私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第21回
ブラジルW杯での悔しさを糧にして〜青山敏弘(3)

◆(1)「難しくなっている」青山敏弘がブラジルW杯コートジボワール戦で前半から感じていたこと>>

◆(2)青山敏弘がブラジルW杯で痛感した「自分たちのサッカー」の限界>>

 2014年ブラジルW杯、日本は初戦のコートジボワール戦で逆転負け。2戦目のギリシャ戦は相手に退場者が出たものの、攻めきれずにドローに終わった。1分1敗で臨んだ3戦目のコロンビア戦は、前半17分にPKで先制を許すも、前半終了間際に岡崎慎司のゴールで同点に追いついた。

 ハーフタイムのロッカールームは盛り上がりを見せたが、青山敏弘は「ここからが本当の勝負」と気持ち引き締めて、後半のピッチに向かった。

 2連勝を飾っていたコロンビアは、すでにグループリーグ突破を決めていた。だが、そんなことはお構いなしとばかりに、後半開始からエースのハメス・ロドリゲスを投入してきた。

 ハメス・ロドリゲスが入って、コロンビアのギアが一気に上がった。分厚い攻撃に日本は防戦一方となり、後半10分、ハメス・ロドリゲスのアシストによって追加点を奪われた。1−2となって、日本が追いかける展開になったところで、青山は山口蛍と交代した。

「ハメスが入ってからのコロンビアのパワーとスピードはすごかった。コートジボワールもそうだったんですが、(ディディエ・)ドログバが出てきてからは勢いが違った。後半に入って、"ここで勝負"という時に差が出てしまう。ふたりが入った時のようなパワーが、日本には足りなかったと感じました」

 日本は、後半37分にもハメス・ロドリゲスのアシストで3点目を取られ、45分にはハメス・ロドリゲス自身に決められ、とどめを刺された。結果、日本は1−4と完敗。グループリーグ最下位に終わり、過去最高の攻撃力を保持したチームはその力を十分に発揮することなく、ブラジルから去った。

 あれほど"自分たちのサッカー"にこだわり、自信も持っていたはずだが、選手たちは最後までそのサッカーを信じて戦えたのだろうか。

「この大会まで、自分たちのサッカーは非常にレベルが高く、すごくいいサッカーをしていた。でもW杯になって、強い相手と戦うなかでなかなか(ボールを)つないでいけない。最終的には個の力でどうにかしないといけない、というのが大きくなっていったんです。

 そこで、個の力強さも出していこうというあまり、攻守のバランスが崩れてしまってゲームをより難しくしてしまった。結局、個で相手を上回ることができなくなった時、何で勝負するのか。自分たちは、そこの策やパワーがなかったんです」

 コートジボワールやコロンビアの後半の展開を思い出すと、日本は個の出力で攻撃力を増幅させ、相手を圧倒することができなかった。世界の舞台で戦ううえで、青山は海外のトップ選手と自らの、個の質の違いを痛感させられた。

「(自分は)このままじゃ、ダメだなって思いましたね。チームを引っ張っていた本田(圭佑)選手や長友(佑都)選手は海外でバリバリやっていた。昨年のカタールW杯もほとんどが海外組ですし、個の力でなんとかしないといけないところで、なんとかできた。(浅野)拓磨がドイツ戦でゴールを決めましたけど、それはそのために海外の厳しい環境のなかでどれだけやってきたか、という証だと思うんです。

 僕はブラジルW杯で初めて、そういう海外での経験が必要だと思いました。(世界で戦うには)ふだんからW杯のように厳しい世界という場に身を置いて、世界を常に意識してプレーしていかないとダメだなと思い知らされました。でもその時、僕は28歳。そこで気づいたのは、ちょっと遅すぎましたね」


2014年ブラジルW杯の翌年、J1の頂点に立ったサンフレッチェ広島の主軸として活躍し、同シーズンのMVPにも輝いた青山敏弘(写真右から2番目)

 W杯から所属のサンフレッチェ広島に戻った青山はその翌年(2015年)、「W杯で戦う意識でサッカーができた」という。持ち味を存分に発揮したすばらしいプレーを披露して、チームのリーグ制覇に貢献。MVPを獲得した。

 チームで結果を出していくなかで、日本代表のことも常に意識していた。アルベルト・ザッケローニのあとを受けたハビエル・アギーレ体制での招集はなかったが、同監督が早々に解任。新たな指揮官にヴァイッド・ハリルホジッチが就任すると、青山は再び代表に招集された。

 ハリルホジッチ体制となって2戦目のウズベキスタン戦(2015年3月31日)で先発出場。先制点を決め、自身初の代表ゴールを記録した。青山はこのまま2018年ロシアW杯にも出場し、ブラジルW杯での悔しさを晴らしたいと思っていた。

「メンバー的にもブラジルで(一緒に)戦った選手が多かったですし、W杯で勝ちたかった。僕にとっては、ロシアW杯に出場することがブラジルのリベンジだと思っていました。

