連載「斎藤佑樹、野球の旅〜ハンカチ王子の告白」第30回

 2010年、斎藤佑樹の大学ラストイヤーが始まった。早大野球部の第100代主将として、東京六大学史上6人目となる通算30勝、通算300奪三振のダブル達成を目指して、さらには秋のドラフト会議を経てのプロ入りを見据えて、斎藤は春のリーグ戦に挑んだ。


主将となり初めて臨んだ4年春のリーグ戦だったが、優勝を逃した斎藤佑樹

【300奪三振にはこだわった】

 大学での通算の勝ち星については、この頃にはもう固執していませんでした。途中で山中正竹さん(法大)の48勝や江川卓さん(法大)の47勝には追いつけないと思ったからなのかもしれませんが、数字は一つひとつ乗り越えれば勝手についてくるものだと思うようにしていました。

 その分、重視していたのはピッチングの内容です。やっぱり150キロは出したかったし、三振をいくつとれたかということも意識していました。だから300奪三振にはこだわっていましたね。

 大学3年の時、僕は150キロを超えるスピードを求めていました。それが大学で天井を突き破ったことを示す、わかりやすい答えだと思っていたからです。18歳から22歳になる大学での4年間、身体はどうしたって成長します。

 高校時代、技術的に完成度を高めようとしてきたいろんなことも、土台となる身体が極端に変化するとなれば、同じというわけにはいかなくなる。せっかくそれまで身につけていたバランスも見直さなくてはいけません。

 当時の僕の一番の課題は、左ヒザの使い方だと言われていました。スピードを上げようとしてフォームに力感を求めた結果、左ヒザが突っ張ることが問題だという声は僕にも聞こえていました。フォロースルーの時、左ヒザに余裕があれば体重が前に乗ってボールを長く持てるし、前で離すことができる。でも左ヒザが突っ張ると、体重が前に乗らないまま、ボールを早くリリースしてしまうため、ボールが高く抜けてしまうというのです。

 でも、僕は今もそこに問題はなかったと思っています。むしろ左ヒザは突っ張っていいとさえ思っているんです。これって今から13年前の話ですよね。当時は左ヒザを突っ張って投げるピッチャーはほとんどいませんでした。でも、今はたくさんいます。マウンドが固くなったこともあって、地面からの力をより生かすために左ヒザを突っ張って投げるほうが、スピードが出ることもあるということが明らかになったからです。

 ただ突っ張り方にも特徴があって、踏み出した足のヒザが突っ張ったとしても、腕を振りきったあとに体重が前へいくだけの推進力があればいいんです。でも僕の場合は十分な体重移動ができないまま左ヒザを突っ張っていたので、地面からの跳ね返りを生かしきれていなかった。

 その際にちゃんと股関節が折りたたまれて重心が前へいくという、その動きができていればよかったんです。そのちょっとの重心の移動ができるかどうかで、これはよくない突っ張りだなとか、これはいい突っ張りだということは、当時から僕なりに感じていました。あの頃の僕に突っ張ってはいけないという意識はなく、突っ張ってもいいから前へいこうと考えていた記憶があります。

 体重がうまく前へ乗せられた時には、地面からのきれいな反発が生まれていました。股関節を折りたたんで重心をしっかりと前へ移動させる動きができた時は、左ヒザを突っ張らせることでブレーキをかけて止めることで、地面からの反発を生み出すこともできていたんです。だからそれなりのスピードも出た......。

【理想と現実のギャップ】

 でも実際は股関節をうまく折りたたむことができませんでした。それは大学3年の時に股関節を痛めたことと関係があったのかもしれません。痛みを逃がすために股関節をたたまないクセというか、そういう動きになってしまっていた気がします。

 大学生の時の僕には股関節を折りたたむという感覚があったんですが、でも、いま思えば、胸椎の硬さも影響していたのかなと思います。股関節をちゃんと折りたたもうとすれば、上体を前に倒すじゃないですか。そうするためにはどこかが反っていないとボールに力が込められなくなる。

