″賭け″が無くても麻雀は親しまれ続ける - 赤木智弘
※この記事は2016年12月25日にBLOGOSで公開されたものです
福岡県飯塚市の市長と副市長が、業者を相手に賭けマージャンをしていたことが発覚し、市議会で陳謝したという。(*1)業者との関係については、市長側は、麻雀相手は知人で便宜供与は図っていないと説明しているが、賭けマージャンのメンツには市施設の指定管理者も含まれており、市長側と業者側の「近さ」に批判が集まりそうである。
また「賭博行為」という問題もあるが、賭博行為の方は法的には1円でも賭ければ賭博と見なされるが、実際の運用としては市長が言うとおりの額であれば、実際に罪に問われることはないだろう。
ただ、これらの行為を行う市長や副市長が、市政にとってふさわしいかどうかと言えば、僕はふさわしくないと思う。もっともそれは飯塚市の市民が決めることであるから、僕としては個人的な意見に留めたい。
ただ、別の記事に掲載されていた市長の発言を聞いて、とても残念に思ったことがある。それは「金を賭けずにマージャンをする人が世の中に何%いるのか。(賭けることを認めないと)マージャン人口が減るのでは」(*2)という発言である。
確かに麻雀は「賭け」の文化が強いゲームではある。雀荘にもノーレートの店が増えてきて入るが、それでも千点30円から千点100円くらいまでの店が今でも多いと聞く。雀荘文化にどっぷり浸かって麻雀をしてきた人たちには、やはり「賭けるのが麻雀」と思っている人が多いだろう。
そもそも麻雀は基本的には4人集まらなければプレイできないゲームであり、仲間で4人集めようとすれば、いろいろと手間がかかる。その手間を省いて麻雀をしようとすれば、かつてはそうした賭けのあるフリー雀荘に行くしかなかったのであり、麻雀と賭けが結びつくのは仕方のない部分があった。
しかし、今は時代が違う。インターネットを利用することによって、わざわざ人が雀荘に集まらなくても、一緒に麻雀をする相手は全国から、いくらでも見つけられるようになった。ゲームセンターに行けば「麻雀格闘倶楽部」や「MJ」といったオンライン麻雀マシンが並び、かなり多くの客がついている。もちろんPCやスマホを使っての対戦も頻繁に行われている。こうした麻雀には雀荘で言えば場代に当たるプレイ料金はあっても、点数自体は全てノーレートである。
金を賭けることは「雀荘文化」でしかなく「雀荘=麻雀の本場」という考え方は古いものになりつつある。今後はより便利でさほど時間を気にせずに遊べるオンライン麻雀が、より一層普及していくことは疑いようもない。いずれネットこそが麻雀の本場になる日も来るだろう。
なので、市長に対して答えるのであれば「現在でも、ノーレートでも麻雀をする人は結構いるし、今後はノーレートで当たり前と言う人が増えていくよ」ということになる。
そもそも麻雀は、賭けがなければ成立しないほどのつまらないゲームなのだろうか?
「賭け」というのはゲームを面白くするスパイスではあっても、決してゲームの本質ではない。本質としてのゲームがつまらなければ、賭けたとしても決して面白くないのだ。
先日カジノを中心とする統合型リゾート整備推進法が成立したが、賭けることを前提にしたカジノゲームも、やはり面白いゲームが残り、面白みの足りないゲームは衰退している。
例えばポーカー。日本で一番良く知られているのは最初に5枚の手札を受け取り、1回交換して勝負をする「ドローポーカー」だが、今のカジノではほとんど遊ばれていないそうだ。今、ポーカーで広く遊ばれているルールが「テキサスホールデム」というものだ。(*3)
ドローポーカーとの大きな違いは、プレイヤー個人に配られる手札は、たったの2枚。これにプラスすべてのプレイヤーが共用するコミュニティカード5枚が場にオープンされる。この合計7枚のうちから、高い役のできる5枚を使って勝負するゲームであるという部分だ。
プレイヤーは、自分の手にある2枚しか判断材料がない時点から、コミュニティカードが徐々にオープンされ、自分の持っている役の内容が判明していく間、合計4回に分けて、勝負をするのか、降りるのかを繰り返し選択させられるのだ。
対戦相手がいるポーカーの面白さというのは、自分の役と相手の役を見据え、勝てるか勝てないかを悩む部分にある。だから、自分の手はすべて見えるけれども、相手の手が見えず、ベットやレイズというやり取りが2回しかないドローポーカーよりも、コミュニティカードという形で相手の手札の一部が公開され、プレイの段階ごとに分かれた4回のベットやレイズを繰り返すテキサスホールデムの方が、より戦略的で面白いのである。
ルールが分からなければ理解しにくい話なのは申し訳ないが、重要なことは「お金を賭けるカジノゲームですら、面白くないゲームは面白いゲームに取って代わられる」という事実である。テキサスホールデムも、いずれもっと面白いルールが発見されれば衰退していくのだろう。
麻雀はどうだろうか?
