※この記事は2017年02月09日にBLOGOSで公開されたものです

昨年の大晦日、元音楽ディレクターで実業家だった石坂敬一さんが亡くなった。71歳だった。

その石坂さんの「お別れ会」が2月8日、東京・南青山の青山葬儀所でしめやかに営まれた。日本レコード協会、ユニバーサルミュージック、ワーナーミュージック・ジャパン、そしてオリコンの4者が共同で主催したものだった。

「お別れ会」には音楽業界はもとより各業界からも2300人が参列。アーティストも長渕剛の他、加藤登紀子、ジュディ・オング、織田裕二、吉川晃司、CHAGE、AI、ミッキー吉野、青山テルマらが駆けつけた。

お別れの言葉では音楽評論家の湯川れい子さんが「石坂さんは音楽業界のレジェンド、亡くなっても存在感のある人」と悼み、アーティストを代表して長渕は「愛情のある人だった」と言い、最後に自身の楽曲「12色のクレパス」を力強く熱唱するなど、在りし日の石坂さんを偲んだ。

石坂さんは、東芝EMIの前身だった東芝音楽工業を皮切りにユニバーサル・ミュージック、ワーナーミュージック・ジャパンの社長、会長。さらには日本レコード協会々長も務め、藍綬褒章や旭日中授章なども受章してきた。

冒頭、「元音楽ディレクター」と記したが、実際には「音楽プロデューサー」的な要素もあった。そう言った意味では我が国の音楽産業に残した功績は一言では語り尽くせない。

 

ビートルズにはじまり、ピンク・フロイドら洋楽ロック・グループのディレクターとして実績を重ね、その後は松任谷由実、BOOWY、長渕剛、矢沢永吉…、さらには川島なお美や本田美奈子.と言ったアイドルなども手掛けてきた。その一方、フジテレビ「リブ・ヤング!」を始め、日本テレビの看板深夜番組だった「11PM」やテレビ朝日「プレステージ」などにもレギュラー的に出演するなど、音楽業界の中でカリスマ的な存在となっていった。

ポリグラム~ユニバーサル時代はスピッツやGLAYなどをトップ・グループに育て上げ、08年には同社をCD生産高で業界トップのリーディングカンパニーに引き上げた。そして、ワーナーミュージックに移ってからも、きゃりーぱみゅぱみゅをスターダムに押し上げるなどヒットに拘り続ける〝石坂イズム〟を改めて知らしめた。

それにしても、2016年は目まぐるしい1年だった。そういった中で国内では大橋巨泉さんや永六輔さん、さらに海外でもデビッド・ボウイやプリンスが旅立ち、クリスマスには元ワム!のジョージ・マイケルの訃報も伝えられた。そして大晦日---最後の最後に…。

 

業界内には突然の急逝に驚きもあったが、その一方では「石坂さんらしい幕引き」という声もあった。だが、奇しくもこの年の3月8日にはビートルズのプロデューサーで「5人目のビートルズ」とも呼ばれてきたサー・ジョージ・マーティン氏が90歳で亡くなっていた。そこには、どこか「運命」のようなものを感じてならなかった。

 

そんな石坂さんの功績は、あらゆるメディアで語られてきた。しかも6年前には「出世の流儀」という著書も出版されているし、昨春には音楽評論家の立川直樹さんとの対談集「すべてはスリーコードから始まった」も刊行されている。

 

だとしたら…、ここでは筆者の視点で偲んでみたいと思う。

 

石坂さんというのは何と言っても逸話の多い人だった。東芝EMI時代は「末端の社員にまで目を光らせている」なんて言われていたし、洋楽の制作会議においては「英語が標準語」とし、石坂さんも出席して「まるで英語力を試されているようだ」「石坂さんの質問攻勢にノイローゼになって入院した者もいた」なんて、それこそ都市伝説まがいの話まであった。その他にもロンドンへの海外出張も「宿泊なしのトンボ帰りだった」などなど。嘘か本当か…しかし、石坂さんだったらあり得るものばかりだった。

 

その石坂さんが当時、ポリドール、フォノグラム(マーキュリー)、キティ、トーラスなどを傘下に持つポリグラムからヘッドハンティングされたのは94年の秋のことだった。東芝EMI専務からの電撃移籍という前代未聞の出来事は業界の大きな話題となった。

 

ポリグラムは東京・大橋の目黒川沿に本社があった。春になると桜が咲き誇る名勝地でもあった。6階の社長室で石坂さんに会うと「何か、ポリバケツみたいな社名だよね」。ちょっと拍子抜けしたことが記憶に残っている。

 

「音楽の歴史はヒットの歴史」。

 

石坂さんはヒット曲に貪欲だった。しかも「常に勝ち続ける」ことが大きな信念だったこともあって、その強引さは業界でも有名だった。ヒット曲を出すためなら手段も選ばないーーそんな気概すらあった。とにかく欲しいアーティストは意地でも取ろうとしていた。東芝EMI時代にはサザンオールスターズにも触手を伸ばしていたように記憶する。そんな石坂さんに対して脅威を抱くレコードメーカーやプロダクションも多かったはずだ。

 

思い出すのは、ポリグラムに転籍して数ヶ月経った頃のこと。丁度、今ぐらいの時期だったと思う。石坂さんから「急用があります。会えませんか?」。何事かと訪ねると、すぐさま用意してあったデモテープを取り出し「ちょっと、聴いてみてください」。

 

流れて来た曲はスピッツの「ロビンソン」だった。

 

当時、ポリドールに所属していたスピッツは業界内で注目度が高かった。石坂さんはスピッツに興味を抱いていて、実は東芝EMI時代に移籍を画策していた。ところが、ポリグラムに来たことで、まんまと手に入れてしまったわけだ。後日談だが、ポリグラムに移った時、真っ先にスピッツの所属事務所に挨拶に行ったと言う。よほど心が弾んだのだろう。

 

「ロビンソン」を聴かせると「いいでしょ。イケると思いませんか?」「4月に出します。応援宜しくお願いしますよ、これは約束ですからね」。半ば強引だった。

 

「ロビンソン」は、スピッツの11枚目のシングルとして発売され、彼らの代表曲になった。石坂さんにとっても、ポリグラムに移って最初のヒット曲だったはずだ。

 

「東芝EMIに移籍させてなくて良かったですね」と言うと「そうね。でも、その時は取り戻していただろうね」なんて笑いながら言っていた。

 

石坂さんの訃報を耳にし、フッと、スピッツのアルバム「ハチミツ」を探し、改めて聴いてみた。石坂さんがポリグラムに移って1年後の9月に発売され、スピッツのアルバムとしては初めて1位を獲得したものだった。今、振り返ると石坂さんにとっては執念の結果だったようにも思う。

 

あれから22年。ポリグラムはユニバーサルミュージックになり、東芝EMIはEMIミュージックに変わり、そしてユニバーサルミュージックに吸収された。

 

時の流れは様々な香りを放ち続けているが、石坂さんの拘り、執念は、どんなに時代が移り変わっても漂い続けてもらいたいものである。