表現の自由を訴えるよりは、まっとうな説明が先 - 赤木智弘
※この記事は2016年10月08日にBLOGOSで公開されたものです
熊本県南部を走る「くま川鉄道」で、予定されていた「特別応援切符」の販売が中止となった。成人向けゲームのメーカーがボランティアとしてキャラクターなどを提供していたが、そのキャラクターが「成人向けゲームのキャラクターに似ている」とする情報が市民や市議などから寄せられ、最終的に中止を決定したということである。(*1)
さて、最初にこのニュースを見たときには「成人向けゲームのメーカーだからといって、ボランティア活動から排除される理由にはならない」とか「同じ作家が描いたキャラクターが似るというのは、当たり前のこと。それをもって排除する理由にはならない」と思って、さて、販売される予定だった特別応援切符の絵と、酷似しているとされるエロゲのキャラクターを見比べてみたら……
「完全に同じじゃないか……これはダメだわ……」
完全に同じキャラというか、服装を変えただけの「差分」である。
元は「Lose」が発売する「まいてつ」(*2)というゲームだが、それと見比べてもらえれば分かるとおり、まいてつのキャラクターの「ハチロク」と「れいな」そのまんまである。
顔が同じだというくらいなら、それはあだち充という、ヒロインのキャラクターがほとんど同じ顔という漫画家の事例があることを見ても分かるとおり、作家の個性として仕方ない部分ではあるのだが、体型も顔も髪型も髪の色も、そしてアホ毛の具合までまったく同じなのだから、同じキャラだとしか認識しようがない。
せめて絵が違えば、論点は違ったのだろうが、絵がまったく同じである以上、この件は中止で妥当なのではないか。僕はこの時点で、この件については「中止にされても仕方ない事例」であると結論づけた。
しかし、この決定に反発する人も少なくない。特に普段「表現の自由を守ろう」と主張する人たちが、表現の排除に反発している。
最もよくある反論が、「どうしてエロゲのキャラだからダメなんだ! あのキャラクターもエロゲ出身ではないか!」というものである。
たとえば「TYPE-MOON」の代表作である「Fateシリーズ」は元々は2004年に18禁ゲームとして発売された作品である。その人気からPlayStation2など、家庭用ゲーム機にも移植されている。その際に当然18禁要素は排除されている。また、テレビアニメとしても放送されたり、様々なスピンオフ作品が一般作品として発表されている。他のゲーム作品とのコラボレーションも多く、行政や公共交通機関でのコラボやイベントを考えても、すでに徳島恒例のイベントとなった「マチ★アソビ」にも参加したし、また公共交通宣伝のメッカとも言える新宿メトロプロムナードでの広告展開も行っている。こうしたことから「Fateはいいのに!なぜまいてつはダメなんだ!」という声は大きい。
しかし、なぜかといえば、様々なメディアに顔を出し、一般作品としての実績を十分獲得しているFateと、エロゲしか作品のないまいてつでは、大きな違いがあると考えるのが当然だろう。
また他にも「AV女優がボランティアに関わるのはいいのに、エロゲのキャラはダメなのか!」という反発もある。しかし、これもまた反論にはなっていない。
なぜなら、AV女優はAV女優である前に一人の人間であり、その職業を理由に排除されないという人権がある。一方でくまてつの場合は、エロゲを作っている人こそが、AV女優と同じスタンスの存在である。つまり、絵を描いている作家自身が、アダルトゲームを作っているからといって、ボランティアから排除されないという人権を有しているとは言える。
しかしそれは、決してエロゲーのキャラがボランティアに参加できる権利ではない。キャラクターに人権はない。というか人権がないからこそ、エロゲの中でキャラクターはレイプされたり、孕まされたり、それ以上のたとえば四肢の損失であるとか、そうした猟奇的な行為を含めた表現をすることができるのである。まいてつの明らかに子供としか思えないキャラクターのセックスシーンが許されるのも、キャラクターに人権がないからである。
エロゲのキャラをAV女優と同じ位置だと主張することは、むしろ表現の自由を狭めてしまう、悪手であるといえよう。
ひとまず、最も反発の大きかった論点2つを整理するに、結果として何が問題かと言えば「多くの人たちに、エロゲーのキャラを使うことの説明ができない」ということにつきるのではないか。
メーカー側は「切符のキャラクターには成人向け要素は一切なく、ゲーム会社名やゲーム名、キャラクター名を入れないなどの配慮をしていた」と説明している。(*3)
しかし、見た目が同じである以上「あくまでも別キャラ」というのはいいわけにしか聞こえない。別キャラというなら、それこそ別キャラを貫き、新しいキャラクターを描き起こせば良かったのである。その部分を、差分としか言いようのない流用をしてしまったがために、結局は十分に説明のできない自体に陥ってしまったと言えよう。ハッキリと一番重要な部分で手を抜いてしまったと言ってもいい。
仮に、このイベントが実施されていたらどうなっていたであろうか?
