物価高と政情不安に陥った南アジア諸国の苦難
2022年4月28日、スリランカで行われたゼネストに参加する市民たち。政府への不満が高まっている(写真・2022 Bloomberg Finance LP)
世界的な食料・エネルギー価格の高騰が、南アジア各国に深刻な打撃を与えている。元々経済基盤が脆弱だったところに、新型コロナウイルスのパンデミックによって経済活動が大きな制約を受けていた。同時にインフレも進行し、国民生活は厳しさを増していた。
そこに追い打ちをかけたのが、ロシアのウクライナ侵攻だ。南アジアの多くの国がエネルギーを輸入に頼っているなかで、ガソリン価格の急騰や停電をもたらした。一部の国では、物価上昇に対する不満が社会に広がり、激しい政府批判やデモが起きた。これに各国固有の政治的対立が加わり、政権が転覆する事態になった国もある。
軍との関係と物価高で失職したパキスタン首相
物価高が政権交代をもたらすにまで至ったのがパキスタンだ。
2022年4月10日、下院で野党が提出した首相不信任案の採決が行われ、僅差で可決された。これにより、イムラーン・カーン首相は失職となり、政権は崩壊した。翌日には新首相を決める選挙が行われ、最大野党を率いるシャバーズ・シャリーフ氏が選出された。
カーン前首相はかつて、パキスタンで圧倒的な人気を誇るスポーツであるクリケットのスター選手だった。パキスタン代表のキャプテンを務め、1992年のワールドカップではチームを優勝に導いた国民的英雄だ。現役引退後に政界に転身し、「パキスタン正義運動」(PTI)を立ち上げた。当初は泡沫政党でしかなかったが、徐々に議席を増やし、2018年の総選挙では過半数にこそ及ばなかったものの第1党となり、連立政権を発足させた。パキスタンで絶大な影響力を持つ国軍からも支持を受けているとされ、政権基盤は安定しているかに見えた。
そのカーン氏の権威がなぜ失墜してしまったのか。1つには軍との関係がこじれてきたことがある。2021年秋に軍のインテリジェンス機関トップの人事をめぐり、自身に近い現職を留任させたいカーン氏と、別の軍高官に交替させたい軍との間で見解の相違があったとされる。結局、長官は交替することになったが、カーン氏が首相としてこの人事を承認したのが数週間後のことで、それまでの軍との蜜月ぶりに変化が生じていることがうかがえた。
首相失職に至ったもう1つの要因は、やはり物価高だ。国民の不満が高まるなか、2021年秋には首都イスラマバードや商都カラチはじめ全国主要都市で野党の呼びかけによる抗議集会が開かれた。その後もインフレは沈静化せず、パキスタンの消費者物価指数(CPI)は2022年4月に前年同月比で13.37%上昇した。カーン首相に経済再生を望む国民の期待は、しだいに幻滅に変わっていった。
こうしたなか2022年3月には野党が首相不信任案を提出したが、カーン首相は自党所属の下院副議長に審議を却下する決定を下させたほか、下院を解散して総選挙に打って出ることで倒閣の動きを封じ込めようとした。さらにカーン首相は、「外国の策謀」があるとして、アメリカが背後にいると非難した。ところが、最高裁判所がこうした政権側の対応について違憲との司法判断を示したことで潮目が変わり、上述したとおり首相失職という結果になった。
変わって新首相に選出されたシャバーズ・シャリーフ氏は、3度にわたり首相を務めたナワーズ・シャリーフ氏の実弟で、自身もパキスタン最大州であるパンジャーブで州政府トップを長年務めてきた。新内閣にも経済分野で経験豊富な人材が財務相はじめ要職に起用された。だが、新政権は「打倒カーン政権」でまとまった政党の寄り合い所帯であり、呉越同舟の感は否めない。政権が変わったからといって、インフレをめぐる状況が直ちに改善に向かうわけでもない。
スリランカでは非常事態宣言
カーン前政権は2022年2月下旬に燃料価格の引き下げを実施していたが、シャリフ政権は5月27日、逆に引き上げに踏み切った。これは国際通貨基金(IMF)が融資プログラム再開にあたり条件の1つとしてパキスタン側に求めていたものだ。パキスタンとしては債務不履行(デフォルト)を回避するためには融資再開が絶対条件だが、一方で燃料価格の引き上げにより国民の不満が高まることは必至という、苦しい状況にある。次期総選挙は2023年5月までに行われる予定だが、それまでに政治経済ともに混迷が続くことは避けられなそうだ。
スリランカでも、経済危機が政治、さらには国全体を揺るがす事態になっている。新型コロナウイルスの感染拡大によって主力産業の観光業が壊滅的な打撃を受けていたところに、物価上昇が加わった。2022年3月のCPI(消費者物価指数)は前年同月比で29.8%も上昇し、燃料価格の高騰や商品不足が深刻化した。国民の不満の高まりを背景に、最大都市コロンボなどで抗議デモが発生し、ゴタバヤ・ラージャパクサ大統領と兄で元大統領のマヒンダ・ラージャパクサ首相の辞任を求める声が高まった。
こうした事態に対し、ラージャパクサ大統領は2022年4月上旬に非常事態宣言を発令し、抗議活動の抑え込みにかかった。宣言は5日間で解除されたが、その後も抗議活動は続き、警察との衝突が発生したほか、4月下旬には現地で「ハルタール」と呼ばれるゼネストが実施された。このため政府は5月上旬に非常事態宣言を再発令する一方、同月9日にラージャパクサ首相の辞任を発表して事態の収拾を図ろうとした。
