私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第21回
ブラジルW杯での悔しさを糧にして〜青山敏弘(1)

 2010年南アフリカW杯、日本は戦前の予想を覆してグループリーグを突破してベスト16という結果を残した。人気に陰りが見えていた日本代表に新たなスターが登場し、再びサッカー熱が高まり、代表人気も復活した。

 そういった流れのなか、イタリアのトップクラブで手腕を発揮してきたアルベルト・ザッケローニが日本代表の監督に就任。W杯でベスト16を超える戦いがスタートした。

 青山敏弘(サンフレッチェ広島)が初めて日本代表に招集されたのは、それからおよそ1年後の2011年8月だった。

「初めて代表に呼ばれた頃は、(自分が)W杯(に出場する)とか全然考えていなかったです」

 当時を振り返って、青山はそう言った。

「(日本代表は2011年)1月にアジアカップで優勝して、(8月の招集は)国内組中心の合宿だったんですけど、監督も選手もほぼ『初めまして』の状態で(苦笑)。ミーティングで、どういうサッカーをするのかを言われたんですけど、初めてのことが多くて、合宿中、まったくついていけなかったんです。

 その後、韓国戦(3−0/2011年8月10日)があったんですが、キヨ(清武弘嗣)がすごく調子がよくて、質の高い特徴的な選手が『代表で生き残っていくんだな』って改めて思いました。自分は、合宿がこれから先につながる感じではなかったですし、『代表レベルの力がまだない』と思っていました」

 青山が日本代表復帰を果たすのは、それから2年後になる。

 2013年6月4日、日本はオーストラリアに引き分けてブラジルW杯アジア最終予選を突破。その後、ブラジルで開催されたコンフェデレーションズカップ(以下、コンフェデ杯)に参戦し、その翌月には東アジアカップに出場した。

 ただ、同大会には海外組を含めたレギュラーメンバーは、ほとんど参加しなかった。主たる目的は、コンフェデ杯で露呈した選手層の薄さを補うための、新戦力の発掘だった。そのために、青山は日本代表に選出された。

「この時は、2年前とは異なり、ザックさんの戦術が理解できたんです。それは、以前に一度やった経験があったのもありますが、2012年に(所属する広島が)リーグ戦で優勝したのも大きかったですね。そのなかで自分が結果を出し、自信がついた時に呼ばれましたから。

 しかも、ザックさんが自分に求めていることを直接言ってくれたので、代表やW杯うんぬんよりも、その期待に応えて『優勝したい』という気持ちがすごく強かったので、やる気に満ちていました」

 青山がザッケローニ監督に求められたものとは、どういったことだったのだろうか。

「主に攻撃についてですが、たとえば自分のファーサイドにボールを蹴ること。逆サイドの選手がポストに向かって走っていくから、それに向かってボールを出してくれ、と言われました。

 この時は、前線に(柿谷)曜一朗が前にいて『(柿谷が敵DFの)裏に走り出すから絶対に逃すな』とザックさんに言われたのですが、それってヤットさん(遠藤保仁)がオカちゃん(岡崎慎司)によく出していたボールなんです。そういうことかって思って、(試合でも)曜一朗が走った瞬間にボールを出すことができた。逆サイドの裏に蹴るプレーは結構得意でしたし、ラストパスも出せたので、代表でもやれる自信がつきました」

 青山は東アジアカップ全3試合中、初戦の中国戦(3−3)、3戦目の韓国戦(2−1)と2試合に出場。日本は2勝1分け(2戦目のオーストラリア戦は3−2)という結果を残して優勝した。

「優勝はうれしかったですし、ザックさんの求めているものに対して、自分が応えることができた。この時からですね、(自分のなかで)W杯というものが初めて見えてきたというか、見ていいんだって思ったのは」


2013年の東アジアカップ優勝に貢献し、日本代表に定着していった青山敏弘

 翌8月には親善試合のウルグアイ戦が行なわれたが、この試合には青山をはじめ、柿谷、山口蛍ら東アジアカップで活躍した複数の選手がレギュラーメンバーも顔をそろえた代表に招集された。

 その後、青山が日本代表で存在感を示したのは、2014年3月のニュージーランド戦だった。ボランチで山口とコンビを組んでスタメン出場した試合だ。

「僕は(2ボランチで)蛍と組むことが多かったんですが、彼はディフェンス、自分は奪ったボールの展開とビルドアップで貢献するみたいに、(それぞれの)役割が明確で、すごくバランスがよかったんです。ふたりでゲームを作って、ふたりでのし上がっていこうみたいな感じでしたね。

