テレビと映像の恐ろしさについて - 吉川圭三

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※この記事は2017年01月24日にBLOGOSで公開されたものです

メディア技術の進歩により映像ビジネスばかりでなく世界の様相は激変する。今回はそんなメディアの話を直球で語ってみる。まずは「テレビを描いた映画」についての話から。

1982年、日本テレビに入社した私は直属の先輩社員にこう聞いた。
映画の嗜好は人格を反映することがあるからだ。
私は「直属の先輩はどんな人か?」知りたかった。
「先輩。一番好きな映画は何ですか?」
と聞いてみた。
その先輩は一瞬考えてこう答えた。
「うーん。『ザッツ・エンターテイメント』だね。」

ご存じの通り、この映画はハリウッドのMGM映画の黄金期のミュージカルの天才アーティスト達の歌って踊ってのベスト場面ばかりを集めた、言わば“良い所取り”の映画だった。映画自体のストーリー・会話場面がほとんど編集されカットされているのでクライマックスが延々と続くまるで夢のような映画だった。日頃の憂さも忘れさせてくれる娯楽映画の素晴らしさを凝縮したような映画であった。映画マニアであった私も天才アーティストの芸に酔った。

しかし、衝撃だったのは先輩の次の言葉だった。

「・・・そして吉川君。一番嫌いなのはね~『ネットワーク』だね。アレ嫌い。」

『ネットワーク』はテレビ界出身の社会派。シドニー・ルメット監督の“強烈なテレビメディア批評映画”であった。企画・脚本も米国の本物のテレビ界出身者が作った。おそらく世界最初の本格的なアンチ・テレビジョン映画であったと思う。その概要はこうだ。

大手テレビ局の報道部で長年キャスターを務めてきたハワード・ビール。担当番組の視聴率低下によって二週間後の解任が決定し鬱(うつ)状態に陥ったビールは、その夜の生放送で翌週の生放送中の公開自殺を予告する。放送後テレビ局に大量の苦情が届き、ビールは即座に解雇される。しかし彼の長年の友人であるニュース部門の責任者マックス・シューマッカーは、解雇の前にもう一夜だけビールに番組を任せてみることにする。ビールはその放送でテレビ業界の欺瞞(ぎまん)を告発する。著名なニュースキャスターの狂態は世間に一大センセーションを巻き起こす。

それを見た「視聴率の鬼」エンターテイメント部門の気鋭の女性プロデューサーであるダイアナ・クリステンセンは、ビールを中心に据えた新番組の制作を画策する。クリステンセンは彼女の上司ハケットを説得、硬派な報道番組の制作に固執するシューマッカーを更迭、ニュース部門の主導権を握る。敏腕女性プロデューサーのクリステンセンが新たに制作した番組は、預言者となったビールが世間に対して怒りをぶちまけるというエンターテイメント番組だった。

神から啓示を受けたという妄想に取り憑かれ、完全に狂ったビールの義憤は大衆の共感を呼び、番組は驚異的な視聴率を記録する。ビールの番組で実力を認められたクリステンセンは、新たに過激派の武装テロリストの犯行ビデオを材料に新番組の制作を開始する。その番組も好評を博し、メディアの寵児として脚光を浴びるクリステンセンだったが・・・。

おそらく私の先輩は「テレビは素晴らしい夢の娯楽装置であり、『ネットワーク』で描かれたような視聴率だけを優先したあくどいメディアではない。」と言おうとしていたのかも知れない。至極、真っ当な考えだ。娯楽を提供するのも我々の重要な仕事だ。しかし、1982年当時既にこの作品(『ネットワーク』は1976年公開)を見ていた私は「メディア組織の中の人間の欲望の底知れなさ」と「テレビメディアが潜在的に持つ恐ろしい影響力」を描いた傑作だと思っていた。

こんなエピソードを思い出したのは、何故か最近、重い蓋が外されたように『テレビをテーマにした映画』が最近たてつづけに公開されたからだ。「マネー・モンスター」「ナイト・クローラー」「帰って来たヒトラー」「アイヒマン・ショー」「ニュースの真相」「FAKE」等である。この傾向の映画の公開が近頃集中していると思った。このことに気付いたのは長い間、映画を見続け、テレビを制作し続けた私だけなのだろうか?これらの映画は映像メディアと見ている人間との関係性を白日の下に照らし出す。

