日本はむしろ物価高から取り残された異様な状態
インフレ率が低すぎることは問題でもある(写真:I/PIXTA)
日本で物価が上がっていることを実感する機会が増えてきました。しかし世界の先進国と比べると上昇率はまだ緩やか。そのギャップの狭間で犠牲になっている人がいます。なぜ日本は世界のトレンドから取り残されているのか、理由と背景について『世界インフレの謎』より一部抜粋・編集して解説します。
「世界のインフレ率ランキング」2022年
まずは、パンデミック前の日本経済と物価はどのようになっていたのかと言うと、1990年代半ば以降、日本は四半世紀にわたってインフレ率がきわめて低い状態が続いていました。商品(モノとサービス)の値段はほとんど動かない状態が続いていたのです。しかし、そこにインフレがやってきました。
2022年になると、モノやサービスの値上げに関する記事をメディアで見かけることが増えるようになりました。同年夏に行われた参議院選挙では「物価高」が争点のひとつと言われ、その後に行われた内閣改造や国会においても、「物価対策」が重要なアジェンダとされていました。こうした報道に日常的にふれるようになった世の中の人々のあいだでは、現在の日本のインフレ率はかなり高くなったという認識が広がっているかもしれません。
それでは、実際に日本のインフレ率はどのような値となっているでしょうか。ここでひとつの興味深い、そして驚くべきデータをお見せします。
下の図は、IMF(国際通貨基金)が2022年4月にまとめた、加盟国全体の2022年インフレ率ランキングです。2022年がまだ終わっていない段階の集計なので、ここでの数字は各国でこれまで公表されてきた毎月の数字をもとにIMFが予測したものです。予測ではありますがこれまでの実績に照らして確度はかなり高いと考えてよいと思います。
上から高い順に、各国のインフレ率が並んでいます。日本はどの位置にあるかと言うと、なんとこの図のいちばん下、IMFに加盟する192カ国中の最下位となっています。
そのIMFが予測した2022年のインフレ率は、0.984%となっています。つまり、日本の物価上昇率は1%にも満たないと予測されているのです。ランキングのいちばん上にあるベネズエラは500%を超えるインフレ率で、その次はスーダンの245%、さらにジンバブエの87%と続きます。
このような「ハイパーインフレーション」の国々はまったく違う力学が働いているので例外と言ってもよいでしょうが、他の先進国も、たとえば米国は7.68%、英国は7.41%、ドイツは5.46%となっています。どの国も、インフレターゲティングの下で中央銀行が目標値として設定している2%を超えている点に注意が必要です。
ただし、今回のインフレについては、米欧は日本と状況が大きく違います。パンデミック後の経済再開も日本よりずっと進んでいますし、ウクライナの戦争の影響を受ける度合いも日本とは比較になりません。その点、おとなりの韓国は日本との比較にちょうどよいと言えます。戦場から離れているという点でも、また、経済再開が始まったばかりという点でも、日本と状況がよく似ているからです。しかしその韓国でもインフレ率は3.95%であり、日本を3%ポイント近く上まわっています。
このデータを見る限り、2022年現在の日本のインフレは、物価高が喫緊の課題であるとメディアが謳うのとは裏腹に、少なくとも他国との比較においては圧倒的に低いインフレ率であり、危険な水準とは言い難い状況であることがわかります。
むしろ、日本が世界各国から「取り残されている」、異様な状態にあると私はみています。なお、IMFの予測は2022年4月時点のもので、日本のインフレ率が4月以降、加速したことは反映されていません。しかし仮にそれを勘案したとしても、最下位またはブービーで、「取り残されている」ことに変わりはありません。
実は「取り残されている」のは今に始まった話ではありません。下の図は、日本・米国・韓国・ベネズエラの各国について、2000年以降のインフレ率ランキングがどのように推移してきたかをチャートにしたものです。なお、先ほどの図は予測値でしたが、こちらはCPI(消費者物価指数)インフレ率の実績値を用いています。
