イギリス政治を大混乱に陥れている大衆迎合の罠
なぜイギリス政治は混乱しているのか(写真:Jason Alden/Bloomberg)
2022年10月25日に、リシ・スナク氏が新たなイギリス首相に就任した。8月から3カ月間に、3人が保守党政権で首相の座に就くという異常な事態になっている。ボリス・ジョンソン氏、リズ・トラス氏、そしてスナク氏である。このような短期間に次々と首相が替わることは、イギリス政治ではきわめて異例なことである。また2016年からの6年間で、6人が首相を務めたことになる。イギリス政治に何が起こっているのだろうか。
ロシアのウクライナ侵攻以後、G7の中でもロシアに対してとりわけ厳しい制裁を主張して、またウクライナへの本格的な支援の必要を提唱してきたのが、ジョンソン前々首相とトラス前外相が率いるイギリスであった。
なぜイギリス政治は混乱しているのか
他方で、外交や安全保障の経験が限られ、これまで何度となく中国に対して宥和的な発言をしてきたスナク氏の首相就任に対して、ウクライナ支援の基本方針が変化するのではないかという懸念も見られる。
そもそもこれだけ頻繁にイギリスの首相が交代するのには、どのような要因が考えられるのだろうか。
第1の要因は、ブレグジットである。2016年6月23日の国民投票によるイギリスのEU(欧州連合)からの離脱の決定は、6年が経過した現在に至っても、イギリス政治に不安定性と不透明性を与え続けている。ジョンソン首相は、2019年7月の首相就任以降、「ブレグジットを実現しよう(Get Brexit Done)」をスローガンに掲げて、2020年12月31日にEUからの完全離脱を実現した。
ところがイギリス政府はその後、北アイルランドをめぐるEUとの協定を反故にする意向を示唆して、現在に至るまでEUとの関係を徹底的に悪化させた。さらには、ブレグジットに端を発するイギリスでの労働力の不足が、経済成長の足枷となって、ブレーキを踏む結果となっている。
第2の要因として、コロナ政策におけるイギリス政府の混乱が原因となっている。ジョンソン首相は初期の段階で、コロナ禍をあまり深刻な問題とは捉えずに、必要な措置を執らずに放置した。さらにはジョンソン首相ら政権の中心人物が、ロックダウン中に首相官邸でパーティーを複数回にわたって開催し、この違法行為が「パーティーゲート事件」と呼ばれ、政治不信を加速させた。
第3の要因として挙げられるのは、ウクライナ侵攻をめぐるロシアへの制裁が燃料価格の高騰につながり、そのことが一般市民の生活を圧迫し、政府に対する不満の鬱屈に帰結している点だ。ジョンソン政権のスキャンダルへの不満は、このような生活費の高騰に伴う国民の怒りと化学反応を起こして、より大きなものへと燃えさかっていった。
このようにして、ブレグジットやコロナ禍の影響と、エネルギー価格の高騰に結びついたことが、イギリスの経済状況をよりいっそう悪化させた。今年の4月19日に発表された国際通貨基金(IMF)の世界経済見通しによれば、2023年のイギリスの経済成長率は1.2%となる見通しで、これはG7の中では最も成長が鈍化する国となることを意味する。またこれは、G20の中でも重い制裁が課されているロシアに次いで、最も低い経済成長率となる。
イギリス経済は、深刻な経済危機に陥る見通しにありながら、さらに政治の混乱が社会の不安を増幅させている。その背後には、イギリス政治におけるポピュリズムの浸透が見られる。
ポピュリズム政治が増大させた政治不信
イギリスは、議会制民主主義の母国として、その政治体制はこれまで世界の多くの民主主義諸国の模範と見なされてきた。二大政党制に基づいた安定的な政権交代により政治に変革が生まれ、戦後の福祉国家の成立や、1980年代以降の新自由主義の政治的潮流など、世界に新しい政治の風をもたらしてきた。そのイギリスが現在、深刻なポピュリズム政治の波にのみ込まれている。
2019年7月、イギリス保守党の代表選挙において、党員はより理性的で、より現実的な政策を志向するジェレミー・ハント氏ではなく、それまで繰り返しポピュリスト的言動を繰り返してきたボリス・ジョンソン氏を選んだ。ジョンソン首相はしばしば、法律を軽視する発言をし、ヨーロッパ大陸の諸国を挑発し、そして過剰にイギリスの偉大さを賛美した。それにより、イギリス国民が困難な現実を直視せずに、甘美な言葉に陶酔する方向へと導いた。
