愛媛県大洲市という人口4万人ほどの町にある私立、帝京第五の野球部監督に、元プロ野球選手の小林昭則が就任したのは2016年4月のこと。帝京(東京)のエースとして1985年春のセンバツで準優勝した投手は、1989年ドラフト2位でロッテオリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)に入団したが、7年間で1勝も挙げることができず、ユニフォームを脱いだ。


2016年4月に帝京第五の監督に就任し、夏の甲子園に初出場した小林昭則監督

 引退後は球団職員を務めたのち、母校である帝京野球部のコーチとして甲子園に立ったこともあったが、その後は野球部ではなく、バスケットボール部の顧問として指導していた。

 その小林が帝京第五の監督に就任したのは、甲子園に出るためだ。しかし、県内では強豪と認められていたが、長く聖地に足を踏み入れることができなかった。県大会の準決勝や決勝に進みながら、苦杯をなめ続けたチームには問題が多かった。

 突出した選手がいない。チームには負け癖がついている。選手たちの生活態度は褒められたものではなく、意識も低い。

 小林は当時をこう振り返る。

「(2016年まで)帝京第五は1年おきに監督が交代するような状態だったので、選手には指導者に対する不信感みたいなものがあったような気がします。私が就任してすぐに厳しい言葉をかけた時の選手たちの目が忘れられません」

 全員を集合させ、自己紹介に続いて今後の方針を言い渡した。小林にとっては基本的なことばかり。しかし、選手の顔には新監督に対する反発の色が浮かんでいた。話をしたあとに遠くから彼らのほうを振り返ってみると、全員が小林を睨みつけていたという。

「困惑や不安を隠すために、反発するような態度をとったのでしょう。それまで指導者に放任されていたので、厳しい監督に対するアレルギーもあったはず。それを見て『きた! きた!』と思いました」

生活面の変化は勝敗に関係する

 過去、甲子園出場は一度しかないが、県内はもちろん、関西からも腕自慢の選手たちが集まってくる。自分の実力に自信を持つ彼らが、新しい監督をすんなり受け入れるはずがない。

「私は、それだけパワーがあると感じました。鍛えがいのある選手たちだと。実際に一対一で話をすると、反抗的に見えた選手たちも、目をギラギラさせて食いついてきた。聞く耳を持ってくれたので助かりました」

 その秋の愛媛県大会で準優勝。四国大会で高松商業(香川)、英明高校(香川)など強豪を撃破して決勝に進出。翌春のセンバツ大会の出場権を手に入れた。

「四国大会決勝まで勝ち上がることができたのは、技術を磨いたからではありません。私が監督になった時にほかの先生から言われたのは、『野球部員の生活態度をなんとかしてほしい』ということ。授業をきちんと聞く、提出物を期限までに出す、服装を整える。学生として当たり前のことを当たり前にやれるように厳しく指導しました」

 生活面の変化が野球の勝敗にも関係している、と小林は胸を張った。

 48年ぶりに出場した春のセンバツは強豪の作新学院(栃木)に1対9で敗れたが、2017年夏の愛媛大会は、甲子園を経験した選手たちが中心となってチームは躍進するかと思われた。しかし、決勝で済美に3対10で屈し、春夏連続の甲子園出場を阻まれて以降は苦しい戦いが続くことになる。

 2018年夏は県大会2回戦で敗れ、秋の県大会を制したものの、四国大会初戦で敗退。2019年夏、2021年夏も3回戦で姿を消している。「甲子園に出るために」単身で愛媛にやってきた小林監督にとって雌伏の時だった。

 この夏、帝京第五は愛媛大会決勝で前年王者の新田に競り勝ち、甲子園に戻ってきた。夏の甲子園に出場するのは初めてのことだ。決勝戦後に涙を流した小林監督は「長くはなかった。あっという間だった」と語った。

コロナに苦しんだ初の夏

 小林が監督に就任した時に3年生だった大本将吾(元福岡ソフトバンクホークス、現愛媛マンダリンパイレーツ)は決勝戦を観戦したあと、「欲を出さずに一生懸命にプレーする姿は勉強になった。小林先生のサインを完璧にこなす選手たちはすごかった」と後輩たちを称えた。

 夏の愛媛大会初優勝に、小さな町が沸いた。

 しかし、決勝戦翌日から新型コロナウイルスが猛威をふるう。ほとんどの選手が陽性となり、隔離生活を余儀なくされた。試合日程調整の結果、18人の登録メンバーはひとりも交代することなく甲子園の土を踏むことができたものの、本来のコンディションからは遠かった。

 先発したエースの積田拓海は「気持ちだけは負けないように」と奮闘したが、味方のエラーもあって初回から5失点。中盤まで必死で食らいついたものの、「ピッチング練習を始めたのは3日前くらい。選手全員が揃ったのは昨日(8月12日)」という状態では、九州学院(熊本)相手に4対14の敗戦も責められない。

 敗れた小林監督は試合後にこう語った。

「一時は出場辞退も考えましたが、日本高野連のご配慮により、甲子園で試合することができて感謝しています。選手たちはみんな、フーフー言いながら試合をしていましたし、足が攣った選手が何人もいました。それでも、最後までよく頑張ってくれました。

 甲子園に来たからにはハツラツとしたプレーをして初勝利を目指そうと生徒には話をしましたが、練習ができないとこういう試合になってしまう。日頃の練習の大切さをあらためて実感しました」

「コロナのせいにはしたくない」と小林監督は言うが、「普段と比べれば20パーセントか30パーセント」のコンディションでは初勝利をつかめるはずはなかった。

「やっぱり甲子園は甘くない。試合に出た2年生もたくさんいるので、甲子園の経験を新チームで生かしたい」

 全国の舞台から遠ざかっていたチームを5年間で2度甲子園まで連れてきた小林監督の手腕が試されるのはこれからだ。