※この記事は2016年12月12日にBLOGOSで公開されたものです

2016年4月14日、熊本県熊本地方を震央とするM6.5の地震が発生し、熊本県益城町では震度7を観測した。しかし、これは前震に過ぎず、同16日未明にM7.3の本震が発生。益城町と西原村で再び震度7を観測するなど、九州地方に大きな被害をもたらした。



あれから7ヶ月。被災地の復興は進んでいるのか。熊本県上益城郡益城町へ向かった。(11月9日・10日取材)

被災地の斎場で何が起きていたのか




最初にお話を伺ったのは、益城町で斎場「益城会館」にお勤めの川端康誉さん。益城町では熊本地震で27名(直接死20名・関連死7名 11月14日現在)の方が亡くなった。斎場も震災の被害を受ける中、亡くなった方をどう弔ったのか、そこにどのような苦労があったのか聞いた。



-震災から7ヶ月が経過しましたが、斎場が再開したのはいつ頃でしたか。

完全に再開できたのは7月22日です。7月24日に震災から100日ということで、益城町で慰霊祭が開かれました。



それまでに、まだ震災でなくなった方でまだ葬儀を終えていない方の葬儀を終わらせなければならなかったので、7月22日に2階の大斎場を完全復旧し、無事に葬儀を執り行うことができました。葬儀をせずに慰霊祭というわけにはいきませんでしたからね。



-斎場の被害状況は。

大変でしたね…。2階は天井が落ちて斎場が使えなくなってしまいました。



いたるところで壁が崩れ落ちてきて、



事務所もメチャクチャでした。



裏に倉庫があるのですが、鉄骨スレートの建物が傾いてしまいました。



当初は恐る恐る必要なものだけを取り出し極力中に入らないようにしていたのですが、数日後には普通に入るようになっていました。棺なども倉庫の中にあったので、出さないことには仕事にならなかったのです。



また、本館のほかに2箇所小さな斎場があったんですが、壊れて完全に使えなくなってしまいました。



-復旧作業も大変だったのでは。

まずは駐車場の裏にプレハブを建てて仮設の葬儀場をつくり、そちらを使用しながら斎場の1階を使えるようにし、その後に2階を復旧しました。



プレハブ斎場のおかげでお受け出来た葬儀もありましたね。できることはなんでもやろう、という感じで。



震災でお亡くなりになった方をどう受け入れるか


-斎場も大きなダメージを受けたんですね。4月14日の1度目の震災(前震)でお亡くなりになった方はどうされたのでしょうか。

お問い合わせのお電話を4~5人くらいからいただいたのですが、葬儀をお受け出来る状況ではなかったので、被害の少なかった熊本市内の斎場などへ回っていただきました。

2回目の地震(本震)は被害が大きすぎて、熊本市内の葬儀場も大変だろうと思いました。隣の農協さんの斎場をお借りすることが出来たので、そこを安置所として使わせていただき、9体のお棺を並べるような形で対応させていただきました。

なぜ農協さんの斎場が空いていたかというと、益城町よりも隣の御船町の斎場の方が被害が少なかったようで、農協さんが受注した分はそちらで執り行っていたようです。そうやって場所をあけてもらってどうにか対応しました。

出棺にしても益城町の火葬場は震災の被害で使えなくなっていたので、熊本市の火葬場を予約して搬送。葬儀という形は無理だと判断して、お寺に連絡して出棺のお務めだけあげてもらったり…といった手配をさせていただきました。

お寺側の被害も甚大でした。当時の報道では、全壊したお寺が5件ということでしたが、それ以外にも本堂を壊さなければいけないというお寺さんもたくさんありますね。



火葬を済まさないと避難所にも行けない


-今年はお葬式の件数は増えたのでしょうか。

例年と変わらないか、若干少ないような気もします。地域全体としては、ご高齢の方が遠くに避難されていて、その影響もあるのかもしれません。益城町の火葬場の予約件数も緩やかな感じがします。

益城斎場(火葬場)は震災から3、4日して使えるようになったのですが、震災で道路も被害を受けていて、斎場までどうやって車でたどりつくかが問題でした。



途中、橋がボコボコになっていたり、家が崩れて道幅が狭まっていたり、今まで普通に通れていた道が2t車以上は通行禁止になっていました。ご家族や参列の方を送るマイクロバスは大きいですから、どう迂回していくかが大変でしたね。

-震災で急に大切な人をなくされたご家族の方というのはどういったご心境なんでしょうか。

家の中から棺に一緒に入れてあげたい、大切なものを取り出せなかったといったことがありました。

それでも火葬を済まさないと、ご家族も身動きが取れない。みなさん被災者ですから。それが現実でした。お棺と一緒に避難所へ行くことも出来ないわけです。「お骨にならんと自分たちの生活がどうしようもない」という感じでした。

