結局みんな、パパをほしがっているんでしょ? - 赤木智弘
※この記事は2016年11月13日にBLOGOSで公開されたものです
アメリカの大統領選挙で、トランプが勝利した。アメリカの政治の現状や、トランプ自体がどのような政治姿勢の持ち主なのかは、日本のメディアで伝えられている程度しか知らないので、トランプが大統領としての仕事を開始したあとに、どのようなことをするのかの予想はしようがないが、ただ一点だけ明らかなのは、あのような「敵に罵倒の限りを尽くして勝つ」という選挙結果がでたことだ。これはトランプという個人や、その政治姿勢がどうこうという話ではなく、こうした言動を行う人間を好ましく思う人間が、アメリカという国には少なくとも、彼が大統領となる根拠になる程度は存在しているということである。だから問題はトランプ個人ではなく、彼を支持するアメリカ人の側にある。
これを日本の社会と対比して考えるに、日本でもポピュリズムを賛美する人は決して少なくなく、アメリカが日本の数年先を行っているとは思わない。日本の場合は首相制で国会議員による選出であるため、党内での権力関係によってしか首相になれないが、日本も大統領制であれば、アメリカに先んじて「石原慎太郎大統領」や「橋下徹大統領」が誕生していたであろうことは、決して想像の範囲外ではないだろう。
で、僕がこの選挙結果を見て、強く思ったのが、結局はみんな「雨の日に捨て猫を抱く不良」と「金と権力を誇る立派なお父さん」が大好きなんだな」ということだ。あくまでも日本のメディアで伝えられる内容からではあるが、僕の見たトランプ像というのは、この2つの悪魔合体である。
雨の日に捨て猫を抱く不良というのは、日頃はひどいことをしながらも、ちょっとしたときに優しさを垣間見せる人のことである。こうした人を指して「本当は優しい人」などと言うが、本当に優しい人は普段から他人をこき下ろすような言動をしない。しかし、なぜか普段の言動と、実際の性格を逆であるかのように考える人がいるのである。
普段他人をこき下ろす人が、わずかな優しさを見せたことを「本当は優しい人」過大に評価することは、一方で、普段は優しい人がたまに言葉のあやなどで他人をこき下ろしたときに「本当は悪人」と評価することでもある。
そうした評価をする人が増えれば増えるほど「暴言は優しさの裏返し」という考え方が共有される。トランプの聞くに堪えない恥ずべき暴言は、むしろ「愛国心」や「家族愛」の表明であるかのように解釈された。少なくともそう解釈する人が、アメリカにはたくさんいるのである。
それは日本でも同じで、他者への攻撃を「身内に対する愛情、守る姿勢」と解釈する人がたくさんいる。中国や韓国を罵れば誰でも愛国者だと認定される社会となりつつある。
もちろん、これらについても「一方で」ということがあり「普段、いいようなことばかりを言っているリベラルは悪である」と続くのである。
実際のところ、少なくとも日本ではトランプが庶民側、ヒラリーがリベラルパワーエリートであるとする見方が一般的である。
そこには、リベラルを称しながら、実際には偏った分配を是正せずにエリートである恩恵にどっぷりとつかりながら、マイノリティの票田にばかりこだわり、マジョリティを見向きもしないという、リベラルパワーエリートへの嫌悪がある。
他民族へのヘイトを公言するトランプを支持する人というのは、白人男性に多いとされてきた。彼らはマジョリティとしての特権を享受していると、マイノリティに批判されながらも、実際には特権など得られたこともなく、ただ普通に生活している人に過ぎない。もちろんそこには「歩いているだけで警察に目を付けられ、時には銃すら突きつけられる黒人や他民族」などの問題はあるわけだが、そうしたマイノリティヘイトを含む白人社会と、実際に生活をしている白人個人の意識というものは決してイコールではない。
「差別に気づいてないだけだ!」と批判することもできるが、それを批判したところで、実際に差別していない白人と、実際は差別している白人を、正しく区別できるはずもなく、マイノリティの叫びは一方的なマジョリティ全体への批判として響く。その声は、差別している白人には負け犬の遠吠えとしてしか認識されない一方で、差別をしていない白人には「なぜ、差別もしていないし、差別する白人を批判している俺まで、奴らの仲間であるかのように一緒くたに批判されるんだ」という不満だけを与えてしまう。
日本でも決して違いはない。男であるということだけで非正規だろうが、シングルペアレントであろうが、マジョリティであると認識され、様々な支援や援助や同情の手からこぼれ、自己責任であると罵倒される。
