日韓W杯20周年×スポルティーバ20周年企画
「日本サッカーの過去・現在、そして未来」

 日本を熱狂の渦に巻き込んだ、サッカーの2002年日韓W杯から20年が経った。この特集では、当時のサッカー界の模様を様々な角度から振り返っていく。
 アジア初のW杯開催を巡って、日本と韓国で激しい招致活動が繰り広げられていたが、最後はW杯史上初の共同開催という驚きの結果になった。この経緯を1974年大会からW杯を取材しているベテラン記者が綴る。

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「2002年大会をアジアで開催したい」

 2002年のFIFAワールドカップは、史上初めてアジア大陸で、そして史上初めて2カ国共同開催という形で開催された。

 最初に「日本開催」の話が出たのは1970年にワールドカップがメキシコで開催された時だった。大会の視察に訪れた日本サッカー協会の野津謙会長に対して、FIFAのスタンリー・ラウス会長から「1978年大会を日本でやれないか」と打診があったのだ。


2002年W杯の日韓共催が決まった直後の日本の長沼健会長(左)韓国の鄭夢準会長(右)

 しかし、日本側はすぐにその申し出を断った。誰もが「無理だ」と思ったのだ。

 日本は1968年のメキシコ五輪で銅メダルを獲得していた。だが、当時のオリンピックはアマチュアだけの大会。西欧や南米のチームはプロ契約をする前の若手や純粋アマチュアだけのチームで、プロ級が参加する東欧の社会主義国がほとんどメダルを独占していた。銅メダルを取った日本も、準決勝で対戦したハンガリーには0−5と大敗を喫していた。

 僕が初めてワールドカップ観戦に現地まで行ったのは、1974年の西ドイツ大会だが、そこで見たのは普段日本で見慣れていたサッカーとはまったく別の競技のようだった。テクニックも、スピード感も、フィジカルの強さも日本のサッカーとは比べ物にならない。当時の日本は、アジア予選を突破することすら"夢のまた夢"という状態だったのだ。

 それに、日本には野球場を除けば、5万人を収容できるスタジアムは東京の国立競技場しかなかった。

 それから16年の時間が経過して、1986年に再びメキシコでワールドカップが開かれた時、また日本開催の話が出た。FIFAのジョアン・アヴェランジェ会長が「2002年大会をアジアで開催したい」と発言したのだ。

 ブラジル出身のアヴェランジェ会長は、欧州諸国以外の支持を集めて会長選挙で勝利した。そのため、アジア、アフリカでのサッカー振興に熱心だったのだ。そして、もしアジアで開催するとすれば、当時、世界第二の経済大国だった日本が最有力候補なのは誰の目にも明らかだった。

国内の機運の高まり

 1970年ワールドカップの試合がテレビで放映されたことがきっかけで、1980年代になると日本でも個人技を身につけた若い選手たちが育ってきていた。実際、1985年のW杯アジア予選では、日本は最終予選東地区の"決勝"まで勝ち進んだ。最後はすでにプロ化していた韓国に敗れたが、日本サッカーのレベルが上がっているのは間違いなかった。

 そこで、日本サッカー協会は1986年10月の全国理事長会議で賛同を得たあと、村田忠男理事を中心にワールドカップ招致に動き始め、1991年には正式に招致委員会も発足させた。

 最大の問題はスタジアムだったが、1980年代後半にはプロリーグ創設の動きが始動していた。

 無理をして巨大スタジアムを建設しても、大会後に使用できないのでは資金の無駄遣いになってしまう。だが、プロリーグができるのなら、新設されたスタジアムはプロの試合に使用することができる。

 一方、プロリーグ成功のためにも大規模スタジアムの建設が必要だった。そこで、ワールドカップ招致とプロリーグ(Jリーグ)創設は「車の両輪」のような存在となっていく。

 Jリーグが1993年にスタートすると、入場券はプラチナチケット化。当時日本に存在した小さなスタジアムはすべて満員となった。つまり、大会後にはJリーグクラブのホームスタジアムとして使えるメドが立ったので、各地でワールドカップのための大規模スタジアム建設の計画が進んでいった。最終的には15の自治体が開催地として立候補している。

 こうして、2002年ワールドカップが日本で開催されるのは、既定の事実かのように思われていた。

 ところが、1993年に韓国が突然、立候補の意向を示したのである。

 この年、大韓蹴球協会会長に就任した鄭夢準(チョン・モンジュン)会長は「一度もワールドカップ出場したことのない日本でなく、すでに何度も出場している韓国で開催すべきだ」と主張したのだ。

鄭夢準会長の政治的手法

 鄭夢準会長は韓国有数の現代(ヒョンデ)財閥創業者の息子で、現代重工業の会長。1988年からは国会議員も務めていた。そして、1993年に大韓蹴球協会の会長に就任していた。

 これは、筆者が当時の鄭夢準会長の腹心の部下だった人物からのちに聞いた裏話なのだが、鄭夢準会長も最初は「招致活動で日本に勝てる」と本気で思っていなかったそうだ。「ワールドカップ招致レースに手を挙げれば、政府からスタジアム整備のための予算を獲得できるかもしれない」というのが本音だったとのこと。