 実際、チャンスはあったんですが、大会前に負った右膝のケガでドクターストップがかかってしまって、すごく残念でした。でも、日本はロシアW杯でベスト16に行ってくれたので、それはうれしかったですね。

 その後、森保(一)さんが代表監督になって、最初の試合に呼ばれてキャプテンとしてプレーさせてもらいました。でも、翌年のアジアカップでケガをして、途中で離脱してしまった。以降、若い選手がどんどん出てきて、代表(入り)は難しくなってしまいました。

 ただ、ブラジルでの苦い経験があったからこそ、『もう一度代表で』と常に思っていましたし、カタールW杯も最後まで諦めることなく、出場を目指していました」

 W杯は出るだけでは意味がなく、結果を出してナンボだと、ブラジルW杯で痛感した青山。結局、自らは果たせなかったものの、日本はロシアW杯でベスト16入りし、カタールW杯ではグループリーグで強豪のドイツ、スペインを下して決勝トーナメント進出を決めた。そこに、W杯で勝てるチームのあるべき姿を見たという。

「カタールW杯では、後半に三笘(薫)を入れて勝負したり、拓磨を入れて勝利をモノにするなど、勝負しにいく時に勝負できる選手がいて、結果を出していった。一方で、ブラジルの時には、そうして勝負を仕掛けていくことがほとんどなかった。

 カタールW杯での戦いを見ていると、みんな、大事な場面で勝負するために海外に出て行ったんだろうなって思うし、そういう選手がいるチームが勝つんだなと思いましたね。

 僕らは結果を出せなかったけど、僕自身はもちろん、日本代表にとって、ブラジルW杯はロシアやカタールで結果を出すために、必要な経験だったんじゃないかと思います」

 青山は自分に言い聞かすように、そう言った。

 2023年、青山は広島で20年目のシーズンを迎えている。広島ひと筋でプレーをし続けているが、ブラジルW杯の経験は、それ以降の自らのサッカー人生にどんな影響を与えたのだろうか。

「あの悔しい経験があったから、今の自分がいる。ただ、広島が僕をここまで大きくしてくれましたし、自分のなかではチームの延長線上に日本代表とW杯がありました。自分の力で代表に入れたというより、広島にいたから(代表に)行けたと思いますし、広島が一番というのはブラジルW杯の時も今も変わらない。

 今年、広島で20年目になりますけど、ここまでやってこられたのは、森粼兄弟(兄・和幸、弟・浩司)という、いいお手本がいたからで、僕はそれをなぞっているだけ。その姿を後輩に見せていくというのが今、そしてこれからの自分の目標です」

 広島への愛を隠さない青山だが、今年37歳になった。アスリートの選手寿命は年々高くなっており、Jリーグでも同じボランチの遠藤保仁ら40歳以上の選手が何人もプレーしている。しかし、およそ10年前のブラジルW杯の時とは肉体は異なる。青山は自らの引き際について、考えているのだろうか。

「考えていますよ。でも、可能なら1年でも長く選手としてプレーしたい。そのためには、試合に出て、結果を出していかないといけない。そこで初めて、サッカー選手として評価されるので。

 僕は、自分とクラブとサポーターが同じ思いになってこそ、(自らが)プレーができると思いますし、そこがバラバラになってまで、プレーをやり続ける意味はないと思っています。クラブが終わりを告げたら、それは引き際として至極全うだなと思いますが、今のところ、自分から身を引くことはないですね」

 青山が今もサッカー選手としてプレーし続けることに意欲的なのは、もちろんサッカーが好きで楽しいのもある。だが、大きなモチベーションになっているのは、昨季リーグで3位になるなど、チームを率いるミヒャエル・スキッベのサッカーが魅力的でもあるからだ。

「昨年もそうでしたが、広島のサッカーを見ていると、自分も『努力したい』って思えるんです。若い選手が頑張って結果を出しているのを見ると、自分も頑張ってこのサッカーをしていきたいし、もう1回試合に出てみたいというパワーが出てくるんですよ。

 変な言い方ですが、感動するぐらいいいチームなので、努力して試合に出て、多くの人を感動させられる選手でいたい。そういう気持ちがある限り、やり続けようかなと思っています。

 僕はプロ生活1年目、2年目は試合に出られなくて、3年目でやっと出られた。今、試合になかなか出られないですが、20年目を迎え、またスタートに戻った気分ですね。今年が2回目のプロ生活の始まりだと思っているので、試合に出るために、まだまだ頑張ります」

(文中敬称略/おわり)

青山敏弘(あおやま・としひろ)
1986年2月22日生まれ。岡山県出身。作陽高3年時にサンフレッチェ広島の特別指定選手に登録される。卒業後、そのままサンフレッチェ入り。以降、サンフレッチェひと筋でプレー。2012年、2013年、2015年と3度のリーグ優勝に貢献し、その際はベストイレブンにも選出された。日本代表メンバーとしても活躍。2014年ブラジルW杯に出場した。