一貫して上位を維持しているのがベネズエラで、中間で上下しているのが、日本、米国、韓国です。底を這うようになっている点線は、各年の最下位国の順位を示しています(年によって調査対象国の数が変わるため、最下位国の順位が変動しています)。
日本の位置を見ると、2000年からほぼずっと最下位近くで推移してきたことがわかります。例外は2014年で、このときに大きく順位を上げていますが、これは消費税率の引き上げが行われた影響によるもので、実力で順位を上げたとは言えません。
そして注目すべきは、2021年以降、日本がふたたび最下位になっていることです。つまり日本は、パンデミック後の世界的なインフレが発生する前も後も、相対的にはあまり物価が上がらない国だったということがわかります。
海外の雑誌などを見ると、東アジアは総じてインフレ率が低く、その中でも日本はとくに低くて、米欧のようなインフレ問題は存在しないという書き方をしているものもあるほどです。日本に値上げの波が来ているのは事実であり、そのこと自体を否定するつもりは毛頭ありません。ですが、日本語メディアの報道と海外の視線には大きな隔たりがあることは、認識しておいたほうがよいでしょう。
ところで、「最下位」で何がまずいのでしょうか。GDP成長率のような数値であれば高いほうがよいに決まっているけれど、インフレ率は高いほうが困るのだから、最下位でよいじゃないかと思う方もいると思います。ベネズエラやスーダンはもちろんのこと、米国や欧州諸国でもインフレ率が高すぎることが問題になっているのであり、だからこそ、これらの国では中央銀行や政府がインフレ率を下げる施策を懸命に打ち出しているのです。
しかし、高すぎるインフレ率が望ましくないのと同様に、低すぎるインフレ率も困りものです。多くの中央銀行が採用しているインフレターゲティングという制度においてその目標値を「2%」としているのには、それより上がまずいというだけでなく、それより「下」も望ましくないという意味もあるのです。
それにしても2%というのは不思議な数字です。物価は上がりもせず下がりもせず安定しているのがいちばんというのが健全な常識だとすれば、目標は「ゼロ%」になるはずです。なぜゼロではなく2なのでしょうか。
「2」という数字の根拠を説明するのは本書の域を超えるので立ち入ることはしませんが、なぜ「ゼロ」ではなく「ゼロを超える」数値なのかというのは、本書の主題に深くかかわる点なので、要点だけ説明しておくことにします。
金利引き下げの限界
2022年の米欧のように、中央銀行はインフレが起こると金利を引き上げることで対応します。容易に想像できるように、インフレが激しければその分、金利の引き上げ幅も大きくなります。しかも都合のよいことに、金利は青天井でどこまでも引き上げることができます。ですから、どんなに激しいインフレでも、中央銀行は金利引き上げで十分対応可能なのです。
ところが、インフレ率がゼロを下まわる場合、つまりデフレのときは事情が大きく異なります。インフレで金利を上げるのとは反対に、デフレでは金利を下げるわけですが、どこまでも下げられるかと言うと、そんなことはありません。「マイナス金利」というのを聞いたことがあるぞ、ゼロを下まわる金利も可能じゃないか、というように思われる方もいるかもしれません。
たしかに、ゼロを下まわる水準まで金利を下げることはできなくはないのですが、どこまでも下げていけるかと言うと決してそうではなく、金利には下限というものがあるのです。どこが下限かを数字で表すのは難しいですが、研究者のあいだではマイナス2%あたりが下限と理解されています。
デフレが起これば、中央銀行は金利を下げます。激しいデフレであればその分、金利の下げ幅も大きくなります。ここまではインフレのときと同じです。しかし金利には下限があるため、デフレがさらに激しくなると、中央銀行はもう対応できなくなるというポイントに、いつかは突き当たります。
つまり、中央銀行はインフレには強いがデフレに対してはそれほどでもないということです。そうであるなら、平時のインフレ率は「ゼロ」ではなく「ゼロを超える」値にしておくことで、デフレへの備えを厚くするのが賢明ということになります。先進各国の中央銀行がインフレターゲティングの目標値を「ゼロ」ではなく「ゼロを超える」値に設定している理由はここにあります。
