※この記事は2016年12月13日にBLOGOSで公開されたものです

熊本地震で大きな被害を受けた益城町。多くの住民が避難所での生活を余儀なくされたが、避難所に指定されていない民間の施設にも関わらず、多いときで2000人の被災者を受け入れたホテルがある。熊本空港から車で10分ほどのところにある「阿蘇熊本空港 ホテルエミナース」だ。



震災直後、ホテルでは何が起きていたのか。震災翌日から3ヶ月以上に渡り避難所として施設を開放するという英断を誰が下したのか、総支配人の橋之口茂さんに聞いた。(2016年11月10日取材)。

2000人がホテルへ避難してきた




-まずはホテルが避難所として使われるようになった経緯を教えてください。

14日に前震がありまして、その片付けがようやく終わったのが翌日15日。そして日付変わって16日に本震が起きました。その夜が空けて朝6時くらいから、エミナースの南の位置にある津森校区のみなさんが避難して来ました。

益城町の木山地区周辺は建物が軒並み倒壊していて、津森校区も橋が3本あるうちの2本がダメになりました。残り1本が通れるうちに避難しないと、避難した津森小学校のグラウンドで孤立してしまうという状態で。

益城町議のみなさんと津森区長、消防の分団長で話し合いをして、最初は熊本空港に逃げようという話になったんだそうですが、空港は被害が大きく大変な騒ぎになっているということで、広い駐車場があったエミナースに白羽の矢が立ったということでした。

-行政から避難者の受け入れ要請などはあったのですか。

なにもありませんでした。津森校区の町議から町役場に連絡すれどつながらず、エミナースを運営している本社(熊本交通運輸)の住永金司社長に連絡を入れて、エミナースの駐車場に避難してもいいですかと許可を取ったそうです。

私は朝早くから車がどんどんやってくるので何事かと思ったのですが、本社の住永社長がすぐにエミナースの大型バスを動かし、私もすぐ中型のバスを移動させ、被災者が休める場所を確保しました。

お年寄りが結構いらっしゃったので車内を使ってもらえればと思いまして。バスは全部で5台。乳幼児を抱えた女性や高齢の方、子どもたちを優先的にバスの中へ入れていきました。

このときはまだ、建物の中に避難してきた方を入れるという判断ができなかったんです。ホテル自体が倒壊する可能性も捨てきれず、安全確認が間に合いませんでしたので。

-ホテルを避難所として開放しようという判断はどなたが。

私は初日に本社の住永社長がバスを避難者の方に提供された時点で、「全面的に被災者の方をバックアップするぞ」という無言の指示と受け取りました。

その中で住永豊武会長もこちらに来て、あちこちの運送仲間に連絡してくれたところ、佐賀県の鳥栖からリョーユーパン5000個が手配され届きました。後から聞きましたが、運送関連の友達から無料で提供して頂いたとのことでした。

被災者の方々を館内に受け入れる際に、名前・住所をとり名簿を作成し、1階の宴会場のフロアを開放して534人の方に入っていただきました。車中泊を含めると全部で2000人ほどの人がエミナースに避難していらっしゃいました。

-2000人ですか!?

もうパニックの状態ですね。通常では客室35室で100名までの宿泊客をお受けしています。宴会場もマックスで150人、和室で100人ちょっと。うちには大きなプールがあって、夏場には3000人のお客様が来ることもありますが、2000人の方が、夜を過ごすというのは初めての経験でした。

当時は廊下もロビーにも人が寝ていらっしゃいましたね。



日本赤十字社の医療チームが入っていましたので、 ロビーには畳を敷いて、要介護者の方や病人の方が使えるスペースにしたり、写場を隔離の部屋にしたりしていました。私は被災者の方の安全と衛生環境を1番に考え、場所を提供することに専念しました。

たまたまボランティア団体の方が里帰り中だった


プールのスライダーの辺りの芝生広場にはテントが10梁くらい立って、ボランティアのTUNAGARIさんの協力で運営・管理をおこなってくれました。



たまたま「一般社団法人震災復興支援協会 TUNAGARI」というボランティア団体の方が津森に子供を連れて里帰りしていたんですね。その方が被災されて、「仲間を呼んでいいですか」というのでどうぞどうぞと。そうしましたらすぐに7~8人がやってきて、テントのボランティア受付ができて、救援物資の受け渡しをおこなってくれました。



ボランティアの方があんなに優秀だとは知りませんでしたが、名簿や支援物資管理一覧もすぐにできて、スペシャリストでしたね。

そして、ここには津森校区の区長さんが9名いらっしゃったんです。それから益城町議、消防団長、ボランティアのTUNAGARIさん。この方々のおかげですぐにコミュニテイができあがり、本震の翌日、17日の朝には区長さんたちとの会議体が出来上がっていました。あっという間に様々な環境が整っていたんですよ。