多少、段積みの解説になるが、面白いと思うので各映画の概略を短く。「マネー・モンスター」はあの美人子役出身のジョディ・フォスター監督。アメリカの金融情報ショー(米国にはそういう番組がある)のキャスターの推奨で買った債権で全財産を失った労働者の男がいる。事もあろうに生放送中の「金融ショー」で司会のジョージ・クルーニーの居るスタジオに彼が身体に高性能火薬を巻いた自爆ベストを着て現れる。クルーニーがショーアップする金融ショーのセットの後ろに彼の姿がチラチラ見える姿をディレクターが最初に気づく場面が怖い。現れた労働者は起爆装置のボタンに触れながら金権主義のアメリカ社会と貧富の差の酷さをテレビを通して主張する。ケーブルテレビの番組だがこの爆弾放送の噂がネットで拡散し恐ろしい数の視聴者が見始める。この映画。すごいテンポである種、最後は予定調和的な結末になるのだが、私は「マネー」だけでなく「テレビ」も恐ろしいモンスターだと思いゾッとしたものである。

2014年に公開された「ナイト・クローラー」は泥棒同然の最下層の男がある日、交通事故現場に遭遇する。彼が呆然としている中、警察無線を傍受したのか正体不明の真っ黒いバンが現れる。中からカメラクルーが音もなく出て来て現場の惨状の一部始終を撮影し、事故被害者を救出もせず凄いスピードで去ってゆく。男は貧しいドブネズミのような男だが頭が切れる。盗品を換金して買った安い撮影機材と警察無線傍受装置でロスの街で起こる犯罪・事故を撮影し、その映像を地元テレビ局に高額で売却する。もちろん、被害者は助けないし、あり得ない悪質なねつ造もする。ショッキングな映像を求めるテレビ局は益々エスカレートする彼の映像を放映し続けるが・・・。彼らはアメリカでは「ストリンガー」と呼ばれている。大衆はまるで自分の餓えた巨大な胃袋を満たすかのように彼らの映像を吸い尽くしてゆくのであった。

「帰ってきたヒトラー」の原作は読んでいたが、映画も上手い演者と演出で見事な出来だった。舞台は現代。ある日、説明もなく何故かヒトラーがよみがえる。テレビ局を一時解雇されたディレクターが偶然彼と遭遇し、このあまりに“本物のヒトラー感”を漂わせる男に引き付けられて、ヒトラー男とドイツの民衆との触れあいロケを勝手に始める。喜劇的テイストもあるがこのヒトラー男の主張する「移民・人種問題対策」「強いドイツ復活計画」に街の市民があっという間に惹(ひ)かれてゆく。ヒトラー男があくまでヒトラーに徹しているので、多少演出的に実験してもブレていないし、ヒトラー男に引き込まれながら見れてしまう。TVディレクターは編集したロケ映像を「YOU TUBE」に流し始めるが、アクセスが100万をアッと言う間に超えてしまう。ディレクターはテレビ局にこの事を伝え女性制作局長は即決でヒトラー男のメイン番組を作ってしまう。番組が始まり自信を持って滔々とまくしたてるヒトラー男はあっという間に視聴者の心を掴み怪物的国民的人気者となるが・・・あのヒトラーのおかげで世界中と自国に限りなく災いを振りまいたドイツとしては“勇気ある表現”と言わざるを得ない作品だった。スケールも意味も違うが「あの東條英機が現代によみがえる」などと言うSF映画を日本映画界が作るかどうか?という問題にも繋がるのである。

一方「アイヒマン・ショー」は実録映画である。アルゼンチンでユダヤ人ホロコーストの責任者アイヒマンが逮捕される。イスラエルのエルサレムで断罪の為の裁判が行われる。その模様をまだテレビ技術も未成熟な中、虐殺首謀者の素顔を最新技術のテレビジョンの前で暴き、世界初のテレビで放送すべくユダヤ系の凄腕テレビディレクターがアメリカから招集される。様々な困難を乗り越え史上初の「世紀の裁判」の生中継が始まるが、放送開始直後、ソ連のガガーリンの宇宙からの史上初の有人宇宙飛行が成功したり、ビックス湾でのキューバ危機などが起る。しかも、ホロコーストの生き残りの目撃者の凄惨な数々の証言を聞いてもアイヒマンの顔色は何一つ変わらないし(ここは実写映像)彼は自分の責任を全く認めない。イスラエル人プロデューサーが焦燥感にかられる中、米国人ディレクターは「人間が同じ人間に何故こんなことができたのか?」を追求するべくアイヒマンのアップを撮り続ける。映画では実際の裁判映像もふんだんに織り込みヒリヒリするような緊張感がつづく。そしてスタッフはアイヒマンに対して“最終兵器”とも呼べる手段をとるのだった・・・。