後継首相に指名されたのはラニル・ウィクラマシンハ氏。過去4回にわたり首相を務めたことがある、ベテラン政治家だ。だが、国民の不満の最大要因であるインフレ退治は容易ではない。物価上昇はなお続いており、2022年4月のCPI上昇率は33.8%にも達した。
スリランカは4月にはデフォルトに陥っており、IMFから30億ドルの支援を受けるべく交渉を行っている。ただ、IMFの支援を受ける場合、補助金の撤廃など国内の経済構造改革が条件となるのが一般的だ。ウィクラマシンハ首相はすでに法人税や付加価値税(VAT)を引き上げ、歳入の改善に取り組んでいる。近く提出される暫定予算案も、IMFからの支援獲得を意識した内容になるだろう。しかし、パキスタンと同様に、国としての経済状況を立て直そうとすれば、短期的には国民生活がいっそう厳しい状況になりかねないだけに、慎重な舵取りが求められることになる。
南アジアの大国、インドでも物価高は進行している。
2022年4月のCPIは、前年同月比で7.79%となった。これは過去8年で最も高い水準だ。2022年2月は6.07%、3月は6.95%だったので、インフレが上昇傾向にあることがわかる。なかでも上昇率が高いのが食料品で、食用油が17.28%、野菜が15.41%、インド料理に欠かせないスパイスが10.56%となっている。
インド現政権の基盤は固いが…
こうしたなか、中央銀行であるインド準備銀行(RBI)は2022年5月4日に緊急利上げを実施し、政策金利であるレポレートを0.40ポイント引き上げて4.40%とした。6月の金融政策決定会合を待たずに利上げに踏み切ったのは、6%としていたインフレ許容上限を上回る状態が続いている状況に対する危機感の現れにほかならない。
インド政府も、2022年5月12日に小麦輸出の一時停止に踏み切った。4月のCPIで穀物の上昇率は6%弱と目立って高いわけではない。だが、今年のインドは猛烈な熱波に襲われており、小麦をはじめ農業生産への影響が懸念されている。実際、政府は5月上旬、2021/22穀物年度(6月締め)の生産見通しを当初の1.11億トンから1.05億トンに引き下げると発表した。これは、前年度実績の約1.1億トンを下回る水準だ。ロシア軍のウクライナ侵攻により国際的な小麦価格が高値で推移するなか、インドとしては輸出分を国内消費に回すことで、自国の食料安全保障を確保したいとのねらいがある。
では、政治への影響はどうだろうか。
インドの場合、ナレンドラ・モディ首相率いる与党インド人民党(BJP)は下院で単独過半数を確保しており、政権基盤は安定している。したがって、パキスタンやスリランカのように首相の交代といった事態に発展する可能性はまずない。最大野党のインド国民会議派は党勢低迷が続き、その他は地域政党や特定のカーストを支持基盤とする政党が多く、現時点ではBJPに取って代われる状態にない。実際、2022年3月上旬に開票された州議会選挙では、人口2億人を擁するインド最大州ウッタル・プラデーシュはじめ5州中4州でBJPが勝利した。
だが、国民生活に直結する物価高に有効に対処できなければ、2024年5月までに実施される次期総選挙の帰趨に影響が出かねない。2014年の総選挙では、当時与党だったインド国民会議派が大敗を喫した。背景には、汚職問題やBJPのモディ首相候補に対抗できるリーダーを出せなかったこともさることながら、選挙前年にインフレが10%を超え、有権者が不満を募らせていたことがあった。
2021/22年度のインドの経済成長率は8.7%と、新型コロナウイルスの感染拡大によって大幅なマイナス成長(マイナス6.6%)となった前年度からV字回復を遂げた。ただ、IMFが4月に発表した「世界経済見通し」では、2022年のインドの成長率が当初の9.0%から8.2%へと引き下げられており、ロシア軍のウクライナ侵攻の長期化や中国主要都市で実施された新型コロナウイルス対策のためのロックダウンの影響も相まって、先行きの不透明感は残っている。現時点では次期総選挙でのBJPの優位は揺るがないとはいえ、今後経済情勢が悪化するようなことがあれば、国民の批判が高まることになりかねない。
南アジア諸国の中国依存を深める可能性
こうした南アジアの状況は、日本にとっても無縁ではない。インド経済が減速すれば、日印間の投資や貿易に影響が出ることになる。また、小麦輸出の一時停止が長期化すれば、国際価格の上昇につながり、それに伴って日本の小麦製品もさらなる値上げが行われる可能性がある。
政治面でも、仮に次期総選挙でBJPが過半数を割り込むような結果になった場合、モディ政権の安定性はこれまでより不確かなものになる。地政学的な観点からは、パキスタンやスリランカの不安定化は、両国の中国依存をこれまで以上に強めることになりかねない。
IMFの支援が得られれば一息つくことはできるが、それだけで経済・財政危機から脱却できるわけではない。その状況を捉えて中国が支援の手を差し伸べることで、さらなる影響力の拡大を図ろうとすることを想定しておくべきだ。日本政府は5月20日にスリランカへの緊急無償資金協力として300万ドルを国際機関経由で提供したが、南アジアの安定化と「自由で開かれたインド太平洋」の推進を念頭に、より積極的な支援を検討すべきだろう。
(笠井 亮平 : 岐阜女子大学南アジア研究センター特別客員准教授)