※この記事は2017年10月14日にBLOGOSで公開されたものです

9月、岐阜県高山市の小学校に、野生のツキノワグマが侵入し、警察の指示の下、地元の猟友会が熊を射殺するという事があった。これに対して、市や学校などに対して「クマがかわいそう」「子供たちの前で射殺をしたのは正しかったのか」などという問い合わせがあったと言う。(*1)

さて、単純な結論としては「熊の命と人の命どっちが大切だと思っているんだこのボケ!」で終了なのだが、世の中には一定数「無関係の人間よりも動物の命の方が大切」だと考える人がいるのである。

それは決して世間から遊離した存在ではなく、それこそ「ペットの犬や猫を家族扱いしている人達」を含めて、世の中に溢れている。 とはいえ、そうした人も、普通はそれを表に出して他人を批判することは無い。また、こうした問い合わせをしてくるのは、更にその中のごく一部なので、多くの動物愛護者は単なる善良な隣人にすぎない。

ただ、その「一部の更にごく一部」が大変迷惑であることも事実だ。
例えば「野良猫に餌付けをする人」。本人からすれば「かわいそうな野良猫に食べ物を与える優しい私」なのだろうが、冷静に見れば猫の飼育や管理という面倒なことをせずに、ただ餌を与えるという楽しい部分だけをつまみ食いしている無責任な人に過ぎない。

同じようなことが熊でもあって「熊が人里に降りてくるのは、山の中に十分な熊の食料がないからだ」として、どんぐりを山に撒くような活動をする人がいるという。

しかし、こうした活動はどんぐりを他の地域から運び込むことから、植物の交雑やどんぐりについた虫などによる生態系の撹乱という問題もあり、また、そもそもどんぐりを撒いたからといって、それと熊の人里への出没が減るわけではないという研究もあり、どちらかと言えば猫への餌やりと同じ、自己満足的な活動であると今のところは言えるだろう。

面白半分に動物の命を奪ってはいけないという言葉があるが、こうした形で動物の命を云々と主張することは「面白半分に動物の命を守っている」といえるのではないだろうか。

「守っている」といえば聴こえはいいのかも知れないが、実際には目先の動物の命を守ることにより、自然が荒らされ、その結果、他の動植物の命が危機に瀕したりもする。

そうした自然の複雑さを理解しないまま、ただ「愛護」に酔って、良心的だと自分で考える行動をしてみたところで、論理的な裏付けがなければ、迷惑にしかならないのである。

食品でも動植物でも鉱物でも放射性物質(!)でも、自然や天然とさえいえば優しいイメージを抱く人がいる。

しかし自然は人に決して優しくないし、自然に優しくさえしていれば、その人を自然が愛してくれるわけでもない。熊に優しくしようと近づいていったら、目の前で熊に襲われかねないのが本来の「自然」である。

別に人間が愛さなくても、自然は自然でやっていける。人間は自然を愛する必要などない。ただ、自然の優しさも危険性も受け入れて、人間の生活を守るために上手く対処すればいいだけのことだ。

そもそも、自然や動物に対する愛護とは、とてつもなく手間ひまのかかることである。とても動物愛護を趣味とする集団だけで手に負えることではない。それこそ世界レベルでの研究と対応が必要になってくる。

面白半分に動物の命を守れなどと叫んでも、決して動物を守ることなどできないのである。

*1:小学校侵入のクマ射殺→「可哀想」と苦情 地元関係者に反論を聞く(J-CASTニュース)
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171013-00000011-jct-soci&p=2