阪口夢穂、プロサッカー選手の
肩書き返上を語る(前編)

 2023年4月9日、突如、阪口夢穂が自らの進退についてSNSでつぶやいた。

「今日からプロサッカー選手という肩書きは返上することにしまーす」――実に阪口らしい、しかし考え抜かれたその一文のなかに込められている想いを紐解くために、彼女に会いに行った。


これまでのサッカー選手としての歩みを一つひとつ語った阪口夢穂

 当然のことながら、含みのあるその一文に多くの人が疑問符を抱き、関係各所からも問い合わせが相次いだ。こんな大事になるとは本人は思い至らず。つぶやくことを3日前に決断し、そのためにアカウントを開設したという。

「どうも"引退"っていうワードが......仰々しいし、固いし、重いし(苦笑)。すでに無所属やったから、プレスリリース発表っていうのも違うし、ね。もっとラフな感じにしたかったんです。そしたら、ああいう言い回しがいいなって思って、解釈は受け止めてくれた人にお任せします、でええんちゃうかなって。思いのほか大騒動になってしまってビックリですよ」

 最終所属となった大宮アルディージャVENTUSから阪口の契約満了における退団が発表されたのが昨年6月のことだった。

「大宮は辞めようと思っていました。なんか、その時すごくフラットな気持ちになってて、他のチームからもオファーはいただいていたんですけど、やりたいともやりたくないとも思わない。オファーがきても、『サッカーをしたい!』って気持ちに振れなかったんですよね。だから時の流れに身を任せる感じでした。完全に"無"やったんです」

 ならば、なぜこのタイミングでのあのつぶやきに至ったのか、大宮退団から約10カ月の間に、いろいろな葛藤があったようだ。

「別に生涯現役!でもいいと思うんです。自由やし。きっかけはひとつではないんです。でもそのひとつになったのはWEリーグからイベントの出演依頼がきて、『これ受けたいな』って思ったこと。だとしたら、このまま中途半端な状態でいるのはよくないじゃないですか。女子サッカーのために私ができることがあればしたいって思ったんですよね」

"無"から、初めて心が動いた場所が女子サッカーのためにできること、だったのであれば、自然に心はそちらへ向いていたのだろう。

「先のことなんてわからないでしょ?アマチュアのピッチでボール蹴っているかもしれないし、草サッカーでキャプテンマークを巻いてるかもしれない(笑)。でも今の自分には区切りは必要やと思いました」

 彼女自身、きっかけを待っていたのかもしれない。そして大きく安堵したのはサッカーに対して"無"でも、それは決して無関心ではないということが彼女の言葉から十分伝わってきたことだ。

「ここまで30年くらい?それなりにやってきて、必要としてもらえる選手としてプレーしてこられた。やっぱりサッカー好きですよ。楽しいもん。だから燃え尽きた訳でもないし、燃え残ってる訳でもなくて、"無"なんです」

【明かさなかった膝のケガ】

 2021年、WEリーグ開幕元年を迎えた阪口のコンディションは、決していいわけではなかった。そしてWEリーグ開幕を前に、もっと言えば東京オリンピックを前に膝の故障に再び襲われた。

「大宮が始動したばかりの(2021年)2月、日本代表に声がかかったけど、また膝をやってしまっていたので行けず......高倉さん(高倉麻子監督)は最後まで回復を待ってくれてました。ほんま、選手冥利に尽きますよね。大宮に移籍した段階で、コンディションが戻っていれば、東京オリンピックで何かをする自信はありました。でも、しょうがないです。これも人生!すべてタラレバですもん」

 とはいえ、とにかく膝のケガには苦しめられた。最初は北京オリンピック後にアメリカへ挑戦した直後の2009年に左膝前十字靭帯断裂を負う。2012年には左膝半月板損傷。2018年の5月、右膝前十字靭帯と内側半月板の損傷はフランスW杯の前年のことだった。

「さすがに2018年の時は、『マジか、時期!!』って自分に突っ込みましたよね(苦笑)。でもそれは完治して......実はリリースされなかったんですけど、W杯の3カ月半前に、また半月板やってしまったんです。W杯を考えてオペしないことを選択して、リハビリに入りました。でも、その時がきたら膝が壊れてもいいから試合に出ようと思ってました。もちろん試合に出す出さないは高倉さんの判断やけど、実はそのままサッカー辞めてもいいやぐらいの覚悟を持って臨んでたんです。誰も知らないけど(笑)」