「最下位」で何がまずいのかに話を戻しましょう。日本の数字はゼロを超えているので、その意味では最下位でも何の問題もありません。むしろ、米欧のようにゼロを大きく超えてしまうことと比べれば、ゼロを少し超える程度であるほうがずっとましです。最下位だからといって肩を落とす必要はありません。
しかしながら、ゼロを超えるか否かということとは別に、消費者物価の上昇率が長いあいだ最下位あたりにあるということに、まったく問題がないとは言えません。消費者物価の水準の格差が日本とその他の国々とで年々拡大し、そしてそれが積もり積もっていくと、日本の物価が海外の物価に比べて3割も4割も安いという、大きな内外価格差が生まれてしまうからです。
輸入品の値上げが進まない
次に、なぜ日本のインフレ率が最下位なのかを考えてみましょう。とくにパンデミック2年目から3年目になって、日本が最下位となった理由は何でしょうか。
下の図は、2022年の世界各国について、輸入品の物価の上がり方とCPI(消費者物価指数)の上昇率との関係が、どのようになっているかを表したものです。十字マークの一つひとつが、調査対象国を示していて、横軸には2022年1月から4月までの輸入物価インフレ率を、縦軸にはCPIインフレ率(IMFによる2022年の予測値)をとっています。
「輸入物価」とは、輸入品が各国に到着した段階の価格のことで、その国の通貨で表示されています。日本の場合は、原油などのエネルギーや小麦等の穀物などが大きな割合を占めています。
図の点の散らばりを見ると、大まかに言って、左下から右上の方向に点が並ぶ傾向があります。つまり、輸入物価インフレ率の高い国ほどCPIインフレ率が高くなる傾向があるということです。それが何を意味するのかと言うと、2022年のインフレは、各国の国内的な要因によって起こったというよりも、特定のいくつかの国のインフレが貿易を通じてその他の国に飛び火するというかたちで起こったということです。
インフレの震源地は、ひとつは米国や英国などで、これらの国々では、パンデミックの後遺症として人手不足やモノへの需要シフトが起こりました。もうひとつの震源地は、ウクライナ・ロシアとその近隣の欧州諸国で、戦争と経済制裁の影響で物価が上昇しています。この2つの震源地から全世界にインフレがばらまかれたのです。
では、日本はこの図のどこに位置しているでしょうか。それは、○囲みで示しているところです。一見してわかるとおり、多くの点が集まるところとは離れています。つまり、日本は世界の傾向から逸脱しているということです。
どのように逸脱しているかというと、横軸に示した輸入物価インフレ率は約50%で、対象国の中でもむしろ上位に位置しています。ご承知のように日本は輸入に依存する度合いの高い国のひとつですが、とりわけエネルギーと穀物は多くを輸入に頼っています。今回のインフレではその2つの品目が激しく上昇しているので、日本の輸入物価も大きく上昇しているのです。
その一方で、日本のCPIインフレ率はほぼゼロで、先ほども見たとおり世界の最下位です。これが何を意味するのかというと、海外から輸入する商品の価格は上がっているが、それが国内価格に転嫁されていないということです。どの国でも、輸入物価の上昇分を完全に国内価格に転嫁しきれているわけではないのですが、日本は転嫁できていない度合いが他国と比べて突出して高いということです。
少し違う見方をすると、日本のCPIインフレ率がほぼゼロで最下位というのは、価格を上げる必要がないから結果的にそうなった、というわけではないということが、ここには示されています。
輸入物価は上がっているので、CPIインフレ率が上昇する素地は十分にあります。それなのに、輸入品を加工し完成品に仕上げる企業や、輸入したエネルギーを利用して生産を行う企業が、エネルギーと輸入原材料の価格の上昇を自社製品の価格に転嫁するのを控えており、その結果、国内価格の上昇が抑えられているのです。
当然のことながら、これらの企業も好き好んで価格転嫁を抑制しているわけではありません。とくに輸入品を多く扱う企業(とりわけ中小企業)にとっては死活問題になるのです。
(渡辺 努 : 東京大学大学院経済学研究科教授)