※この記事は2017年01月22日にBLOGOSで公開されたものです

2017年1月15日に京都で行われた、皇后盃 第35回全国女子駅伝。

結果は京都チームが2時間17分45秒のタイムで優勝。2位の岡山チームは京都とのタイム差を徐々に縮めるも、最後はわずか2秒差で及ばなかった。(*1)

普段であれば、さほど話題になることもない駅伝大会が、ネット上で論争の的になった。その理由は「雪」である。

中継車から選手が見えないほどの雪が降っている映像が、まとめサイトなどに開催され「こんな雪の中で走らされる選手たちがかわいそうだ」という形で紛糾したのである。

また、JRAが積雪を理由に京都競馬場でのレース開催を中止(*2)したことが伝えられると「馬は走らなくてもいいのに、人間は走らされるなんてかわいそう」などといった批判が相次いだ。

まず、当日のレースを見返すに、雪が降り出したのは第2区間からである。第1区間では雪は残るものの天候は晴れであり、十分に除雪されていた。その後、雪は徐々に激しくなったが、4区の最後の方ではほとんど止んでいる。

ネットで「こんなにひどい豪雪」と言われる映像や画像は5区から6区にかけてである。この2つの区間では雪は極めて激しく降り、選手の髪にも雪がつもり、中継車から選手が見えなくなることもあった。実況のアナウンサーも困惑し、カメラの映像では順位確認もままならない状態であった。

その後、7区以降は天気は回復傾向。最終9区の途中でまた雪が降り出したが、ゴール時にはしっかりと空は晴れていた。

何がいいたいかと言えば、スタートの判断をした時には、決して豪雪が降っていたわけではなく、またネットで伝えられる、中継車のカメラで選手を捕らえられないような大雪という状況は5区と6区という一番酷い区間だけだった。もちろん、レース中に雪が降る可能性がまったくなかったということではないのだが、道路の除雪はしっかりとしており、特にレースを中止する要素はなかったと言っていい。

実際に優勝タイムや、5区や6区という豪雪区間のタイムを見ても、全体的にはスローペースではあっても、例年の記録から大きくかけ離れたものではなく、道路コンディションが走ること自体が危険であるような、極めて悪かったというようなこともなかったといえる。

もちろんコンディション維持は除雪に務めた現場の人たちの努力が実ったものである。そのことをBuzzFeedが伝えている。(*3)

さて、僕が思うに、この件はネットでニュースなどが伝えられるときに、必ずといっていいほど伴いがちな「露悪趣味」が全面に出ていると感じた。

ネット上で、雪で選手が見えない程の画像や映像「だけ」を見せられた人たちが、感情的に「こんな中で走らせるなんて酷い」と憤る。それに対して「京都競馬場では中止になったのに」と、新たな燃料をくべる。こうして「炎上」は完成する。

しかし、雪が酷かったのは5区と6区だけであることは先に述べたとおりであるし、また競馬が中止になったことと、駅伝が中止にならないことの間には、何の関係性もない。主催も京都女子駅伝は日本陸連であり、京都競馬場はJRAである。主催が違えばその判断も違う。主従関係があるわけでもないのだから、片方の判断に片方が従う理由など、まったくないのである。

そしてなにより、ネットでの論じられ方は、当の駅伝出場選手や日本陸連などの関係者に対して、全く敬意を払っていない。

それこそ選手の側から「こんな雪のコンディションでは走れない、中止するなりコースの偏向をしてくれ」という要望があり、それを日本陸連が突っぱねたというなら、「こんな雪の中で走らされている」という外野の文句も正当だろう。しかし選手も日本陸連もそのことを問題視していないのに、ただ、まとめサイトでごく一部の画像を見ただけの人たちが、さも自分たちの意見が正当であるかのように振る舞うことは、選手や主催と言った当事者側が持つ主体性に対する否定である。ぼくはそれは極めて自分勝手で醜い論理であると思う。

2014年11月8日に行われた、フィギュアスケートGPの第3戦で、練習中の羽生結弦選手と中国人選手が激しく交錯。転倒するという事故が発生した。羽生はこのアクシデントにもかかわらず出場し、2位の成績を収めている。

このことに対して、ネット上の自称「脳震盪に詳しい」人たちが、「羽生は脳震盪を起こしたはずだ。脳震盪を起こしているのに出場を強行するなど、許されない。欧米では脳震盪の疑いがあれば出場させない、日本人は危機感がない」などと吹き上がった。このときも一番騒いでいたのは現場ではなく、ネットやテレビで映像を見ただけの人たちであった。

騒ぎになったあとで、実際はアメリカのチームドクターに、その場で診断を受け、脳震盪の疑いはないと判断されたことが説明されたが、早合点を謝罪した人を見たことはない。この羽生のときにも、ネットでの吹き上がりは、現場の人達の判断という主体性を極めて安易に否定していた。

ある人は、駅伝が中止されなかったことを「基本的人権の否定だ」と主張した。

しかし、僕は現場の人たちの判断を尊重することこそが基本的人権の尊重であると考える。基本的人権において重要である自己決定権、別名愚行権は、まさに当人たちの判断を尊重することの意味である。例え雪の中を走り、それが他人から寒そうに見えたとしても、本人たちがそれを否定しないのであれば、そのことに他者が口を差し挟む権利などないのである。

では、駅伝が中止されなかったことにおいて、誰が一番不利益を得ているのか。それは「雪の中を走るなんてかわいそう。馬は走らないのに人が走らされるなんてかわいそう」といいたがる人たちである。

彼らが怒っているのは、決して選手の体調を心配してではない。そうではなく、自分たちが直感的に危険だと思うことに同調せず、それを他人がしていることに対して、まるで自分が否定されたように感じるからこそ、怒りを隠せないのである。「どうして私の判断どおりに、テレビの中の人達は動こうとしないのか!私の意見を否定するとは何事だ!」という、冗談のような本気の怒りが、このような主体性を無視した怒りがネットを燃え上がらせるのだ。

ネットで「可哀想婆」と呼ばれる人達がいる。

その人達は、小さな子供を育てている母親に近づいては、子供のためを思っているふりをして、こういうことを言うのだそうだ。

「子供を歩かせるなんてかわいそう」「ずっとおんぶされててかわいそう」「粉ミルクはかわいそう」「紙おむつはかわいそう」「靴下がきつそうかわいそう」「裸足でかわいそう」「チャイルドシートに縛られてかわいそう」などなど。

そこには、親の方針や子供への実際の利益不利益ということの勘案なしに、ただ「子供を可愛がる親切な私」を表現するだけの「かわいそう」が並ぶ。それは言葉こそ優しくても、実際には子供を育てる親に対する卑劣な暴力に他ならない。

駅伝の件も同じだ。普段、全く駅伝を見ないであろう人たちが、ネット上の情報だけを見て、さも自分が良識派であるかのようなふりをして、全く筋違いの「中止」を要請してくる。それは駅伝の開催を楽しみにしていた人たちのみならず、実際に走る選手たちに対しても礼儀を失した卑劣な立ち振舞であると、僕はそう考える。

*1:皇后盃 第35回全国女子駅伝(皇后盃 全国女子駅伝)
*2:【重要】本日【1月15日(日)】の京都・中京競馬開催中止に伴うネット予約指定席の取り消しについて(JRA)
*3:「競馬は休みなのに…」吹雪の女子駅伝に批判の声 中止しなかったのはなぜ?