さらに、福岡で居酒屋を7店舗やっている松林幹雄さんという方が17日に「炊き出しをやらせてください」とやって来ました。

食中毒の恐れもあり、私一人では判断できなかったものですから、総料理長と相談しまして、「建物の奥で調理するならいいでしょう」ということになりました。

そうしましたら、町の婦人部の知恵で農協からコンロを持ってきて、あっというまに1300人分の味噌汁ができる体制が整ったのです。

松林さんは東日本大震災で東北にも炊き出しの経験があったようで、とてもありがたかったです。震災から約3ヶ月間にわたり、炊き出しボランティアを実施していただきました。

地震は車の揺れだと思った


-震災当日はどちらにいらっしゃいましたか。

14日の前震の時、私は夜勤だったので、一旦家に帰って、22時に出勤しようとしていたところ、21時26分に地震が起きました。この日は80名のお客様が泊まっていたんです。

そろそろスーツに着替えようかとキッチンを立ったところで「ゴーッッ!」ときましたから。普段、10t車が家の近くを通るときに、ちょっと揺れるんですね。「今日はものすごいトラックが連なってきてるな」と思ったら地震でした。

-最初、車の音と揺れだと思った。

そうです、今日は車がすごいなと思ったらパッと電気が消えて、ものすごい揺れが襲ってきました。そして電気が戻ったら、部屋の中がぐっしゃぐしゃでした。そこからは80名のお客様のことで頭が一杯で、とにかくホテルに戻らなければと。

携帯はすぐに回線がパンクしてつながらなくなり、たまたま妻からかかってきた電話だけつながって、「大丈夫」と言っていたので、すぐに車のエンジンをかけてホテルに戻ってきました。戻ってくる道すがらは頭真っ白でしたね。80名のお客様が無事かどうか。ホテルはどうなっているのか。

幸い、ホテルスタッフは日々火災訓練をしていたので、客室からお客様を避難させて、ロビーに集めて点呼を取るという手順が体に刻まれていたんですね。私がホテルに戻ったときには点呼がほぼ完了していました。

そこからお客様を外に避難させて、バスを用意しまして、その中で毛布にくるまってお休みいただきました。

中には「自己責任で部屋に戻らせてくれ!」というご年配のお客様もいらっしゃいましたが、余震が数分、数十分おきに続いており、とても安全確認のできる状態ではなかったんです。2時間くらいたって、もう中に入っても大丈夫かなと、バスからエントランスまで誘導したらまた震度4くらいの揺れが来るんですよ。この日はホテル内に入るのを諦めました。

-エミナースは他の避難所と比べてどうだったのでしょうか。



私は2週間くらいここに缶詰状態で、付近の状況を確認できていなかったんです。家族もここに避難していたので、他の避難所や町の様子を見に行く機会もなく。

大きな避難場所になっていた益城町総合体育館に5月の初旬に初めて行ったんですが、あまりに雑然としていてビックリしました。床にダンボールだけの仕切りで、ダンボールベッドも用意されていなくて。

エミナースではまず区長さんたちが通路を作る、ということで、避難所の区画整理をしたのですが、それが功を奏しました。

役場の方は4日目くらいに入ってきて、窓口が出来ました。主導権はそれから行政の方がコントロールして、保健師さんの方も入ってくれましたし、相談もできる仕組みになりました。しばらくして茨城県、鳥取県、三重県、などから行政の方が支援にいらっしゃいました。消防の方々は24時間体制で夜警も防犯もぜんぶやってくれましたから。

そのうち郵便局まで入ってきて、郵便物の受け取りや手紙を出すこともできるようになりました。いろんな方のご協力があったからできたことで、お陰様というところだと思います。2000人分のトイレも大変でしたね。

ボランティアと支援物資の受け入れに奔走


-避難所としての体制が整った後は、何を担当されていたのですか。

体制が整った次はボランティアの方の対応ですね。問い合わせの電話は全部エミナースの代表電話にかかってくるものですから。

アロママッサージ・コンサート・様々な炊き出し・・・。被災者の方々が元気になればという思いで受け入れました。



あとは物資の受け入れ。今回国がプッシュ型の支援をしたので、いるいらないにかかわらず支援物資がどんどん届く。うまかなよかなスタジアム(熊本県民総合運動公園陸上競技場)には、一日103台の10t車で支援物資が届いていたんですけれども、スタジアムの中に積まれていくだけで、町の避難所や公民館には行き渡らない状態になってしまいました。

物資を受け取る大きな場所が手一杯になって、個人支援物資配送の自粛要請を出したところ、だったら他のところへ送ろうと、全国からエミナースに電話がかかってくるようになったんです。

私はいただけるならなんでも助かるとお受けして、ボランティアの方々と物資受け入れについて相談しつつ、水でも衣料品でも可能な限りテントの中に入れました。

それをリスト化して、分類して、外部の方がここに救援物資を取りに来てもお渡しできる状態を整える事ができました。

自宅が被災しているのにホテルへ出勤してくれたスタッフ


-何名くらいのスタッフがいらっしゃったんですか。

社員60名ちょっとのうち、震災時に出てこられていたのは20名ほどですね。ローテーションで勤務にあたっていました。

-ホテルのスタッフの皆さんも被災されているのに、他の被災者の対応を優先していたのですか。

ほとんどのスタッフがこの辺りに住んでいますから、多かれ少なかれ被災しています。にもかかわらず、ありがたいことに、自宅を差し置いても、近場で動ける人間はみんな出てきてくれていました。