そして2022年9月、ジョンソン首相辞任を受けた保守党代表選挙では、その財政政策が高く評価されていたリシ・スナク氏ではなく、富裕層や生活困窮者の双方に迎合する姿勢を示すリズ・トラス氏を首相とすることを好んだ。
ところが、トラス首相は、そのきわめて短い任期中に急速に市場からの信頼を失い、ポンド安と株安を招いた。短期間で辞任したクワジ・クワーテング氏に代わって財務相となったジェレミー・ハント氏は、混乱が続くイギリス経済を立て直そうと、トラス首相の打ち出した減税策のほとんどを撤回した。市場からも、保守党からも、世論からも信頼を失ったトラス首相は、その帰結として、イギリス政治史上最短の首相在任期間という屈辱的な記録を残して、首相の座を降りざるをえなくなった。
ブレグジットの国民投票から6年間、イギリスではブレグジット、コロナ禍、そしてウクライナを侵略したロシアに対する経済制裁といった一連の困難が続いた。それにより、イギリスは経済状況の悪化に苦悩する結果となった。現実的な政策によりこれらの困難を乗り越えていく努力をすることよりも、自国の「偉大さ」を繰り返し説くポピュリズム的な主張に、イギリスの世論は魅了されていった。
イギリス国民は困難から目を背けた
2019年12月のイギリス総選挙では、そのような主張を繰り返すジョンソン首相率いる保守党が大勝し、ジョンソン政権はとりあえず国民の信任を得た。だがそのことは、イギリスが直面する経済的な困難や、政治的な困難に対して、イギリス国民が目を背けることを意味した。
10月25日にトラス首相を継いで首相となったスナク氏は、2人の前任者に比べて、より現実的な経済政策を提唱して、イギリスの抱える困難に誠実に向き合う姿勢を示している。そもそもその3カ月ほど前に、ジョンソン首相辞任を受けた保守党代表選を戦う際に、トラス氏の非現実的な財政政策構想を、スナク氏は「まるでおとぎ話のようだ」と揶揄して、厳しく批判した。
明確な財源なく、あらゆる階層を満足させようとアピールすることは、深刻なインフレを招いてイギリス経済を破綻させるであろう。ジョンソン政権の財務相として、コロナ禍の中のイギリス経済の舵取りをしたスナク氏への保守党内での信頼は厚い。だが、スナク新首相が安定的に政権運営を行えるほど、イギリスが抱える問題は単純ではない。
これから冬の到来とともに、イギリス国民はより多くの暖房を必要として、より多くの電気やガスといったエネルギーを消費する必要が生じる。他方で、ロシア・ウクライナ戦争も一因となっているエネルギー価格の高騰は、イギリス、さらにはヨーロッパの生活者や企業に、重い負担を課す結果となっている。
新しい「不満の冬」がやってくる
かつて、1978年から79年にかけてのイギリスにおいて、ジェームズ・キャラハン労働党政権下での労働争議と、それに伴うデモやストライキによって、経済と社会が混乱して「不安の冬」と呼ばれる状況が発生した。おそらく今年の冬も、それとは異なる要因によるものであるが、新たな「不満の冬」となるであろう。そこでは低成長とインフレが国民の生活を苦しめ、その悪夢が繰り返されるかもしれない。
生活に困窮する一般市民と、厳しい財政規律を維持せねばならないスナク保守党政権との間での、どのような最適な均衡点を見いだすかが問われている。それに挫折すれば、政権と国民との間での相互不信や摩擦が激しくなるであろう。
スナク首相は、首相就任当日の演説で、「経済の安定と信用をこの政府の中心課題にする」と述べて、さらにはジョンソン前々首相やトラス前首相のポピュリスト的な政治と訣別するためにも、「言葉ではなく行動でこの国をまとめる」と約束した。はたして、スナク首相はこの新しい「不満の冬」を乗り越えることができるのだろうか。
ロシア・ウクライナ戦争は、民主主義諸国に対して、巨大な問題を投げかけている。すなわち、国民が不満を募らせる中で、国際的な規範を守るためにどれだけ人々がコストを支払うことを受け入れるか、という問いである。それは日本もまた例外ではない。これから戦争が長期化していけば、日本の市民や企業にとっても、エネルギー価格の高騰は重い負担としてのしかかってくるであろう。
そのような中で、国民は高いコストを支払うことを避け、ポピュリスト的な主張に魅了されるのか。あるいは構造的な問題を直視して、それを乗り越えるために誠実かつ忍耐強く、問題に取り組むのか。その選択は、民主主義体制と権威主義体制のイデオロギー的な対立が言及される中で、民主主義の将来に巨大な影響を及ぼすであろう。
(細谷雄一/API研究主幹、慶應義塾大学法学部教授)
(地経学ブリーフィング)