「厚底シューズと練習メニューを変更したことが大きい」 マラソン引退を覚悟していたレースで優勝した岡本直己は、40歳でのパリ五輪を目指す
2024年パリ五輪のマラソン日本代表の座を狙う、箱根駅伝に出場した選手たちへのインタビュー。当時のエピソードやパリ五輪に向けての意気込み、"箱根"での経験が今の走り、人生にどう影響を与えているのかを聞いていく。
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パリ五輪を目指す、元・箱根駅伝の選手たち
〜HAKONE to PARIS〜
第15回・岡本直己(明治大―中国電力)後編
前編を読む>>箱根駅伝14年ぶりの出場に貢献 当初のチームはバラバラ「引退したいので予選会で落ちてほしいと言う先輩もいた」
2018年8月、北海道マラソンで優勝した岡本直己
「ひとつは、地元(鳥取県)がある中国地方に戻りたかったのが大きいです。今もつき合いのある友人が多いですからね。それに人が多い所が苦手なのと、お酒が好きなのですぐに飲みに出てしまう可能性があったので、自制の意味も込めて地元に戻りました。もうひとつは、マラソンで五輪を目指していたので、(中国電力の)チームには油谷(繁)さん、尾方(剛)さんを始め、五輪や世界で活躍されている先輩がいた。先輩方からいろいろ学びたいと思ったからです」
即戦力として期待された岡本はルーキーイヤーからニューイヤー駅伝に出走し、外国人選手がひしめく3区で12位、日本人トップを獲得した。それ以降、15年連続での出場を続けている。
「実業団は駅伝があってこその実業団であり、活動が認められていると思っています。特にうちはニューイヤー駅伝を走らないと1年仕事をしてなかったことになるぐらいのチームなので、常に駅伝に向けてという意識でいます。ニューイヤー駅伝だけは外さないようにと、毎年新しいシーズンに入る度に思いますね」
ニューイヤー駅伝とともに都道府県対抗駅伝も岡本にとっては大事な駅伝になる。
「正月のニューイヤー駅伝もそうですが、都道府県対抗駅伝もテレビで放映されるじゃないですか。しかも中国電力がある広島でやるので、ふだん練習している時からすごく声をかけられるんです。そうして応援してもらえるのがうれしいですし、応援してくれる人が喜んでくれる。だから、駅伝は楽しいですし、やめられないですね」
駅伝では、「ミスター駅伝」と言われるほど強かった。たとえばニューイヤー駅伝4区3大会連続で3位内になるなど抜群の安定感を見せていた。だが、個人種目のマラソンではなかなか結果を出せなかった。一時期は、駅伝のせいでマラソンが走れないとまで思いつめた。
転機になったのは、ある監督の言葉だった。
「お前は、トラックもマラソンも駅伝も別々に考えるからダメなんだ」
旭化成の宗猛監督に、そう言われた。
「変にいろいろ考えすぎていたんでしょうね。走る競技って、種目は違うけど、全部ひとつにつながっているじゃないですか。それを、これはこれって分けて考えていたんです。全部ひっくるめて陸上競技なんだと言われて、自分の競技の捉え方が変わりました」
【大きな転機となった2018年】気持ちは前向きになったが、それでもなかなか満足がいく走りができなかった。これで結果が出なければマラソンをやめよう。そう思い、ラストチャンスとして出場したのが青梅マラソン(2018年)だった。
「青梅は30キロのレースなのですが、それまでマラソンを10本(1本途中棄権)走ってきて、全部中途半端に終わっていたんです。年齢的にレースもマラソンの練習もキツくなってきた。これでダメならマラソンをきっぱり諦めて、得意な駅伝に専念しようかなと思っていました」
意を決して臨んだ岡本は、見事優勝を果たした。その結果、ボストンマラソン出走の権利を得た。
「これが大きな転機になりました」
諦めかけていたマラソンに、もう1回挑戦できるチャンスを得た。青梅で敗れていたらMGC(マラソングランドチャンピオンシップ)はもちろん、マラソンを走る岡本の姿を見ることは、もう叶わなかっただろう。
では、なぜ青梅で岡本は優勝することができたのだろうか。
「厚底シューズと練習メニューを変更したことが大きいですね」
2018年は、ナイキの厚底シューズが世界を席巻したシーズンで、多くのランナーが履くようになり、岡本もそのシューズの恩恵を得た。
練習は2017年福岡国際マラソンで優勝したソンドレノールスタッド・モーエン(ノルウェー)の練習メニューが雑誌に掲載された際、その内容が自分が取り組んでみたかったものと合致した。その練習をこなすなか、青梅に臨み、結果が出た。同年8月の北海道マラソンでも優勝し、成功体験が練習への信頼を揺るぎないものにした。東京五輪への挑戦権であるMGCの出場権利も獲得した。