もちろんホロコーストは一人の人間の判断で行われた訳でないが、延々とインサートされる首謀者・本物のアイヒマンの真面目なサラリーマンの様な「私は上から命じられたことを実行しただけだ。」とも無言で語る様な無表情な白黒の実写映像が「人間の底知れぬ闇」を体現しているようで劇場で背筋がゾーとしたものだった。

ボストンにおけるカソリック聖職者達の未成年者達への大量の性的暴力とその暴露を地方新聞社を舞台に描いた「スポットライト」はジャーナリズム精神と地道な調査報道の勝利を描いた「最後に正義が勝つ」実録映画だった。一方ロバート・レッドフォード主演の「ニュースの真相」はかなりホロ苦い実話テレビジャーナリズム映画だ。アメリカのジョージ・W・ブッシュ大統領が再選を目指していた2004年、テレビ局CBSで「60ミニッツ」という有名報道番組を手がけていたプロデューサー、メアリー・メイプスのチームは、ブッシュ大統領に関するとある疑惑を取り扱うことを決める。なんとブッシュ大統領はベトナム行きを避けるため、コネを使って空軍に入ったが、空軍でも務めを果たすことなく空白の時間が見られるという、軍歴詐称とも言える大きなニュースだった。番組の放送まではわずか数日間しかない。しかしその中でメイプスは必死に有用な情報を集め、局からプレッシャーをかけられつつもなんとか番組をものにすることに成功する。

長年司会を務めてきた名司会者ダン・ラザーの持つ国民からの厚い信頼も手伝って、番組はアメリカで大反響を呼ぶ。しかし、やがてその反響はどんどん悪い方向へと向かっていく。ネット上で保守派の有名ブロガーたちが、番組で取り上げられた書類の不自然さを指摘。番組で紹介された証拠には何の信憑性もない、いわゆる証拠捏造ではないか?と言うのだ・・・。ネット時代に入り「国民総探偵化・ジャーナリスト化」が起こりプロのジャーナリストたちが貴重な情報網から入手したニュースを捏造だとされることも多発していた。ネットの攻撃が始まると局上層部も部下を守らず手のひら返しになる。ネット時代を迎え最近のジャーナリズムの困難さも明らかになる作品であある。

そして「FAKE」。森達也監督の佐村河内守氏への密着ドキュメンタリーである。佐村河内氏は週刊文春のスクープで新垣隆氏のゴーストライター証言により世間から葬りさられた。ある取材で佐村河内氏と会った森氏は文春報道と違う印象を持つ。そこから密着取材が始まるのだが、私が「FAKE」を「テレビとメディアに関する映画」としたいのは、この映画の白眉(はくび)が佐村河内氏宅を訪れる様々な異なるメディア関係者の接し方が森監督のメディア感を表現していたと感じたからである。

報道・外国メディアに混ざりネクタイをしてダークスーツを着た3人の男が出て来て「佐村河内さんを男にしたい」と念の入った誠実な出演要請をする。彼らはバラエティ番組の制作スタッフだ。結局、番組の主旨が掴めず佐村河内氏は出演を断る。だが年末に公開されたその番組には佐村河内氏の代わりに新垣隆氏が出て様々なコメントをし、タレントの大久保佳代子さんに「壁ドン」をしている。著作権上その映像は映画では映せないので、佐村河内氏のサングラスの片隅に映るわずかな映像の断片からそれを類推するしかない。サングラス越しの佐村河内氏は無表情だ。スタジオの笑い声はたっぷりと入って来るが、彼はニコリともしない・・・私は今ネットの世界に居るが、テレビ局に長い間席を置いていた。

もしかしたら、私が、または私の回りのテレビスタッフが同じことをやっていたかも知れないと思うと戦慄を憶えた。現在、タブーやアンタッチャブルだらけの日本のテレビ界で弱者や善悪の判断を出来ない人間を攻撃したとしても民間放送連盟の放送基準やコンプライアンス(法令順守)に準拠していれば「面白ければいいんだよ。」と「視聴率をとればいいんだよ。」という論理が逆に横行している状況を示しているのか?テレビ屋の「非知性化」すら暗示するこのカットは私の昨年の映画としての「私のベストカット」であった。森監督の作品。放送で歌えない理由がわからない「放送禁止歌」テレビに翻弄された人生を狂わされた男たち「職業欄はエスパー」でメディアの欺瞞(ぎまん)と不合理を暴いて来た森達也監督の真骨頂であった。