 じゃあ、どこを反らせるかと言えば、胸椎を起こすことだと思うんです。股関節をたたんで、胸椎をキュッと起こしながら前へいく。そこで胸椎が起きてこないと上体が前へ倒れすぎて、極端な話、みんなワンバウンドになってしまいます。股関節をたためなければ高めへ抜ける、股関節をたためても胸椎を起こせなければワンバンになる。それが両方ともうまくいった時はいいボールがいっていた......当時はそういうメカニックで投げていたのかなと思っています。

 胸椎の硬さは、ウエイトトレーニングのやり方に問題があったのか、あるいはそもそもの成長過程でそうなってしまったのか、正直、よくわかりません。今の選手は胸椎を柔らかくするためのエクササイズをやっています。プロの世界でもチームに理学療法士がいて、胸椎が硬いとよくないという考え方を教えてくれます。

 でも僕が大学生の時には、胸椎を柔らかくするという考え方は主流ではありませんでした。もしすでにその考え方があったとしても、残念ながら僕は聞いたことがなかった。だから胸椎が硬いという自覚もなかったし、そのためのトレーニングもしたことはありません。股関節をうまくたたんで、ヒザを突っ張って、胸椎を柔らかく使えば、それが理想だったと今なら思います。でもその連動がうまくいっていなかったというのが、あの頃の僕のピッチングでした。

【主将として臨んだ初シーズン】

 主将として迎えた初めてのシーズン、春のリーグ戦の初戦の相手は立教でした。例によって、その試合のことはほとんど覚えていません(笑)。記録とか当時の記事を見ると、ああ、そういう感じだった(7回、82球を投げて被安打2、与四球1、失点2、勝ち負けつかず、チームはサヨナラ勝ち)と思い出す程度です。

 当時の記事を見て思い出すのは、あまり力を入れていないのにキレのいいボールを投げられていたな、ということくらい(1回表、斎藤は10球のうち8球ストレートを投げ込んで、そのうちの4球が146キロを記録している)。たぶん低めに投げることと、指にしっかりとボールをかけることを意識していたんだと思います。3年生のシーズンがよくないイメージだったので、それを払拭したいと思って意識的に力を抜こうと考えていたのかもしれません。

 結局、4年の春は優勝できませんでした。早慶戦を前に、優勝の可能性は早稲田と慶應に絞られていました。つまり早慶戦で勝ち点を挙げたほうが優勝するという状況です。でも早稲田は勝ち点を落としてしまい、慶應に優勝をさらわれてしまった。

 僕は1回戦と3回戦に先発して、いずれも負け投手......メチャクチャ悔しかったことを覚えています。僕は主将としてというより、まずピッチャーとして自分が勝ちさえすれば、絶対に優勝できると思っていました。

 春は活躍できなかった(6試合に先発して2勝3敗、ただし防御率は1.54)から、優勝をできなかったんだと思います。エースとして土曜日の先発を託されるのなら、そこで確実に勝てるだけの能力を身につけなければ、結果として主将としてのいい結果も引き寄せられないということを思い知らされました。

 4年春のシーズンを終えて、僕は第5回世界大学野球選手権に日本代表として選ばれました。その時、突然、力を入れずにビューッというイメージのボールがいく感覚が出てきたんです。あのフォームはすごく覚えています。

 結果としては準決勝で初回に(ワンアウト)満塁のピンチを背負って、(5番のジョージ・)スプリンガー(現在はブルージェイズ)に投げた初球のフォークを左中間スタンドへ運ばれてしまいました。

 大学で満塁ホームランを打たれたのはあの1本だけじゃなかったかな......その4点で日本は負けてしまったんですが、でもあの試合、ストレートとチェンジアップのバランスがすごくよかったという印象がありました。なぜその手応えがあったのか、自分でもわからないんですが、ヒザが突っ張るとかは関係なく、身体の前のほうでボールを放せている感じがありました。

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 主将として早慶戦で勝ち点を落として、リーグ優勝を慶應に譲ってしまい、投手としては通算27勝、294奪三振で4年春のシーズンを終えた。すべての宿題を残したまま、斎藤はいよいよ4年秋、大学最後のシーズンを迎えることになる──。

次回へ続く