2019年、岡本は34歳でMGCに出走した。
「その時は、最後の五輪挑戦になると思っていました。自国開催で五輪を走ることはもうないと思ったので出たかったんですが、今、思えばスタートする前から負けていました。MGCは注目度でいえば五輪以上にあったような気がしましたし、周囲からの期待もすごく大きかった。そのプレッシャーにちょっと耐えられず、早く終わってほしいとしか思っていなかったんです」
スタート前から精神的に追い込まれたなかでは、攻めるレースは難しかった。勝負は30キロ以降、激しさを増していったが、岡本は「そこまで勝負に絡めなかった」と、10位に終わった。東京五輪の出場権を獲得した選手を見て、岡本は勝利への意欲、覚悟の違いを感じた。
「勝った選手はユニフォームの対策、給水の方法、暑熱対策も完璧でした。手のひらに水をかけて温度を下げるなど、細部にこだわって対策をしていました。私は、ふだんどおりの練習をしていくことぐらいしか考えていなくて、そこまで意識が回らなかった。勝利は細部に宿ると言われていますが、そこまで突き詰められなかったのが敗因でした」
MGCファイナルチャレンジの東京マラソン(2020年)は大迫傑(NIKE)が日本人トップとなり、五輪マラソン代表最後の椅子を獲得した。岡本は総合20位に終わり、東京五輪の夢は潰えた。
【パリ五輪へ向けての準備】東京五輪のマラソンは、テレビで見ていた。同年代のキプチョゲ(ケニア)が快走し、金メダルを獲得した。
「テレビで見ていたら、この舞台に立ちたいなと思いましたね。苛酷ななかでのレースであれば、体調さえ合わせることができれば勝負できるんじゃないかなと。ただ、キプチョゲ選手はすごかった。同年齢で、私はベテランと言われるんですけど、キプチョゲ選手はベテランとは言われない。今も世界チャンピオンですし、彼を見ていると、自分ももう少しやっていけるんじゃないかなと思いました」
今、岡本はパリ五輪を目指し、MGCを戦う準備を着々と進めている。
東京五輪を最後と考えていたがパリ五輪を狙うべく前向きな気持ちになったのは、2022年の大阪マラソン・びわ湖毎日マラソン統合大会が大きなポイントになっている。2時間8分4秒で5位に入り、今年10月15日に開催されるMGCの出場権を獲得した。
「この時の走りと37歳で自己ベストを出せたことが今も自信になっています」
このレースでは、同年齢の今井正人(トヨタ自動車九州)も6位に入り、ベテラン勢の熱いレースに多くのファンが喝采を浴びせた。
「私が5位、今井君が6位で、まさかこんな結果になるとは思わなかったです。できすぎと言いますか、うまくいきすぎて、なんかすごくきれいな話になっていました(笑)。今井君は大学の時、5区を走って山の神になって、その頃から意識をしていました。今じゃ同年齢で現役は私と今井君ぐらいしかいなくなりましたが、やっぱり同期には負けたくない。他の選手には負けても諦めがつくところがあるんですけど、同期は言い訳がきかないですからね」
レース後、ふたりはハイタッチをして、健闘をたたえ合った。その今井もMGCに出場する。今度はパリ五輪の出場をかけて勝負レースを戦うことになるが、「楽しみですね」と岡本は言う。
そのMGCだが、今回はどのように戦おうとしているのだろうか。
「前回は、最後まで勝負に加われなかったという思いがあるので、今回はまず最後まで勝負したいという気持ちが一番強いです。35キロ以降の勝負に備えて、先頭集団でレースをする。最後の2.195キロは、わりと走れているイメ−ジがあるので、最後まで先頭に残っていれば勝つ自信はあります。これまで国立競技場で走ったことがないのですが、今は一番最初に国立に入っていくイメージをもって練習しています」
先頭集団で戦えば、必然的にテレビに映る時間が長くなる。最後までフォーカスされる時間が長くなればなるほど箱根の時に芽生えた「誰かのために」、そして応援してくれる人たちに感謝の気持ちを伝えることができる。
「今回のMGCは、自分のためにというよりも応援してくれる人の期待に応えるために走ります。特に、妻ですね。これまで朝5時半に起きて、夜10時には寝るというある意味、規則正しい生活ですけど、窮屈なこともあったでしょうし、私が合宿で家にいないことも多かった。家ではご飯をたくさん食べるので毎日、栄養バランスを考えて出してくれています。妻に支えてもらって陸上をやれているので、その妻に一番に喜んでもらいたい。その気持ちが最後、ダメになりそうな時、自分を奮い立たせてくれると思うんです。今回は、本当に最後の五輪挑戦になります。40歳でのパリ五輪、凱旋門を走るためにいい結果を妻に報告したいですね」