国内産が高ければ、外国産を使えばいいじゃない - 赤木智弘
※この記事は2016年11月05日にBLOGOSで公開されたものです
僕は独り暮らしなので、週に数回はスーパーに行って食材を買うのだが、最近は本当に野菜が高い。おかげでもやし炒めの頻度が増える一方である。とはいえ、独り暮らしで食べる量はたかがしれている。たくさんの野菜を使わざるを得ず、予算が決まっている学校給食では、野菜の高騰に給食費の範囲で対応できなくなっているそうだ。
三重県鈴鹿市の教育委員会では、市内の小学校と幼稚園での給食を2ヶ月で2日間分、中止することを決めたという。(*1)
確かに、あらかじめ決まっている予算で、急な野菜の高騰に対応することは難しいだろう。工夫にも限度というものがあるし、また給食費の設定を決める時に、その年の夏の天候を予想しろというのも無茶な話だ。そうした意味では、一時的な値上げなり、こうした一時的な中止で対応するしかないということは分かる。
しかし、その一方で、僕には「自業自得」と思える部分もある。それが記事内にある「市独自の地産地消条例」というやつだ。
いくら日本国内の気象が野菜の発育に良くなかったからといっても、日本は世界から食料を輸入している国であり、国内産や県内産などといった産地にこだわらなければ、野菜そのものが絶対的に不足しているわけではない。生野菜は大変かもしれないが、加工された輸入野菜を使うことによって、価格を抑えながら栄養を補うことは十分にできるはずである。
しかし、いつの頃からか、学校給食に「地産地消」といったお題目がはびこるようになり、「楽しい給食」が「厳しい食育」に変化してしまった。中には「日本人はお米を食べるのが当たり前」とばかりに、パン食をやめてしまった市町村まである。(*2)
新潟県三条市の例(*2)を見ても分かるように、こうした食育では、宗教じみた「正しい食生活」と「正しくない食生活」という二元化が行われてしまっている。
正しい食事をすればいい子に育つ、正しくない食事をしていると悪い子に育つという、一見素朴な考え方は、実際には片親家庭や貧困家庭などの、なかなか食事を丁寧に作っていられない家庭への差別を形作る。
地産地消もまた、自分たちの地域のものを「良いもの」と認識する一方で、余所からきたものや、外国産の食品などを「危険なもの」とみなす偏見の醸成に一役かってしまっていると言える。例えデータ上で危険ではないと判明していても、実感として危険性を覚えている人は多い。(*3)
結果として、地産地消は食への理解を深めるどころか、安直な国産信仰という、食のタコツボ化をもたらしている。こうした入り口から、異なる文化や他国の人たちへの偏見を深め、排外主義に走る子供もいるのではないだろうかと、僕はつい心配してしまうのだ。
実際、今回のような野菜の高騰が起き、輸入食材を使いたいと思っても、条例で縛られているのみならず、輸入食材に不審の強い親から反対されることが予想され、地産地消というお題目を解消することはほぼ不可能に近いだろう。
しかしそれは結局、世界中の様々な食事の形態や食材の利用、そして素材に対する創意工夫で多様な食事を経験するという、本来の「食の豊かさ」を否定し、地域の食材を使った食事を出すか、それができなければ中止という、極端な「崖っぷち給食」の推進に他ならない。
もちろん、子供に栄養バランスの取れた給食を与えることは重要ではあるが、それは数多くの食品を使って実現するべき目標であり、わざわざ地産地消などという枷をはめて苦しむ必要など、全くないはずだと僕は考える。
*1:野菜高騰で給食中止へ 30小学校、13幼稚園で 三重(朝日新聞デジタル)http://www.asahi.com/articles/ASJC23G3SJC2ONFB005.html
*2:完全米飯給食の実施に疑問(BLOGOS 赤木智弘)http://blogos.com/article/100647/
*3:昔のように怖がる必要はない中国産食品(JBpress)http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/40684