名物実況アナ・若林健治が振り返る

「あの頃の全日本プロレス」(5)

(連載4:「フロントにタイガー・ジェット・シン様がいらっしゃっております」 呼び出され、輪島戦について熱弁した>>)

 1972年7月にジャイアント馬場が設立した全日本プロレス。旗揚げから2000年6月までは、日本テレビがゴールデンタイム、深夜帯など放送時間を移しながらお茶の間にファイトを届けた。そのテレビ中継で、プロレスファンに絶大な支持を受けた実況アナウンサーが若林健治アナだ。

 現在はフリーアナウンサーとして活動する若林アナが、全日本の実況時代の秘話を語る短期連載。第5回は、1990年代のプロレス界をけん引した三沢光晴が、団体のスターへと駆け上がるきっかけとなった試合を振り返った。


1990年5月14日、東京体育館大会で2代目タイガーマスクのマスクを脱いだ三沢(中央)

【2代目タイガーマスク時代に「実家の電話番号を教えてください」】

 三沢は栃木・足利工大付属高校のレスリング部に所属し、国体優勝などの実績を引っ提げ、卒業後の1981年3月に全日本に入門した。非凡なレスリングセンスと抜群の受け身で将来を期待され、入門からわずか5カ月でデビュー。その後、メキシコ遠征などを経て、1984年8月に2代目タイガーマスクとしてリングに登場した。

 若林が三沢に初めて会ったのはその直後で、それから取材と放送を重ねて信頼を深めた頃、三沢のバックボーンを知るためにひとつのお願いをしたという。

「タイガーマスク時代の三沢さんに、『お母さんを取材したいので、実家の電話番号を教えてください』と。だけど、『なんで? 嫌だよ。そんなこと教えられない。(実況で)しゃべるんでしょ?』と断られました。

 そこで私は言ったんです。『しゃべります。それはアナウンサーとして当たり前です。でも、私は若林健治ですよ』と。それで、『わかったよ』と最終的には教えてくれました。三沢さんは、私ならお母さんを取材しても変な実況にはしない、と信頼してくれたんだと思います。そのあと、私は実家に電話して、お母さんにいろんな話をお聞きしました」

 ただ、当時の三沢は覆面レスラーのタイガーマスク。1988年5月の結婚を機に正体を明かしてはいたが、私生活の実況はマスクマンの試合にマッチしない。若林は、この時の取材で聞いた内容を封印。それを実況で伝えるのは少し後のことになる。

【天龍の離脱、馬場の負傷負けの危機に灯った希望の光】

 三沢の大きな転換点となったのは1990年5月14日。「スーパーパワーシリーズ」開幕戦の東京体育館大会で、2代目タイガーマスクの三沢は川田利明と組み、谷津嘉章、サムソン冬木組と対戦。その試合中、三沢はいきなり覆面を脱ぎ捨て、「タイガーマスク」から「三沢光晴」へと"脱皮"した。

 この試合を実況していた若林は、マスクが客席に投げられた瞬間、「タイガーマスク、マスクを脱いだぁ! 三沢となって今、猛然と打っていったぁ!」と声を上ずらせた。

「マスクを脱ぐなんて、事前に聞いていませんでしたし想定していませんでした。私にとって、完全なハプニングでしたね」

 この東京体育館大会は、全日本にとって激震の渦中で迎えたビッグマッチだった。シリーズ開幕前に天龍源一郎が退団し、大手眼鏡チェーン「メガネスーパー」が親会社となった新団体「SWS」に移籍。全日本は看板レスラーを失った。

 さらに、この大会のメインイベントでアクシデントが起こる。ジャンボ鶴田とタッグを組み、テリー・ゴディ、スティーブ・ウイリアムスと対戦したジャイアント馬場が、試合中に負傷してフォール負けを喫したのだ。

「馬場さんがテリー・ゴディの技を受けて動けなくなった。天龍さんが離脱した直後の大会での馬場さんの負傷に、正直、私は『全日本は終わった』と思いました。ただ、同時に『俺にできることはないか。全日本を守ることはできないか』とも考えたんです。

 それで頭に浮かんだのが、天龍さんが抜けた穴を埋めようと、マスクを脱ぎ捨てて必死なファイトを展開した三沢さんだったんです。私は『(今後の全日本は)三沢にかけよう』と思い、彼のことをより意識して実況するようになりました」

