戦前戦中の日本航空技術の集大成ともいえる二式飛行艇が、世界で唯一、鹿児島に保存されています。現代のUS-2救難飛行艇にも活かされている二式飛行艇の技術力について見てみます。

軍縮が生んだ巨大飛行艇の誕生

 鹿児島県の東側、大隅半島の中央には海上自衛隊の鹿屋航空基地があります。その横に伸びる国道269号線を車で走っていると突然、ヤシの木の合間から日の丸を付け、濃緑色に塗られた巨大な飛行機が、目に飛込んで来ます。これは旧日本海軍が太平洋戦争中に運用した二式飛行艇です。

 同機は約170機生産されたものの、現存するのは、ここ鹿屋に残るのが世界で唯一とのこと。その全幅は38mにも及びます。なぜこんな大きな航空機が80年以上前に作られたのでしょうか。


海上自衛隊の鹿屋航空基地資料館の敷地内で展示される二式飛行艇一二型。側面に回ると前後に絞られた船型の胴体形状が確認できる(吉川和篤撮影)。

 戦前の1930年代、ワシントン海軍軍縮条約やロンドン海軍軍縮条約などにより、旧日本海軍は軍艦の建造が制限されていました。そこで海軍は、船が造れないのであれば、代わりに陸上攻撃機や飛行艇など航空機を揃えて、それらを有効に使うことで洋上の敵艦を索敵・攻撃しようとする計画を立てます。

 前者のプランが結実したものが三菱重工の一式陸上攻撃機で、太平洋戦争の序盤、1941(昭和16)年12月に起きたマレー沖海戦ではイギリス海軍の戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と巡洋戦艦「レパルス」を撃沈する殊勲を挙げています。一方、後者のプランは川西航空機(現在の新明和工業)が担当する形で十三試大型飛行艇の名で開発が継続され、1941(昭和16)年1月に初飛行に成功、「二式飛行艇」として制式採用されました。

 この飛行艇は、開発するにあたり先に述べたような敵艦の主砲射程や、艦載機(空母搭載機)の行動半径の外側から攻撃できる(いわゆるアウトレンジ)長い航続距離と、陸上機並みの攻撃力および飛行性能を兼ね備えることが求められました。元々、飛行艇は胴体が着水するために大きな船型の形状をしており、重量や空気抵抗も自然と増えるため、陸上機と比べ速度や機動性などで不利な面を抱えています。しかし、川西航空機の設計チームは海軍の要求に応えようとゼロから基礎設計を行い、陸上機に負けない高性能を持つ4発エンジンの大型飛行艇を完成させたのです。

戦闘機も撃退した攻撃力

 こうして誕生した二式飛行艇は、その巨体ゆえに「二式大艇」とも呼ばれました。性能は、優れた機体設計と、爆撃機用の高出力エンジンである三菱「火星」を4基搭載したことで、全長28m、全幅38mの大型機にも関わらず、一二型で最高時速470km/hに達したほか、主翼や胴体各部に設けられた計14個の燃料タンク(合計1万7千リットル)により航続距離も最大で8000kmを超えるなど、まさに陸上爆撃機に比肩する高性能を有していました。

 そのため、優れた飛行性能を活かして太平洋上での攻撃や偵察、救難、気象観測などに多用されただけでなく、輸送型「晴空」も36機作られて南方での物資や人員の輸送に用いられています。


太平洋戦争中、洋上を飛行する二式飛行艇。胴体上部や前後に20mm機関砲各1門を搭載した動力銃座が見える(吉川和篤所蔵)。

 また、当時の飛行艇としては強力な武装も特徴のひとつでした。大口径の20mm機関砲5門を機体前後や上部の動力銃座、上側面左右の銃座などに配置しており、加えて7.7mm機関銃4挺(内3挺は予備)を備えていたほか、主翼下に爆弾2tまたは航空魚雷2発(17号機まで)を搭載可能でした。この武装でアメリカ軍機ともたびたび空中戦で渡り合い、時にはB-25双発爆撃機やB-17四発爆撃機を返り討ちにしたこともありました。

 特筆すべきは、1943(昭和18)年11月のケースでしょう。南太平洋戦域でアメリカ陸軍のP-38双発戦闘機3機に襲われた二式大艇は、エンジン2基が停止して1名の負傷者を出しながらも敵機1機を機関砲射撃で撃退、辛くも基地に帰り着いています。

 しかし、いくら重武装の二式大艇でも太平洋戦争末期になりアメリカ側に制空権を握られるようになると、敵戦闘機の餌食になることも増えます。また、その巨体ゆえに敵機から隠れたり移動したりするにも、他機と比べ準備が掛かることから、空襲などでも失われることが多くなりました。

 結局、1945(昭和20)年8月の終戦時における稼動機は、二式大艇5機と輸送機型の晴空6機の11機だけでした。しかも、さらに数日のうちに8機が処分や事故で失われてしまいます。こうして、戦後アメリカ軍が引き渡しを求めた際、残っていたのは、香川県詫間海軍航空隊の3機だけになっていました。

残された機体と現代へ続くレガシー

 戦争中からこの二式大艇の性能に注目していたアメリカ海軍は、詫間基地に残された3機に目を付けます。そのなかで最も状態の良かった一二型の第426号機がアメリカ本土に送られることとなり、入念な整備ののち横浜経由でアメリカ本土に渡りました。

 アメリカ本土に到着した二式大艇426号機は、バージニア州ノーフォーク海軍基地で各種テストを受けますが、離水能力以外はアメリカ海軍のPBY「カタリナ」飛行艇を上回る性能だったそうです。その後、エンジン故障により飛行できなくなったことで、スクラップも検討されますが、関係者の反対により梱包されて基地に残されました。ただ、このことが426号機の運命を変えたと言えるでしょう。


海上自衛隊のUS-2。川西航空機が戦後、社名を変えた新明和工業が開発した大型の救難飛行艇で、二式大艇から受け継いだDNAを今に伝えている(画像:海上自衛隊)。

 こうして426号機が永い眠りについている間、日本では二式大艇の返還運動が起きます。一方、アメリカ側も当初は426号機を永久保有するつもりでしたが、経費削減の影響から手放すことを決定しました。

 こうした経緯から、東京お台場の船の科学館が引き取りに名乗りを上げ、二式大艇426号機は1979(昭和54)年11月、約30年ぶりに里帰りを果たします。翌1980(昭和55)年7月から同館敷地内で屋外展示がスタート。その後、鹿児島県の海上自衛隊鹿屋航空基地資料館に移譲され、2004(平成16)年4月からは鹿屋航空基地の一角で展示されるようになっています。

 ちなみに、移譲時の取り決めにより二式大艇の機体は5年おきに塗装を塗り直すことになっているため、屋外での展示にも関わらず劣化は最小限で抑えられています。とはいえ、構造上は仕方ない部分に雨水が浸透して引き起こす腐食などに加えて、毎年の台風や風雨によるダメージが一定程度あると考えられるため、できれば屋内での永年展示が望まれるでしょう。

 二式大艇を作り上げた川西航空機は戦後、新明和工業と名前を変えてYS-11旅客機を製造するとともに、戦前戦中のノウハウを活かして海上自衛隊向けに大型の飛行艇PS-1やUS-1などを開発・生産してきました。いまも、その技術や伝統は、海上自衛隊向けの救難飛行艇US-2に連綿とつながっています。

 もし鹿屋に訪れる機会があるのなら、この大きな二式飛行艇(二式大艇)を目の当たりにして、過去と現在の日本の飛行艇に思いを馳せてみるのも良いのではないでしょうか。