている静寂な時に忍び寄ってくる。

「私は走らないんですけど名古屋のレースが近づくにつれ、ドキドキして、眠れない日が増えていきました」

 レースは、北京五輪(2008年)などに出場した元競技者の小林祐梨子夫妻たちと一緒にテレビ観戦していた。レースが進行していくなか、徐々に不安と焦りが増して、冷静に見ていられなくなった。

「この時までマラソンのレースって全部、見たことがなくて初めて見たんです。30キロから一山(麻緒)さんがペースアップして、まったく落ちなかった。35キロで自分の負けが確定したなって思った瞬間、もう涙が止まらなかったです。そのまま最後までずっと泣いていました」

 レース後の重苦しい空気が漂うなか、夫妻や仲間は松田を優しく慰めたりするのではなく、いつもと同じような態度で接し、「んじゃ、飯、行こか」と、声をかけてくれた。

「それでホンマに救われましたね」

 とはいえ、心のなかに刻み込まれたダメージは、相当に深く、翌日のSNSには、切り替えるまで時間がかかると、心情を吐露した。

「それから競技に戻るまでに2カ月かかりました。最初の1か月は、寮に引きこもっていましたね。朝練習でジョグがあるんですけど、それ以外の練習で部屋から出ることはなかったです。他人としゃべりたくもなかったですし、正直、陸上をやめるかどうかを真剣に考えていました」

 東京五輪にかけていただけにその喪失感は想像以上に大きく、なかなか陸上に向かう気持ちになれなかった。そんな時、松田を支えてくれたのは家族だった。父からは「厚底シューズを履いて、もう1回挑戦してほしい」と励まされた。母と姉は、「みーちゃんは、よう頑張った。み−ちゃんが終わるん言うたら、それはそれでええやん」と言ってくれた。松田の性格を知り尽くした家族だからこそ言えた独特のエールだった。

 松田を支えたのは、家族だけではなかった。所属するダイハツの山中美和子監督からは「1万mで東京を目指してみよう」と言われ、競技に向けて重い腰を上げることができた。ファンからの声もやめるところまで傾きかけていた気持ちを現役続行へと揺り動かしてくれた。

「SNSなどで『頑張ってほしい』、『やめないでほしい』という声を本当にたくさんいただいて......。この時、私っていろんな人に影響を与えているというか、すごく応援されている選手なんだなっていうのがわかったんです。みんなにこれだけ愛されているなか、負けた姿で終わりたくない。勝った姿をもう1回見せてからやめたい。そう思えたことが、スタートするきっかけになりました」

 再び、立ち上がった松田が目指したのは、2021年の名古屋ウィメンズだった。自分がマラソン代表の座を失ったレースで再起の姿を見せる。走ることの意義とモチベーションを大事にする松田らしい選択だった。レースの3カ月前は月1300キロ、2カ月前は月1400キロを走るなど過去最長の距離を記録し、自分を追い込んだ。そして、レース当日を迎えた。

「この時、調子は最高潮でした。ここまで仕上げることが今後できるかどうかわからないぐらい完璧に仕上がっていました。でも、レース当日は悪天候で風速10mぐらいの向かい風が吹いていて......調子がいいのにコンディションにはまったく恵まれなかったですね」

 22キロから独走して優勝を果たしたが、2時間21分51秒で自己ベスト更新に4秒及ばなかった。ただ、悪条件のなかでも力感溢れる自分らしい走りが戻ってきたことに手応えを感じた。

 それから5カ月後、東京五輪のマラソンは、自宅のテレビで見ていた。

「レースは、見ないつもりでいたんです。でも、寝られなかったですし、やっぱり気になったので、起きてテレビを見ていました。スタート地点の映像が流れたら、もうダメでしたね。本来ならそこに自分がいたかもしれないと思うと悔しくて、涙が出てきました。泣きながら見ていると、母が何も言わずに台所に行ったんです。多分、母もつらかったんだと思いますね」

 松田が、レース会場である札幌から自宅に戻ってきたのは、この日の3日前だった。マラソン女子代表の補欠メンバーだったので、ギリギリまで現地で調整していたのだ。

「最後まで走る気持ちでいましたし、ほぼ完璧に仕上げることができました。最終的に3日前にリリースされたんですが、やっぱり補欠は気持ち的にしんどいです。次回もまた五輪の補欠になったら辞退しようと思いますが、それくらい本当につらかったです」

 悔しさを抱えながらもレースはしっかり見届けた。松田は、このレース展開であれば、自分が出ていたら勝てたかもしれないと思った。

「スローペースから後半に上げていく展開になったじゃないですか。五輪までこの展開の練習をこなしてきて、完璧にできていたんです。このレースならと思いましたし、出ていたらメダルもいけたんちゃうかなって思いましたね。でも、メダルを獲っていたら、たぶんそこで引退していました。そうなっていたら今の旦那さんとは出会えなかったので、そういう意味では東京五輪を走れなかったですけど、自分の人生には大きな転機になったと思います」

【結婚して得られた安心感】

 松田は、昨年9月、結婚をした。「早く子どもを産みたい」とパリ五輪が競技人生のラストと位置づけているが、結婚は松田にとってあらゆる面でプラスに振れた。

「結婚して一番よかったのは、安心感を得られたことです。前はつき合っていると気持ちが不安定になることが多かったんですけど、今は帰る場所があるし、気持ちの逃げ場があるんで、すごくラクなんです。旦那さんは楽観的なので私のネガティブな一面を受け流してくれるので、メンタル的にもすごく支えになっています」

 夫のことを語る時、松田の表情は27歳の等身大の女性の素顔に戻る。優しい夫は、今月の誕生日にはアクセサリーや高級ブランドのバッグなどをプレゼントしてくれるという。「幸せで楽しい家庭を築きたい」と語るが、そう語る背景には、松田家のファミリー像が投影されている。

「私の両親は本当に仲がよくて理想の夫婦なんです。そういうのを見て育ってきたので、私も幸せな家庭を築くのが夢でした。でも、これって陸上を始めた時からずっと言っているんですよ(笑)」

 松田の性格からして間違いなく明るく、楽しい家庭になると思うが、夫婦間ではすでに育児についてなど家庭内ルールが生まれている。夫からは子どもの前で雑な言葉を使わず、言葉遣いを考えてほしいと言われた。関西弁はフランクで心地よいが、ガサツな感じに聞こえる時もあるから「子どもの教育上」ということなのだろう。

 将来、子どもが松田のあとを追いたいと言ってきたら、どうするのだろうか。

「(マラソンは)やってほしくないですね。私と比べられるのがかわいそうでイヤです。期待がその子の知らないところで大きくなって潰されてしまう可能性があるので。どうしてもと言うなら応援しますけどね(笑)」

 東京五輪は逃したが、松田はよき伴侶を得て、人生の金メダルを獲得した。残すのは、本物の金メダルだけになる。

後編に続く>>「そりゃ無理やろって言われても、私からすれば何が?って」世陸とMGCで結果を残して「みんなを驚かす」