 だが、韓国の招致活動は次第に本格化していく。とくに、1993年秋にカタールのドーハで開かれたアメリカW杯最終予選の最終日に、イラクに引き分けた日本に代わって韓国代表が2位に浮上して出場権を得たことも、ひとつのきっかけとなった。

 なにしろ、相手が日本なので、韓国としては負けるわけにはいかない。また、招致活動で日本に勝利してワールドカップを開催できれば、鄭夢準会長にとっては大統領選挙での勝利も見えてくるかもしれない。

 だが、招致活動では日本がはるかに先行していた。アヴェランジェ会長も日本開催を支持している。さらに、1997年にはIMF(国際通貨基金)の救済を仰ぐことになるなど1990年代後半に韓国経済は失速していた。

 そこで、1995年にアジアサッカー連盟での選挙に勝利してFIFA副会長に就任した鄭夢準会長は、招致レースを"政治化"していく。政治学の分野で「リンケージ」と呼ばれる手段だ。

 1974年にFIFA会長に就任したアヴェランジェ会長は、世界的な有力企業「コカ・コーラ」をスポンサーにつけてワールドユース大会(現、U−20ワールドカップ)を開催したり、発展途上国をサポートするなどの成果をあげていたが、その独裁的な運営に対してヨーロッパ諸国が反発を強めていた。

 当初はアヴェランジェ会長を「商業主義的すぎる」と批判していたヨーロッパ諸国だったが、レナート・ヨハンソン会長の下で欧州サッカー連盟(UEFA)は1992年に従来のチャンピオンズカップを「チャンピオンズリーグ」にし、ワールドカップを凌ぐとも言われるビッグビジネスとして定着させていった。

 UEFAと組んでこうした商業化を推し進めていたのがマーケティング会社の「TEAM」だった。その「TEAM」は、アヴェランジェ会長の下でビジネスを行なっていた「ISL」とはライバル関係にあった。

 こうして、アヴェランジェ会長のFIFA対ヨハンソン会長のUEFA、ISL対TEAMという対立が生じていた。そして、そこに目をつけた鄭夢準会長は、ワールドカップ招致活動をそうした対立とリンクさせたのだ。

FIFA会長から共同開催の提案

 日本招致を目指す、日本サッカー協会の長沼健会長は「地球を15周した」と言われるように世界を飛び回ってアピールを重ねた。宮澤喜一元首相や森喜朗元自民党幹事長(2000年から首相)などの政治家も招致活動に加わった。

 アヴェランジェ会長の支持をバックに、日本の開催能力をアピールするという正攻法の招致活動だった。

 しかし、鄭夢準会長の戦略は功を奏し、UEFAなどは韓国支持に回り始める。だが、当時のFIFAにとっては日本企業の存在感も大きかった。なにしろ、ワールドカップのスポンサー12社のうち3社(キヤノン、富士フイルム、日本ビクター)が日本企業だったのだ。また、韓国は経済的苦境にあり、韓国にとって単独開催の負担は大きすぎた。

 そこで、反アヴェランジェ陣営から「共同開催」という提案がなされることになったのだ。アヴェランジェ会長が推進していた日本単独開催案を否決することによって同会長の権威を切り崩すことができるし、鄭夢準会長も日本が先行していた招致合戦で共同開催を実現すれば、それを「勝利」と見なすことができた。

 2002年大会の開催国は1996年6月1日にスイス・チューリヒで開かれるFIFA理事会での投票で決まることになっていた。しかし、その前々日の5月30日に現地に滞在していた日本の代表団にFIFAのジョゼフ・ブラッター事務局長から「FIFAが共同開催を提案したら日本は受け入れるか」という連絡が入った。

 日韓両国の招致活動の加熱化によって、第三世界の多くの国もどちらかを選択することが難しくなり、UEFA陣営が推す共同開催に傾いていった。そのため、予定どおりに投票を行なったら日本単独開催案は否決される見通しが濃くなったのだ。

 そうなったら、アヴェランジェ会長は完全に権威を失うことになる。そこで、アヴェランジェ会長は権力を維持するために、自ら「共同開催」を提案することを決めたのだ。

 アヴェランジェ会長を信じて活動を続けていた日本サイドにとっては大きな裏切りだったが、日本としても「共同開催」を受け入れるしかなくなった。

 こうして共同開催が決まった直後の、満面に笑みを浮かべた鄭夢準会長と苦渋に満ちた長沼会長の表情がすべてを物語っていた。

 筆者は、FIFAの決定を受けての韓国の反応を取材するため、5月下旬から韓国に滞在。鄭夢準会長がチューリヒから帰国した際もソウルの金浦空港で取材したが、会長はまるで凱旋将軍のような歓迎を受けていた。

 日本単独開催が実現しなかったのは残念だったし、韓国がなりふり構わない形で準決勝進出を果たしたことによって「後味の悪さ」は残った。

 だが、2002年大会の共同開催実現によって日韓両国の相互理解は間違いなく深まったし、両国ではスタジアムだけでなくトレーニング場なども整備された。

 大会開催から20年が経過したが、今の僕は「どちらかが単独開催することによって、もう一方のサッカー界が深い傷を負うよりもよかったのではないか」と思っている。