そうした意味でも「俺たちアメリカ人!同じ仲間!」という地域愛という不良的メンタリティを持つように見えるトランプが支持されやすい土壌があった。もちろん、これも裏返せば「他国は敵、移民は敵、LGBTなど変な連中は敵」ということでもあるのだが。
もう1つ「金と権力を誇る立派なお父さん」について。
男性を罵るフェミニズムの言葉に「私はおまえのママじゃない」という言葉がある。フェミニストがむやみやたらに男性をこき下ろしていることに対する批判や、また男性も平等に扱われるべきだという主張に対して、フェミニズム側が突きつける言葉である。
フェミニズムにとっては、自分たちのことは自分たちであり、自分たちは女性でマイノリティだから男性を助ける義務はないという意味の、拒絶の言葉である。
しかし、フェミニズム自体は女性の独立独歩を勧めているわけではない。女性に関しては国や行政から支援されてしかるべきという立場である。フェミニストたちは男性のママではないけれども、フェミニスト自身は、自分たちを助けてくれる強力な「パパ」を必要としているのだ。
このときの「ママ」とは「母性」や「性愛」という個人的ことを指す。男性がマイノリティへの支援が進む一方で、弱い立場のマジョリティも存在するという社会構造の問題を指摘したときに、フェミニズムはそれをさも「その男、個人の性欲」あたりの個人的問題と結びつけ、これを拒絶する。
一方で「パパ」とは、強力な権力による支援のことを指す。支援というと、つい公的支援のことを考えがちだが、個人や企業による支援も当然存在する。大学や企業などに女性を優先的に入れる「アファーマティブアクション」なども、パパの支援の元に行われる。
「パパ」は、支援する対象を選別する。日本語で言えば「選択と集中」という奴で、この選択の権利を持つのがパパである。パパは家族を守る。家族を守る風景は、家の外の他者に対して銃口を向ける形でイメージづけられる。身内を守り、他者を阻害するのが、望まれるパパの姿である。
パパを望む人たちからは、幅広い人を対象にした公的扶助は嫌われる。なぜならパパに選ばれることがパパを支援する人の特権であり、自分たちが支持したパパが、他の人たちの方ばかりを向き、自分の相手をしてくれないのであれば、不満が溜まるのも道理だろう。
リベラルによるマイノリティ保護が、必要でありながらも多くの人たちにとって反感の的になるのは、やはり票を投じる側が「パパ」を望んでいるからである。
トランプは他者やマイノリティを積極的にこき下ろすことによって、望ましい「パパ」としての姿を、アメリカ国民に示したのである。だから大統領になったのである。そこにあるのはむき出しの「個人」である。アメリカの個人が、社会全体よりも個人の満足を選んだのである。
しかし、そのことを我々日本人は、非難できるだろうか?
日本人も金と権力を誇る立派なお父さんが大好きではないか。
あるトランプ批判者は、トランプに対して「教養がない」と言った。
だが、日本でも、教養のない経営者がさまざまなメディアに顔を出し、さもご意見番のような顔をしていることが多い。
そもそも、日本人は「働いてお金を得る」ということを当然のこととしている。働けない人が社会保障を得ようとすれば「自己責任だ!」などと、罵られることも多い。そのこと自体、経営者というパパによる、給料という分配を「パパのために働いている」という根拠をもってもらうことを是としている、明確な証拠である。
トランプは成功した経営者だ。社員は経営者のために尽くし、社員は経営者から分配を得る。しかしその一方で、経営者から選ばれなければ、途端に生活は破綻する。それが今の社会である。つまり現状の社会は本質の部分で「パパ」を必要としているのである。
パパが分配先を自由に選ぶという会社のシステムが、そのまま国のシステムとして受け入れられることは、決して不思議ではない。ましてや日本人は働いて給料を得ることを「望ましいこと」であると考えている。
すると当然、国と国民の関係性も「国というパパと、パパのために働く国民」というものになる。こうした仲間意識は、まさに「身内」と「敵」を明確に区別する「不良」のそれである。そしてその不良は「本当は優しい人」だと思われるために、他者に対して粗暴の限りを尽くすのである。
僕自身は、トランプが当選したことを喜んでいる。
それはアメリカという他人が、ああした大統領を抱いたことにより、どのように世界から取り残されていくかに注目しているからである。
ヒラリーが選ばれても、社会は変化しなさそうだが、トランプが選ばれれば何らかの変化は起こる。その変化を観察するのに、アメリカはちょうど良いモルモットである。
トランプ大統領の下で、国というものが国民からの貢献を要求する「会社」と化し、いかに国民が翻弄されて墜ちていくのか、じっくりと観察したい。決して日本も他人事ではないのだけれど。