44日で辞任「英国・トラス首相」が起こした大混乱
10月20日、辞任を表明したイギリスのトラス首相。就任44日での辞任表明はイギリス史上最短だ(写真:Bloomberg)
10月20日、イギリスのリズ・トラス首相が与党・保守党党首の辞任を表明した。イギリスでは第1党の党首が首相になるので、首相辞任表明でもある。9月上旬に発足したばかりの新政権だが、大型減税計画が市場の大混乱を招き、与党内での信頼感も失った。20日朝、保守党平議員の組織から辞任を進言され、午後、官邸前での辞任表明を余儀なくされた。
首相就任から44日で辞意表明とは、イギリスの政治史上最短だ。いったいなぜこんなことになったのか。
EU残留派から離脱派に「鞍替え」
これまでの経歴を少し振り返ると、イギリスの欧州連合(EU)からの離脱の是非を問う国民の投票(2016年6月)では当時のデービッド・キャメロン首相同様、残留派だった。もともと、保守党議員になれたのも、キャメロン氏のおかげだった。2005年、保守党・党首に就任したキャメロン氏は、女性議員を増やすために女性候補者のリストを導入し、選ばれた1人がトラス氏だった。
国民投票で離脱派が勝利し、キャメロン政権(2010−2016年)が終わりを告げると、トラス氏は離脱推進派に鞍替えした。閣僚としては、キャメロン政権で環境相に、これに続いたテリーザ・メイ政権(2016−2019年)で司法相に就任、次のボリス・ジョンソン政権(2019−2022年)では国際貿易相、その後は外相、女性・平等担当相に。ウクライナ戦争で対ロシア強硬路線を取り、存在感を示した。
そして、今年7月、ジョンソン首相が、官邸でのパーティー疑惑で退陣を余儀なくされると、党首選に出馬。党首選では「減税によって経済を成長させる」と繰り返し、もともと「小さな政府」を志向する保守党員の支持を得た。
イギリスの初の女性首相マーガレット・サッチャー氏を思わせる、「減税」「改革」のキーワードを使い、サッチャー氏のように青を基調にしたワンピースを着用するなど、「第2のサッチャー」という印象も利用した。9月5日に党首選の結果が出て、リシ・スナク元財務相を破り、党首に就任。翌日、故エリザベス女王と接見し、組閣を依頼された。
しかし、就任から2日後の9月8日女王が急死し、イギリスは喪に服する日々に突入。新政権の活動は十数日、休止状態となった。
女王の国葬が9月19日に終わり、いよいよトラス政権が本格的な政策を打ち出すときがやってきた。そこでドカンと出してきたのが、23日の「ミニ予算案」。これは過去半世紀で最大とされる約450億ポンド(約7兆円)の大型減税案だった。
友人でもあったクワジ・クワーテング財務相が自信たっぷりに発表した減税案は、所得税の最高税額の引き下げ、法人税率の引き上げ凍結、銀行員の賞与の上限規制の撤廃などが盛り込まれた。トラス首相が党首選で繰り返した公約である減税を形にしたものだった。
しかし、インフレ率が10%近くとなり、昨年来光熱費の急騰にも悩む国民からすると、「成長重視で経済を活性化させる」という政策はピンとこないものだった上に、「所得税の最高税額の引き下げ」は「金持ち優遇」という批判が与党内からも出てしまった。
これほどの大規模の減税の財源確保は大丈夫かーー。不安を感じた市場では通貨、株式、国債が同時に売られるトリプル安を誘発。9月27日、国際通貨基金(IMF)が大型減税案について「財政悪化につながりかねない」と政府に再考を促すまでになってしまった。翌28日にはイングランド銀行が長期国債を支えるための緊急対策を発表。トラス政権の減税案は世界の市場のひんしゅくを買ってしまった。
保守党と最大野党労働党の支持率が30ポイントも開き、「トラス氏が党首では選挙に勝てない」という不安感が与党内に広がった。
財務相更迭、減税案はほぼ撤回に
批判を無視できなくなり、クワーテング財務相は所得税の最高税額の引き下げを撤回。それでも市場の混乱が抑えられず、10月14日、トラス首相は財務相を更迭した。代わりに党内中道派のジェレミー・ハント元保健相・元外相を抜擢したが、ハント氏には財務省勤務の経験はない。それでも、ほかに「大物」がいなかった。
