インフレに慌てる日本を襲う「次なる危機」の正体
商品価格の値上がりと円安がこのまま進めば、スタグフレーションに陥る危険性が高い(写真:maroke/PIXTA)
現在、食料品を中心に多くの商品価格が値上がりしており、インフレの様相を呈しています。さらに円安が急激に進んでおり、このままではスタグフレーションに陥る危険性が高いと経済評論家の加谷珪一さんは、警鐘を鳴らします。加谷さんの新刊『スタグフレーション 生活を直撃する経済危機』をもとにした特別寄稿をお届けします。
日本はデフレじゃなかったの?
政府は9月9日、物価高騰を受けて住民税の非課税世帯を対象に1世帯当たり5万円の給付金支給を決定しました。また東京都も、エネルギー価格の高騰等で売上高が減少している中小企業を対象に支援金を支給することを決定しています。これらからは、昨年までのデフレ(=デフレーション。物価の継続的下落)から、インフレ(=インフレーション。物価の継続的上昇)に変化したように見えます。
しかし、一連の値上げは2022年になって急に実施されたわけではありません。価格の引き上げは、すでに1年以上前から顕著となっていました。では、なぜ商品の価格が上がっているのに、私たちはそれに気づかなかったのでしょうか。
その理由は、消費者には見えにくい形で値上げが行われていたからです。
企業は商品を仕入れ、それに付加価値を乗せて消費者に販売しています。景気がいい状態であれば、企業の仕入コストが上昇した分は、容易に価格に転嫁することができます。ところが、不景気のときには消費者の購買力は低下しますから、一部の企業では価格を据え置いて内容量を減らす、あるいは製品の質を下げるなど、外からはわかりにくい形で値上げを実施します。
たとえば200円の価格で内容量が10個だったお菓子が、価格は同じ200円のまま、内容量を8個に減らすといった措置がこれに該当します。こうした値上げを、ちまたでは「見えにくい値上げ」という意味で「ステルス値上げ」などと呼んでいます。
同様に、価格を据え置きつつ、使用する素材の質を落とすという形でコストを削減する方法もあります。従来は、150円のキッチンペーパーはB品質、200円のキッチンペーパーはA品質だったと仮定しましょう。企業は製品ラインアップを一新する際、200円のキッチンペーパーにB品質の素材を用い、従来200円の製品で使っていたA品質の素材は、さらに価格が高い300円のキッチンペーパーで使用します。
製品の品質について吟味する消費者であれば、質が下がったことがわかりますから、お金に余裕がある人は300円の商品に切り換えるでしょう。いっぽう、そこまで品質を気にしない人の場合、従来と同じ価格帯である200円の商品を継続購入すると考えられます。製品体系全体で考えれば、より高い価格帯にシフトできたことになりますから、実質的な値上げということになります。
本来、こうした値上げは正攻法ではないのですが、不景気が長く続いた日本では、名目上の値上げを決断しにくく、見えにくい形での値上げが続いてきました。実際、2020年あたりからステルス値上げが目立つようになっていましたが、2021年までは名目上の値上げに踏み切る企業は少数派でした。
2年間、ステルス値上げで何とか我慢してきたものの、いよいよコスト上昇に耐えられなくなり、各社がいっせいに名目上の値上げに踏み切ったのが、2022年春だったのです。
物価はさらに上がる
それでは、どのような商品の価格が上がったかを具体的に見てみましょう。
図は1月以降、値上げを実施した製品やサービスのリストですが、食品類が多く、小麦粉や食用油など基本的な食材を使用する製品の値上げが顕著であることがわかります。パンや食用油はすでに複数回値上げを実施しているケースもあり、ほかの商品でも今年中に複数回の値上げが行われる可能性があります。
値上げの幅は製品によって異なりますが、10%程度の値上げ幅を設定する企業が多いようです。帝国データバンクの調査でも似たような結果が得られています。同社が主要食品メーカー105社に対して販売価格の調査を行ったところ、2022年4月までに値上げを実施した品目は4000を超えており、平均的な値上げ幅は11%でした。