ヒトラーとその宣伝相ゲッペルスがラジオ演説で始めたこのメディアコントロールという大規模情報操作手段は、トランプ新大統領時代の現代でも生きている。フランスの歴史人口学者・家族人類学者のエマニエル・トッドはトランプ氏は極めて解り易いメッセージを演説に込めたためそれが驚くべき効果を生んだと言う。つまり「米国はうまくいっていない。」「米国は今や世界から尊敬されていない。」・・・とシンプルかつ人々の本音を述べて大衆の心を掴んだと言う。そう、ネット時代に入り今までその絶対的権力を行使して来たテレビジョンという映像装置の本質が複眼的に暴かれ注目を浴びようとしている。

雑誌「サンデー毎日」でジャーナリストの青木理氏が最近書いてたのだが、2020年の五輪の「4者協議」をガラス張りにして、森喜朗さんも入れた会談をやっていたのだが、毎日、テレビに森さんの怖い顔が映るほど小池さんが冷静そうに信頼出来る様に見える訳で青木氏は「これでは政治の劇場化だ。」と指摘していた。僕はこれはけだし名言だと思った。この世には密室でやるべき会議もあると思うのだ。「透明化」「公開化」という口に綺麗な言葉が素晴らしいと持ち上げるメディアが一番いかんのだが、それにしても小池先生はメディアを使った政治術が天才的にお上手である。

そんな中、「テレビと映画」を離れ、二つの「映像による兵器が主演」の映画を見た。米国映画「ドローン・オブ・ウォー」と英国映画「アイ・イン・ザ・スカイ」である。二つともドローンを使用した中東・アフリカにおけるテロリスト掃討作戦をテーマにしている。

アメリカのラスベガス等の安全な基地内で、楽園のようなハワイの基地で、また堅牢なワシントンDCやロンドンの作戦司令室でハイテク装置・ドローンを操作・駆使・指揮しなテレビゲームのようにテロリスト(あるいは潜在的テロリスト)を抹殺してゆく。ドローンから発射されたミサイルは確実に殺傷したかを捉えるために着弾直前まで映像を各地へ送り続ける。よく我々が安全な自宅のリビングルームのテレビで「衝撃映像番組」等で見るあの映像である。もちろんオバマも発表しているように誤爆も山ほどある。「ドローン・オブ・ウォー」だったか、ソローン名人の兵士が任務を終え、車でコンビニに立ち寄り買い物をし店員に「オレは今中東のタリバンを5人殺して来たんだ。」とつぶやくシーンがあった。もちろん店員は軽く笑いながら首を振り、冗談だと思い信じない。この2本の映画を見ながら、そのうちテレビで生放送の戦争ショーでも始まるのではないか?とすら私は思った。前線もない軍隊同士の対峙もない、この静かな狂った戦争は恐ろしい未来(もうすでに現在?)の戦争の実相である。

私は映画にメディアと文明とテクノロジーの進歩と行く末とその結果起こることを引き続き描いてもらいたい。かつてチャップリンは「独裁者」でアドルフ・ヒトラーを徹底的に笑いのめした。一説にはその結果ヒトラーの演説を見に来る客が減ったと言われている。もちろんチャップリンの元にナチの死客が訪れ彼を抹殺する可能性があった訳だからチャップリンの肝の座り方も半端ではない。・・・金はかかるし、興行成績がモノを言う厳しい映画の世界。しかし、映画はその表現の幅が広いし、我々を冷静な気持ちに戻してくれる力がある。

かつて19世紀末に発明されたイタリアのマルコーニ無線機は戦争の様相を変えてしまった。遠くから命令する指揮官と前線の塹壕で右往左往しながら犬死して行く将兵たち。無線・ラジオ・テレビ・映画・ゲーム・ドローンの映像・・・ネット技術も加えるとテクノロジーの進歩はさらにAIも巻き込み「映像・通信技術場外乱闘」とも言えるこの状況で我々はどうやって正気を保ってゆくのだろうか?最近増えた「テレビに関する映画」なども静かに冷静にこのメディアの状況を描き続けてほしいものである。

(以上の原稿は「水道橋博士のメルマ旬報・108回」に吉川が投稿したものをその内容を考慮し、ブロゴスに加筆・転載したものです。なお「メルマ旬報」は私以外に竹内義和、高橋ヨシキ、モーリー・ロバートソン、園子温他50人近くの執筆者を持つ月配信3回のメルマガです。バックナンバー他、月500円でご覧になれます。)