そんな中でも、故人のお顔が見えるように、納棺師さんは頑張ってくれました。震災でお亡くなりになって、顔に傷がついたりとかもあったと思うんですよね。最後のお別れが出来るように、キレイにしてくれたのはありがたかったです。

-震災直後だと、お葬式に参列するのも大変ですよね。

震災当日、翌日にお亡くなりになった場合は、ご身内だけで…という方が多かったですね。お葬式は改めて後日落ち着かれてから、という方もいらっしゃいました。

5月下旬からは、斎場の1階が使えるようになってお式をやりはじめて、最後の方がさきほどお話した、2階の大斎場でやった7月22日でした。

建物の外に布団を敷いた


-前震のときはどちらにいらっしゃいましたか。

ちょうど仕事が一段落したので自宅に戻り、居間で妻と娘と夕食を食べていました。これはただ事じゃないという揺れでした。

私は20歳の頃に病気をした後遺症で、目の動きが少し悪くて段差がわかりづらく、夜目が利かないこともあり、私が出ていくと2次被害がおきそうだったので、外に出るのは危険だと判断して家に留まりました。

「東館」という式場には、仮通夜でお休みになっていた方がいましたし、さらにもう1件ご自宅で仮通夜をなさっていた方がありました。とにかく余震がひどかったので、「東館」で仮通夜で泊まっていたご遺族は建物の中にいたくないとおっしゃり、外に布団を敷いて休んでもらいました。

両親宅は前震の段階で住める状態ではなくなり、のちに取り壊しました。父は仮通夜の方の避難や付近の道路の交通整理をし、弟は消防団で班長をしており火災消火に出動したりと大変だったようです。

-ライフラインはすぐに止まってしまいましたか。

水道も止まり電気も消え、2歳半の子供が初めて「怖い」と言いました。ガスはプロパンなんで使おうと思えば使えたのでしょうが、安全確認ができないのでしばらく使いませんでした。

翌4月15日の昼間に妻と子供は熊本市内の西部にある妻の実家に帰しました。そちらは被害が少なくて、食器が何枚か割れたぐらいだったようですが、うちの食器は9割がたダメでしたね。

15日は会社の復旧をして、深夜、日付変わって16日の1時25分に本震が来るんですけど、部屋の隅のベッドで寝ていたら、地震の揺れで部屋の真ん中まで動いてましたね。疲れ果てていたので、そのまま寝ていました。

-翌朝、町の様子はどうでしたか。



1回目の揺れの時からこのあたりは被害が大きかったので、すでに避難した人も多かったのですが、前震に耐えた家屋が2回目の揺れで潰れてしまったところが沢山ありました。

前震の後に避難したものの、電気が復旧して家に戻っていた方などが被害に遭ってしまったケースもあって…。

「ここはあぶない」と戻らなかった人は無事だったのですが、前震の後は「震度6弱の余震が来る可能性が20%くらい」というように報道されていたと思います。2回もあのレベルの大地震が来ると思っていた人はいなかったでしょう。

-いつか地震が来る、という危機感をお持ちの地域だったのでしょうか。

危機感はたぶんないですね。益城町はわりと自然災害の少ない地域で、今まで大きな地震もなかったですし、一部、「布田川断層」という断層が走っていることは知っていたので、地震が来たら危ないと言っていた方はいたのですが、ここまでの大地震とは思っていなかったんじゃないですかね。

台風の大きな被害もなかったですし、数年前に大雨で増水したときが大変だったくらいの、のどかな地域でした。

-震災で何が1番困ったことは。

水道の復旧が一番遅くて、ウチで復旧に1ヶ月はかかりました。このあたりは地下水の豊富な地域なので、生活用水は湧き水でまかなっていました。ポリタンクで汲みに行っていたのですが、結局水道が出ないとお風呂も入れないし、トイレも流せない。それは困りましたね。

-お風呂はどうしていたんでしょうか。

隣町の温泉に入りに行きました。多少割引があったと思います。2日に1回くらい銭湯感覚で通っていました。子供と妻は1ヶ月ぐらい熊本市内に避難していました。

-落ち着いたな、と思ったのはいつ頃ですか。

落ち着いたかと聞かれると、まだ落ち着いていないですね。うちもこの建物は復旧しましたけれども、ほか2箇所が使えなくなってしまっているので、プレハブ斎場をつかっても葬儀をお受けきれず、お断りしなければならない状況もあります。

震災から20件以上受けられなかった葬儀があるんじゃないでしょうか。別館を建て直すまでは続くことなので、地域の皆さんに申し訳ないという思いが強いですね。

道路を拡幅しようとする話もありますし、なかなか再建も順調ではありませんが、一歩一歩進んでいきたいと思います。