 素顔に戻った三沢は、団体の絶対的エースだった鶴田に牙をむく。迎えたシリーズ最終戦の6月8日、日本武道館。三沢は鶴田との初の一騎打ちに挑んだ。その試合も実況を務めたのは若林だったが、徹夜で資料を準備して迎えた当日は熱っぽくて意識が朦朧とし、「病院でカンフル剤のようなものを注射してもらって、会場に向かったことを覚えています」と振り返る。

 そんな若林が「長いプロレス実況アナ生活の中で最高の試合」と話す一戦は、三沢に対して鶴田も厳しい攻撃で応じ、会場は大盛り上がり。若林の記憶に強く残っているのは、試合終盤に鶴田がドロップキックを誤爆した場面だという。

「鶴田さんのドロップキックを三沢さんがかわして、鶴田さんが股間をロープに打ちつけたんです。そこで私は『三沢、チャーンス!』と叫びました。試合前は、三沢さんが勝つ可能性は限りなくゼロに近いと思っていました。でも、鶴田さんがドロップキックを外されたことで、三沢さんにチャンスが生まれたと思ったんです」

【スターレスラーのイメージを変えた三沢】

 劇的なフィニッシュの場面は、ドロップキック誤爆の直後に訪れた。鶴田のブレーンバスターを切り返した三沢がバックドロップを放つ。それを鶴田が切り返してカバーするも、カウント2で三沢が再び切り返し、片エビ固めで鶴田を固める。そして、和田京平レフェリーが3回マットを叩いた。放送席で若林は「三沢が勝ったぁ! 三沢が勝ったぁ!」と連呼した。

「三沢さんが勝つことをほぼ想定していなかったわけですから、その瞬間に何を言おうかなんて用意してなかったわけです。だから『三沢が勝った』という非常にシンプルな表現しか出ませんでした。

 あの実況がよかったのかは視聴者の方の印象になりますが、私としてはシンプルな言葉だったからこそ、あの鶴田さんを破った偉業をストレートに表現できたんじゃないかと思っています。解説を務めてくださった『週刊ゴング』の竹内宏介さんが、『三沢が泣いてますよ!』と興奮して教えてくれたことも思い出しますね」

 若林は三沢の勝利に感動すると同時に「全日本が生き残った」と感じたという。決着後の実況でも、その思いを次のように表現した。

「その激しさ、全日本プロレスに新しい時代到来! 新しい時代到来! ニューヒーロー誕生!」

 三沢光晴という新しいスターが、団体の危機を救う。その直感は現実のものになっていく。この勝利をステップにエースへと駆け上がり、1990年代に川田利明、小橋健太、田上明と共に「四天王」と呼ばれた4人で、激しい試合を繰り広げていく。全日本プロレスだけにとどまらず、プロレス界全体を巻き込んで黄金時代をもたらした。

 三沢が若きエースとして活躍するようになったある試合で、若林はかつて三沢の母に聞いた秘話を実況で伝えた。

「その時に紹介したのは、三沢さんが小学校の時に作文で『大きくなったらお母さんにダイヤモンドを買ってあげたい』と書いた、というエピソードですね。ただ、この話は『出し方が非常に難しい』と思っていました」

 それまでのプロレス実況では、選手の超人的な能力に関する秘話を語ることはあっても、私的な話、家庭のことについて紹介することはあまりなかったからだ。

「プロレスラーは"常人"ではダメ。ファンが遠巻きで見るスターじゃないといけない。そこに、庶民的な家庭の温かさはいらないかもしれない、とも思いました。

 でも私には、『テレビの放送は励ましだ』という信念があります。日本テレビを作った正力松太郎さんは『放送は大衆への奉仕であれ』とおっしゃいましたが、私は『大衆への励まし』だと思っています。

 プロレスでも、レスラーの家庭的な秘話を紹介することは、視聴者への励ましになるのではないか、と思ったんです。事実、三沢さんはジャイアント馬場さんのようなファンが崇める存在ではなく、みんながその活躍に共感し、自らの人生を重ねるような"ピープルズチャンピオン"になっていきましたね」

 三沢は2000年にプロレスリング・ノアを設立。プロレス界のトップを走り続けたが、2009年6月13日の試合中の事故で、46歳の若さで急逝した。いまだに若林の中には、全日本を救った三沢の輝きが鮮明に残っている。

(敬称略)

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【プロフィール】
若林健治(わかばやし・けんじ)

1958年、東京都生まれ。法政大学法学部を卒業後、1981年に中部日本放送に入社。1984年、日本テレビに入社。数々のスポーツ中継を担当するほか、情報番組などのナレーターとしても人気を博す。2007年に日本テレビ退社後は、フリーアナウンサーとして活躍している。