麻雀に似たもので、麻雀よりも面白いものがあれば、麻雀は賭ける賭けないにかかわらず、衰退しているはずだ。しかし、今のところ麻雀が衰退したという印象はない。それどころか、ゲームセンターやPCやスマホでプレイできるようになった分、これまで以上に私達にとって身近な娯楽として遊ばれるようになったように思う。
麻雀だって決して淘汰の歴史から除外されていたわけではない。多くの人が麻雀をプレイする中で、様々なルールや役が産まれては消えていった。それらのなかで不公平感が無く、面白いものだけが残って、現在のルールに至っている。(*4)
そしてそうした変遷こそが、麻雀が持つ「文化」なのである。賭けというのはあくまでも麻雀文化のごく一部に過ぎない。
この事を踏まえた上で、市長の発言を見返すと、つまりそこには自分のプレイしている麻雀というゲームに対する敬意がないことが分かる。麻雀を賭けのためのゲームであるかのように誤解している。そこには基本的な文化に対する軽視があるように思う。
カジノを中心とする統合型リゾート整備推進法の成立に伴い、インターネットを見るに、これまで日本にあったギャンブルを軽視する発言が増えている。特にパチンコやパチスロといった、一部の人達が極端に嫌うギャンブルが、カジノによって駆逐されることを望むような発言が目につくことがある。
また、カジノ法に関連してギャンブル依存症の問題が言われてはいるが、これもまたお金を賭けているというファクトだけに視点が集まってしまい、カジノゲームそのものを無視している感がある。
しかし、麻雀であろうが、カジノゲームであろうが、パチンコ・パチスロであろうが、競馬や競輪であろうが、テレビゲームやスマホゲームであろうが、それらはすべて「遊び」である。そしてそれぞれに現在の遊びに紐づく、潤沢な「文化」が存在している。今現在も生き残り、親しまれ続けているだけの理由が存在している。「賭け」や「ギャンブル」という部分だけに注目し、各自の立場から何かを好み、一方で何かを貶すだけの味方というのは、そうした文化を踏まえぬ浅はかな考え方ではないのだろうか。
せっかく「カジノゲーム」という新しい遊びが、日本でも普及しようかというときに「賭けなきゃ面白くないだろう」という程度の発言が、このような形で出てくるのは、様々なゲームを愛する僕にとっては、やはり「残念だ」としか言い様がないのである。
*1:賭けマージャン:福岡・飯塚市長ら陳謝 市議会本会議で(毎日新聞)http://mainichi.jp/articles/20161222/k00/00e/040/236000c
*2:マージャン「賭けぬ人いるのか」「ゲーム感覚」 飯塚市長ら釈明、市民は批判(西日本新聞)http://www.nishinippon.co.jp/nnp/f_chikuhou/article/297501
*3:テキサスホールデムのルール(AJPC - 全日本ポーカー選手権 公式サイト)http://www.ajpc.jp/about-poker/
*4:麻雀の歴史(個人サイト)http://www.h-eba.com/heba/majan/history.html