17日、ハント氏が発表した新財務計画の「さわり」は、先の大型減税案の大部分を覆すものだった。「市場を安定化するために」とハント財務相は繰り返した。
大型減税によって経済を成長させると公約したトラス首相。しかし、その案がほぼ撤回されたとき、その存在理由が消えてしまった。
辞意表明への引き金が引かれたのが、19日。スエラ・ブレイバーマン内相が辞任したのである。辞任の書簡によれば、個人のメールで公文書を送ってしまい、「閣僚規範違反」による引責辞任と説明されたが、経済を混乱させても責任を取ろうとしない首相への批判にも見えた。
政権維持は困難との見方が強まる中、20日朝、保守党の平議員で構成される「1922年委員会」の委員長がトラス氏と会見。辞任を勧めたと言われている。同日午後、トラス氏は辞意を表明した。
野党は総選挙を主張
20日のテレビ報道を見ていると、有権者のほとんどが「辞任してよかった」「あれほど市場に損害を与えたのだから、辞めるしかない」などと答えていた。しかし、一部では「もう少し長くやらせてもよかったのでは」「トラス氏を支持していたので、残念」という声もあった。
イギリスの経済紙「フィナンシャル・タイムズ」はトラス政権による「イギリスの信頼性の壊滅」とする見出しで「イギリス国民には総選挙の機会が与えられるべき」とする社説を書いた。野党労働党のキア・スターマー党首も「総選挙で民意を問うべき」と主張している。
イギリスの総選挙は5年毎に行われるため、次は2024年5月になる。総選挙を経ずに、トラス氏が首相になり、次の首相も保守党内の選挙だけで党首・首相に就任すれば、確かに民主主義上、問題となりそうだ。ただ、議会で過半数の議席を持つ保守党は2024年まで待たずに総選挙を行うという法案がもし提出されれば、これに賛同することはなさそうだ。大敗が予想されているからだ。
保守党は来週28日までに新党首を選出予定だ。党首選への出馬は「100人の保守党下院議員からの支持」が条件となっている。24日午後2時までに出馬を表明し、保守党議員による投票で候補者を絞り込む。最後に残った2人に対して、保守党員がオンラインで投票して決める。
有力候補と言われているのはジョンソン政権で財務相だったリシ・スナク氏、院内総務のペニー・モーダント氏。いずれもこの夏の党首選で上位についた。スナク氏の難点はジョンソン氏のパーティー疑惑をめぐって抗議辞任しており、その後次々と閣僚が辞任したためにジョンソン政権が崩壊した経緯があり、党内で今でも人気が高いジョンソン氏を「裏切った人物」という烙印を押されている点だ。
思いがけない候補者になるかもしれない人物が、ジョンソン元首相だ。保守党に近い新聞「デイリー・テレグラフ」には、同氏が候補者になるかどうかを吟味する記事が掲載された。この記事のコメント欄を見ると、「彼しかいない」「イエス、イエス、イエスだ」など、ジョンソン氏の再来を待望する声が多数掲載されている。
新型コロナの感染が広がり、国民に厳しい行動規制が科されていたころ、官邸内で数々のパーティーに出席していたジョンソン氏。さまざまな言い逃れをして信頼を失い、辞任せざるを得なくなった。それでも、幅広い層に強いアピール力を持つジョンソン氏なら「選挙に勝てる」と思う保守党議員は少なくない。
トラス氏が減税を固執した背景
トラス政権が史上最短で崩壊となった根底の理由として、2010年から続いてきた保守党政権の内向き志向があるように筆者には思えてならない。トラス氏が今年夏の党首選で減税を執拗に繰り返したのは、「その方が保守党員の支持を受けられるから」だったと言ってよい。
首相就任後に大きな減税策を繰り出したのも、「自分を選んでくれた保守党員への約束を守る」ためだった。実際に、20日の辞意表明の演説では、この公約を守ることができなくなったことを辞任理由として挙げている。
保守党にとっての利点よりも、物価高騰に苦しむ国民の生活を少しでもよくできる政治家を新しい党首に選んでほしいと願っている人は多い。あと1週間ほどで、その結果がわかる。
(小林 恭子 : ジャーナリスト)