値上げ幅が一定範囲に収束していることには理由があります。消費者に販売する最終製品とは異なり、企業が仕入れる商品(原材料など)は、高い頻度で価格が上がります。しかし、原材料価格が上がるたびに最終製品の価格を調整していては、消費者が混乱してしまいます。企業にとっても、価格を上げた場合、どの程度までなら売上高が落ちないのか、最終的な損益はどうなるのかなど、事前に調査する必要があるため、価格改定をしすぎると非効率になります。
このため、企業としてはある一定範囲を超えてコストが上昇した場合でも、消費者へのインパクトを考慮に入れて値上げ幅を決定します。1割程度の値上げが、おそらく消費者が受け入れやすいギリギリの範囲であり、結果として、値上げ幅は10%程度に収束しているのです。
この話を逆に考えれば、企業はコスト上昇分を吸収できるまで、10%程度の値上げを何度も繰り返す可能性が高いということになります。すでにパンや食用油はそうなっていますが、今後も原材料コストの上昇が続いた場合、10%程度の値上げが複数回実施されると考えてよいでしょう。
単なるインフレではない
日本は過去30年にわたってデフレが続いていましたから、多くの人がインフレというものの現実についてよく理解していません。
これまでの時代は、デフレさえ脱却すれば日本経済が鮮やかに復活するという安易な主張をよく耳にしましたが、インフレはそのような生やさしいものではありません。いったん、制御できないインフレが始まってしまうと、国民生活にはきわめて大きなダメージが及びます。
さらに恐ろしいのは、スタグフレーションです。スタグフレーションとは、「スタグネーション(景気低迷)」と「インフレーション(物価上昇)」の合成語であり、景気が後退するなかでインフレが同時進行する経済現象を指します。スタグフレーションに陥った場合、ほとんどの経済政策が効果を発揮しなくなり、その回復はきわめて困難です。
実は、先進各国のなかでスタグフレーションのリスクがもっとも高いのが日本です。日本の場合、景気の低迷が長く続いており、企業の仕入コスト上昇を製品価格に転嫁しにくい状況にあります。コスト上昇分を価格に転嫁できなければ、賃金も上がりませんから、消費者は購買力を高めることができません。加えて為替市場では急ピッチで円安が進んでおり、輸入品の価格上昇によって国民生活はさらに苦しくなっています。
2022年の春闘では、大手企業は2.27%の賃上げを実現したとされていますが(5月時点)、賃金上昇分のほとんどは、年齢給など定期昇給によるもので、本当の意味での賃上げに相当するベースアップ(ベア)分は1%以下です。4月の段階ですでに消費者物価指数は2.5%ですから、実質的に賃金はマイナスと考えてよいでしょう。
物価が上がっているにもかかわらず、賃金がそれに追い付いていない状況ですから、厳密な用語の定義はともかく、見方次第では、すでにスタグフレーションに入っていると考えることも可能です。
日本経済はまさに瀬戸際
困ったことに、日本の場合はインフレによるコスト上昇に加えて、円安という特殊要因が加わっています。円安が進んでいる詳しい理由については次回解説しますが、日銀が量的緩和策を継続し、低金利政策を維持する限り、円安が進む可能性が濃厚です。
日本の輸出が活発だった時代は、円安が進めば輸出企業の業績が上向き、賃金の上昇が期待できました。ところが現在、製造業の多くは生産極点を海外に移しており、以前ほど円安によるメリットは享受できない体質になっています。
いっぽうでエネルギーや食糧に加え、最近ではスマートフォンや家電など、工業製品についても輸入に頼るようになっています。ただでさえ、海外の物価が上がっているところに円安が加われば、輸入品の価格が上昇し、国民生活はさらに苦しくなります。
もし、企業がコスト上昇分を適切に価格に転嫁できなかった場合、さらなる減益や賃下げに追い込まれる可能性が高いと考えられます。企業が輸入価格の上昇を製品に転嫁しないということは、国民全員が貧しくなることとほぼイコールであり、これはまさに不景気下のインフレ、つまりスタグフレーションです。
ひとたびスタグフレーションに転落した国が、事態を改善させるのは容易なことではありません。日本経済は、まさに本格的スタグフレーションに転落するかどうかの瀬戸際に立たされているのです。
(加谷 珪一 : 経済評論家)