※この記事は2017年07月28日にBLOGOSで公開されたものです

昭和のヒットメーカーとして知られた作曲家の平尾昌晃さんが肺炎のため79歳で亡くなった。7月21日のことだった。

身内やスタッフに看取られての最期だったという。「お別れ会」は今秋を予定しているそうだが、一方で元チーフマネジャーと結婚していたことが発覚するなど、ここにきて巨額な遺産を巡っての親族バトルが勃発の様相になっている。

しかし、今回は在りし日の作曲家としての平尾さんについての〝秘話〟を記したい。

平尾さんは1958年に歌手デビューした。故山下敬二郎さん、そしてミッキー・カーチス(78)と音楽イベント「第1回日劇ウェスタンカーニバル」に出演し〝ロカビリー三人男〟として一大ブームを巻き起こした。

〝和製プレスリー〟とも呼ばれたことは既に、あらゆるメディアで報じられている。その平尾さんは、68年に肺結核を患い片肺を切除して以来、肺疾患が慢性化したという。その結果、歌手としての活動を断念、作曲家に転身した。

作曲家としての才能は布施明の「霧の摩周湖」や梓みちよ「渚のセニョリーナ」(共に『日本レコード大賞』で作曲賞を受賞)で認められていたが、〝作曲家転身〟の弾みになったのは小柳ルミ子(65)に提供した「私の城下町」「瀬戸の花嫁」、そして五木ひろし「よこはま・たそがれ」「夜空」だった。ポップスから演歌まで幅広い作品を手がけ、昭和のヒット・メーカーとして一時代を築き上げた。

そういったこともあって平尾さんの訃報では、多くの歌手が在りし日の面影を偲んでいた。

中でも、多く扱われていただろう歌手が五木ひろしかもしれない。

五木は「平尾昌晃先生と(作詞家の)山口洋子先生のお二人が、五木ひろしを世に出してくださった」と前置きした上で「僕が今日あるのも『よこはま・たそがれ』を始め、いい作品をたくさん作っていただいたおかげで本当に大恩人です。恩返しだと思って、これからも歌い続けていきたい。感謝の気持ちでいっぱいです」。

確かに、平尾さんとって五木や小柳らは別格な存在だったのかもしれない。

京本政樹が語る平尾昌晃さんの秘話

ここでは意外に語られていない平尾さんについての秘話を語りたい。

それは、平尾さんが曲を手がけたテレビドラマ「必殺シリーズ」である。

平尾さんは、同シリーズでは1作目からのテーマ曲となっている山下雄三「荒野の果てに」を始め、三井由美子の歌った「やがて愛の日が…」、そして西崎みどり「「旅愁」などを手がけた。どの作品も、おそらく聴き覚えのあるものだろう。だが、実は、その平尾さんの音楽が「必殺シリーズ」で大きく変わった時期があった。

85年にスタートした「必殺仕事人Ⅴ-激闘編-」。シリーズ5作目で京本政樹(組紐屋の滝)と村上弘明(花屋の政)が登場したものだ。

同シリーズに詳しい関係者が振り返る。

「放送上は公表されていないので意外に知られてはいませんでしたが、シリーズ5作目ではドラマにも出演していた京本政樹さんが音楽でも参加するようになったんです」。

確かに、調べてみると「必殺仕事人Ⅴ-激闘編-」では主題歌だった鮎川いずみ「女は海」は京本のプロデュース(作詞、曲、編曲)となっている。

一体、どういったことだったのか? 京本政樹(58)に連絡をとり改めて聞いてみた。

「もともと僕は、役者と同時にシンガーソングライターとしても活動していましたからね。ただ、『必殺シリーズ』に出てからは一気に役者のイメージが強くなりました。

そんな時に番組のプロデューサーから『曲を書いてみないか』と声をかけられたんですよ。それがキッカケで5作目の〝激闘編〟では音楽も担当させていただくことになったんです」。

もっとも、当時の京本は平尾さんとの面識が全くなかったと言う。

「僕がシンガーソングライターでなかったら、(曲を依頼するなどで)あるいは平尾先生とお会いしていたかもしれませんが、結局、自分自身で音楽を作っていたので平尾先生との接点がなかったんですよ」。

しかし、平尾さんの手がけてきた「必殺シリーズ」の楽曲に関しては「作品的にも完璧で、しかもインパクトも強く有名な作品ばかりだったので、(ドラマ用に)新しく曲を作ってみないかと言われた時は正直いって悩みました」と言う。

そういった中で、京本は挿入歌「哀しみ色の…」を手がけ、その後、主題歌として鮎川いずみ「女は海」をプロデュースすることにもなった。実は、このことは意外に知られていないことなのかもしれない。

「5作目の〝激闘編〟ではテーマ曲からオープニング曲、それに殺しのテーマ…なども含めたら未発表曲も含め50数曲は作りましたね。しかも、プロデューサーからは出来るだけハードなものにしてくれって要望があって。

ただ、そうは言っても平尾先生のイメージは大きく変えられませんからね。そういったことから当時は平尾先生の作品を聴きまくったものです。『荒野の果てに』『旅愁』…。それらを僕なりのアレンジの作品に作り上げドラマに反映して頂いたんです」。

平尾さんと京本が会ったのは、その後のことだったという。

「『必殺シリーズ』は京都で撮影していたので、撮影が終わって東京に戻ってきた頃でしたね。90年代の最初の頃だったと思うけど、平尾先生から直接、電話を頂いて…。それから一気に親しくなったんです。お会いするたびに『一緒に仕事をしたいね』『何か組んで出来ることはないかな』って、そんな話ばかりしていたような気がします。

もう10何年かぐらい前になるかな。『一緒に歌いたいね』と言われてね、平尾先生の主催していたチャリティ・ゴルフ大会の打ち上げに駆けつけて 、一緒に『旅愁』を歌ったりしたこともありました。本当に可愛がってもらいました」。

その後、今年に入って3月上旬。平尾さんから京本の元に電話があった。

「どうだ、一緒に何かやらないか?俺は詞が書けないから、京本君が詞を書いてくれたら、それに俺が曲をつけるから」。

平尾さんからの提案に京本は二つ返事で「もちろんです」と応えたという。すると、平尾さんは「詞が書けたら送ってくれ」と言い、住所を言い出したと言う。「今は(体調が思わしくなく)仕事を控えていて、病院に行きながら楽(らく)しているから」。

京本は「ここで書かないと後悔する」と思い、その夜は徹夜で5曲の詞を書き上げた。

その詞を早速、平尾さんに送ると「歌で1つの命が生まれる」という返事が返ってきたと言う。京本にとっては感慨深い一言となった。

「一緒にやろうと言っても、CDを出そうとか、それによって何かをしようってことではなかった。とにかく目的はないんだけど一緒に音楽を楽しもうという気持ちだったんです。そういった純粋な気持ちがよかったんです。音楽というのは本来、そういった気持ちから始まるんだと思う」。

しかし、それから4ヶ月。平尾さんからの連絡は途絶えた。

焦らせる気持ちはなかったが、京本は「お体の具合も気になっていたし、一度、連絡してみよう」。そう思った矢先のことだった。平尾さんの訃報が京本の元に届いた。

「先生と音楽で楽しくキャッチボールをし、もっともっと楽しみたかった。僕にも平尾メロディーがいただきたかった」。