 蛍とふたりでのプレーが評価され、最終的に蛍は個人でも認められてレギュラーになっていきましたけど、自分の特徴とザックさんの戦術がフィットして、プレーしていて楽しかったです」

 ザッケローニ監督はスタメンを固定していたが、その中心がボランチの長谷部誠と遠藤だった。キャプテンと日本の攻撃の"心臓"とも言える遠藤が座するレギュラーの壁は非常に高かったが、青山はそのふたりをどう見ていたのか。

「ハセさん(長谷部誠)とヤットさんのふたりは別格でしたから、チーム内での自分の序列などは考えていなかったです。そのふたりと違う自分の色を出してプレーするというよりも、ザックさんの戦術をこなしていきたい、そこで結果を出して日本代表に関わっていきたい、そしてワールドカップに行きたい、という気持ちのほうが大きかったですし。ふたりと違うもので勝負するとか、まったく考えていなかった」

 ザッケローニから「自分の強みで勝負しなさい」と言われた青山は、献身的な姿勢でチームに貢献。誰かのプレーを模倣するのではなく、そうした自分らしいプレーをすることを貫いて、ブラジルW杯を戦う代表メンバー23名に選出された。

「(W杯メンバー入りは)うれしかったですね。東アジアカップからチャレンジを続けてきたおよそ1年は、僕をはじめ、そこから頑張ってきた選手にとっては、すごく大きなチャンスであり、チャレンジの時間でした。

 その間、僕はそこまで結果を残してきたわけでないし、『絶対に大丈夫』というのはなかったですけど、サッカーをやっていると、監督との相性というか、信頼関係が築けているかどうかってわかるんです。僕はザックさんからの信頼を感じていたので、そこは信じていました」

 その信頼が厚いものであることは、ブラジルW杯前の親善試合からも見て取れた。青山はコスタリカ戦(3−1)で山口と組んでスタメン出場を果たした。

「コスタリカは強かった。最終予選を勝ち上がり、W杯に出場するチームのレベルがどういうものなのか、大会前に知れたのは個人的に大きかったです。あと、コンディションがよくて、いいパフォーマンスができたので、『こういうフィーリングでW杯に入りたいな』って思っていました。

 次のザンビア戦(4−3)は、W杯にスタメンで出るためのラストチャンスになったんですが、(試合終盤の途中出場でも)アシストができたので、多少はアピールできたかなと思いました。ただ、チーム全体で見ると失点が多く、2試合勝ったとはいえ、手放しで喜べるような感じじゃなかったです」

 この時、チームはいくつかの不安を抱えていた。主力の長谷部と内田篤人は、故障明けで別メニューだった。彼らを含む欧州組は、コンディションにばらつきがあり、シーズン中の国内組とは明らかに差があった。それでも本田圭佑ら主力は、「優勝」を目標に掲げ、世界を驚かすことに何の疑いもなく、W杯に臨もうとしていた。

 ブラジルW杯が始まった。

 初戦のコートジボワール戦、日本は前半16分に本田が先制点を決め、南アフリカ大会の初戦を彷彿とさせる試合展開になった。だが、ベンチで戦況を見ていた青山は、コートジボワールがしっかりと日本対策をしてきているのを感じていた。

「自分たちはいつものサッカーをしようとしていたんですけど、コートジボワールの右サイドがめちゃくちゃ高いポジションを取っていたんです。うちの攻撃のポイントである左サイドを止めようとガンガン前にきていたので、(香川)真司や(長友)佑都のところは『難しくなっているな』というのは感じていました」

 日本は流れを変えるべく、後半9分、長谷部に代えて遠藤を投入した。すると後半17分、コートジボワールも動いた。ここぞとばかりにエースのディディエ・ドログバを投入してきた。このエースの登場で、チームの雰囲気ばかりでなく、スタジアム全体の空気もガラリと変わった。

 青山は1点リードしていながらも、嫌なムードを感じていた。

(文中敬称略/つづく)◆青山敏弘がブラジルW杯で痛感した「自分たちのサッカー」の限界>>

青山敏弘(あおやま・としひろ)
1986年2月22日生まれ。岡山県出身。作陽高3年時にサンフレッチェ広島の特別指定選手に登録される。卒業後、そのままサンフレッチェ入り。以降、サンフレッチェひと筋でプレー。2012年、2013年、2015年と3度のリーグ優勝に貢献し、その際はベストイレブンにも選出された。日本代表メンバーとしても活躍。2014年ブラジルW杯に出場した。