被災した自宅にいるよりは、エミナースにくれば物資の支援もありますし、行政関係者もいて情報もありましたので、安心できたという面もあったのかもしれません。

他の避難所に行かれた方からは、「エミナースの整った状況を知っていたらこっちに来たのに」と言われましたが、あの時はみんな自分の目の前のことで精一杯で、他がどうだとかの情報伝達ができていなかったんです。グランメッセ熊本に逃げた方とかアクアドームくまもとに避難した方とか、大変だったみたいですね…。

閉所式には寂しい気持ちもあった


-避難所としてはいつまで稼働されていたんですか。

7月31日に閉所式を行いました。7月には避難者は広間に80人ほどまで減っており、仮設住宅の完成に伴い、少しづつ移って行かれましたね。

-営業完全再開はいつ頃から?

翌8月1日からですね。ホテルとしては4月21日に温泉が復旧して、シャワーくらいはできるようになっていました。客室をすべて掃除して、5月くらいからはお客様をお泊めしていたと思います。復興の行政関係者や医療関係の方などを優先しておりました。

-閉所式を終えられて、どんなお気持ちになりましたか。

いやー、もう、寂しいというか、複雑な気持ちでしたね。おばあちゃん達と毎日コミュニケーションをとっていたものですから。

震災直後の2000人からの方々がいらっしゃるというのは、ものすごく賑わっているわけですよ。そういう中でご挨拶したりコミュニケーションをとっていたので、ある意味、充実感はありました。それがスッとなくなってしまったのは、正直寂しい気持ちもありました。

仮設住宅に入れることが決まって、逆に不安になっているお年寄りの方もいたんです。ホテルはバリアフリーにできていますけど、段差をどうしようとか、自分たちで自立しなければいけないとか。仮設が決まってよかったねという気持ちもあったので、複雑でしたね。

-お世話できなくなって寂しいと感じるのはすごいですね。翌日からすぐ営業完全再開ということで、震災以来お休みはあったのですか。

お盆くらいまで休めてなかったですね(笑)。鹿児島が実家なので、墓参りに行ったのが最初の休みだったかな。ただ、家族もここへ避難していて、子供が10歳と6歳なんですけど、私と妻が両方揃っていることがほとんどないものですから、家族一緒にいられて嬉しかったようです。

ホテルの営業自体は夏のプールシーズンが過ぎ、ようやく9月に入って落ち着いたのですけれども、これから忘年会シーズン突入なので、新年会の時期が終わるまでは頑張ります。



-エミナースに避難していた方と、その後の交流などはあるのですか。

はい、ウチの温泉にもきてくれますし、レストランも使っていただいています。ボランティアの無料イベントも続いていますし、そういうときは仮設住宅にお知らせを出します。

全員の顔は覚えきれていないのですが、懐かしい顔を見たときには「ああどうも」「お元気でしたか」と交流ができていますね。

-避難所を運営してみて、困ったことはありましたか。

本当に皆さん無償で助けてくださるのであまり困らなかったのですが、今振り返ると大変だったのはボランティアの受け入れと物資の受け入れですかね。企画のボランティアというのがありまして、歌を歌いにくるとか、演奏会をやりたいとかそういう方々です。そのスケジュール調整を行政とやりくりしていました。

あちらからは突然電話がかかってきますから、何月何日にオーケストラ連れて行きたいんだけど、とか、足湯をやりたいとか、歌手を連れて行きますとか、みなさん一生懸命なんですよ。でも受け入れ体制を整えて日時を調整しなければいけません。そのへんは上手くやらないと。ほぼほぼ、受け入れられましたけど。

今、みんなのために何が出来るかを考えよう


今回たまたまうちには区長さんや町議さんなどのリーダーが揃っていたので、指揮系統をまとめることがすぐにできたのですが、ふつうの避難所に避難していたら、そこで人をまとめるというのは大変だと思います。

これは震災翌日にトイレに津森校区のかたが張り出したものなんですけれども、

「国や県があなたに何をしてくれるかを言うのではなく、今、みんなのために何が出来るかを考えよう」

と書かれていました。こういう自己啓発の姿勢が、円滑な避難所運営を支えてくれていたんだと思います。

-何ヶ月にも渡り、場所を提供して、被災者の方のケアをしていたというのは地元の絆なのか、ホテルマンとしての職業意識がなせる技なのか、なにが原動力だったのでしょうか。

会社の上層部が「人助けを優先する」ということを大々的に打ち出していましたし、ボランティアの方もいらっしゃいましたので「何をしなければいけない」というのは必然的に見えていました。

ホテル業というのは「おもてなし」じゃないですか。その中に世話役は入っているんですよね。だから被災者の方が困っていればそのサポートを我々ホテルマンは自然体で出来るわけです。それがお役に立てたのであればなによりですね。



阿蘇熊本空港ホテル エミナース