京急空港線が「穴守線」として開業 ふたつめの「参拝用路線」-1902.6.28
120年前の6月28日、京急空港線の最初の区間が開業しました。
「空港線」となるまでの道のり
かつて京急で走っていたデ51形電車(草町義和撮影)。
今から120年前の1902(明治35)年6月28日。現在の京急空港線となる蒲田〜穴守間の鉄道が開業しました。
現在は羽田空港へのアクセスを担う路線ですが、当初は穴守稲荷神社への参拝客を乗せる路線として建設されました。京急の前身である京浜電気鉄道は3年前に川崎大師へのアクセスを担う大師線を開業しており、同社としては2路線目となる「神社アクセス鉄道」でした。ちなみに東京・横浜間が全通するのは3年後のことです。
当時の穴守駅は、現在でいう天空橋を渡る手前あたりに位置していました。しかし当時の穴守稲荷神社は、羽田地区からさらに海側の「鈴木新田」という農村地帯にありました。現在の羽田空港B滑走路のあたりです。1km近く歩くのは不便だったため、1913(大正2)年に海老取川を渡って東へ延伸し、神社の目の前までアクセスできるようになりました。京急はあわせて運動公園や海水浴場なども整備。穴守線は一気に観光路線として飛躍します。
一大観光地となった穴守稲荷も、太平洋戦争で被災し、連合国軍に用地を接収され、移転を余儀なくされます。これに伴い神社最寄り駅も、現在の穴守稲荷駅となります。一方で、1951(昭和26)年には羽田飛行場で定期航空路線が就航したのをうけ、1956(昭和31)年には羽田空港駅まで延伸します。路線名称が「空港線」となるのは1963(昭和38)年のことです。
この羽田空港駅、開業当時の穴守駅と同じ、天空橋を渡る手前にありました。当然、空港へはシャトルバスを利用しないと移動が大変でした。この状況が解消されるのは37年後の1993(平成5)年のことで、その後さらに空港拡張にあわせて1998(平成10)年に羽田空港第1・第2ターミナル駅まで延伸開業し、現在に至ります。