 確かに、大会中、何度か本気で試合に出ようとしてることが伝わるくらいにボールを蹴っている日もあった。しかし、その翌日には膝の状態が悪化して別メニューに戻るという繰り返しだった。

「もう膝パンパンで(苦笑)。あの期間中、短パン履いてなかったはずですよ。とても見せられるもんじゃなかったから。帰ってすぐオペしましたよ(笑)」

 阪口の言葉で、当時の練習での彼女の表情や会話、振る舞いなどのすべてがつながった。自分の膝と常に向き合ってきた芯の強さを改めて感じさせられた。

【思い出すのはいいことばかり】

 結局大宮でのラストシーズンも、リハビリメニューが中心で試合に絡めたのはラスト4試合だけだった。1987生まれの同級生である有吉佐織、鮫島彩、上辻佑実らと阪口で形成するのが通称"87会"。若い選手の誰よりも賑やかで、ムードメーカー的存在だ。ベテランとして新規チーム作りに奮闘していたが、そのなかで阪口だけが同じ温度で苦悩できないこともまた耐えがたいことだった。

「どうしても一歩引く感じにはなってしまっていたと思うんです。だって実際にやってないから。自分が動けてたら、少なくともプレー面では貢献できたはずです。それすらもできなかった。ホントに最後のほうで試合に絡めるくらいまで回復してきて、そこからやっとしゃべれた選手もめっちゃいました。途中まではどこかでVENTUSの一員になりきれてなかった気がします」


結果的に現役最後となったINAC神戸戦で阪口夢穂らしいプレーを見せた @大宮アルディージャ

 特に結果的に阪口の最後の試合となったINAC神戸レオネッサとの最終戦では、阪口の途中出場にスタジアムはざわめいた。そして、同じく大宮での時間の多くをリハビリに費やしてきた鳥海由佳への華麗なスルーパスをとおしてゴールさせた。これぞ阪口の真骨頂とも言える珠玉のパスだった。

「限られた時間ではあったけど、87のメンバーとも同じピッチでプレーできたし、最後のほうはすごく楽しかったですよ。自分が出ることで他との違いっていうか、空気を変えることはできたと思ってます。鳥さん(鳥海)のゴールなんて、5失点したあとの1ゴールなだけなのにスタジアムがまるで勝ったかのようにすごい沸いたよね。ああいうのはやっぱり楽しい!」

 なでしこジャパンとしては対外試合で勝つことすら難しい時代も知っている。世界と少し肩を並べた気がした北京オリンピック、一気に世界の頂点に駆け上がったドイツW杯、日本サッカー史上初の銀メダルを獲得したロンドンオリンピック、勝つことが当然と目されるなか、苦しみながら準優勝にまでこぎつけたカナダW杯、リオデジャネイロオリンピックの出場権を逃した予選----。そこから代表チーム作りの第一歩から携わり、世界で勝てない状況を再び味わった。国内でもLリーグからなでしこリーグ、そしてWEリーグへ、阪口は日本女子サッカーの古きよき時代から繁栄、衰退、進歩そのすべてを体感した数少ない選手だと言える。

「今は大宮の記憶が新しいからこうして出てくるけど、キツイことって上書きされていくもんでしょ。でも、リオデジャネイロオリンピックの出場権を逃したのは一番キツかった。あれは自分がど真ん中でプレーしていたし。長くサッカーをやってると、いいことばかりじゃなかったけど、いざサッカーから離れたら、不思議なことに思い出すのは"いいこと"なんですよ」

 紆余曲折な年月は、それだけ充実した日々だったということだろう。ひとつずつ回顧していく彼女の表情は穏やかで、彼女がたどり着いた"無"の温度をそこに見た気がした。

後編:元なでしこジャパンの阪口夢穂の次なる夢は?>>

profile
阪口夢穂(さかぐち みずほ)
1987年10月15日生まれ。大阪府堺市出身。
7歳からサッカーを始め、2003年に下部組織からスペランツァF.C.高槻に昇格。FC ヴィトーリア、TASAKIペルーレFCを経て、アメリカのリーグも経験。帰国後は、アルビレックス新潟Lを経て、日テレ・東京ヴェルディベレーザではもっとも長い9年間プレーし、最後は大宮アルディージャVENTUSで終えた。日本代表としては、W杯4回、五輪に2回出場している。2011年のドイツW杯で優勝を経験し、翌年のロンドン五輪では全試合に出場し、準優勝に貢献。2015年のカナダW杯でも準優勝という結果を残した。