反論の中には「エロゲを知らなければ誰も気づかない。気づかなければ問題はない」と主張する人もいる。しかし、エロゲと同じキャラでイベントを行い、それにネット中の誰もが気づかないものだろうか?
少なくとも今回、このイベントを問題として中止を求めた市民や市議は、それに気づいていた。気づく人は必ずいるのである。
そして当然、ネット界隈もそれにすぐに気づくだろう。そうなると騒ぎ出すのは、アクセスほしさに様々な場所に火を付ける、ネット上のまとめサイトである。大手まとめサイトが「くま川鉄道がエロゲとコラボ!!」となどと騒げば、その情報は一気に拡散される。くま川鉄道並びに、第三セクターを運営する人吉市などに、説明責任が生じてしまう。そのときにいったいどのように説明するのか。「見た目同じキャラですが、設定が違うので別キャラです」と説明して、それでネットで騒ぐ人たちは納得するだろうか? 「同じだろww」とあざ笑うだけではないだろうか。
もちろん、ネット上だけではなく、くま川鉄道の沿線の人たちに対しても説明しなければならない。住民たちはネットで騒ぐ人たちよりもエロゲーに寛容さがないだろうことは予想が付く。ましてや、まいてつはロリ系のエロゲである。一般の人たちの風当たりはより強いと考えるのが妥当である。果たしてどうすれば、地域住民たちに納得を得られるような説明ができるだろうか。僕にはとてもではないが、納得できるだけの説明は思いつかないのだ。
僕自身は、エロゲーというものに対して、それを排除したいなどとは思っていない。また、エロゲーの登場人物が例えロリ系であろうとも、それが何らかの問題を含むとはまったく思っていない。
しかしながら、そうした表現が多くの人に支持されるなどとも思っていない。支持されないものが大手を振って歩くためには、それなりの説明をできるだけの根拠が必要不可欠なのだ。
今回の件に関して「ボランティアなのだから」と擁護する声もある。しかしボランティアといえども、それは仕事である。「ボランティアでやってくれているのだから」と、問題のありそうな部分を身内の論理でなあなあにしてしまうと、こうしていざ外に出たときに、足をすくわれるのは当然といっていい。
だから、この件は決して表現の自由云々という問題ではない。
事業に対して、周囲を納得できるだけの説明を用意できなかったという、仕事上の問題である。
逆に言えば、説明が十分であれば、中止という結果には至らなかったと考えられる。中止となったこともまた、説明が不十分であった証明である。
表現の自由も大切であるが、その一方で表現の自由もまた、その表現に対する評価の自由と対置される。表現されたものに対して、いかなる反対をも許さないというのであれば、そもそも表現の自由を認めないという流れになってもおかしくはない。
Fateのような元エロゲの存在を理由に、エロゲのキャラを公共交通機関が受容しなければならないという主張がはびこるならば、最初からFateのような元エロゲを含めて、アニメ的表現をすべて、公共交通機関から排除しようという対応が出てくることは、容易に想像が付くだろう。
表現が自由だからと言って、そのすべてが実現できるわけではない。多くの人の目に触れる場所に出れば出るほど、抑圧は強くなる。だからこそ、それに対抗できるだけの「説明」を用意する必要がある。そうして守ってきたものが、現状の表現の自由なのである。それを勘違いしてはならない。
*1:くま川鉄道応援切符が発売中止に 少女デザイン「成人ゲームキャラに似ている」(西日本新聞)
*2:まいてつ(デジタルノベルブランド Lose)
*3:「『なぜ』はこちらが聞きたい」...美少女キャラ切符発売中止のくま川鉄道、ショック隠せず 市議会指摘に苦渋判断(Jタウンネット)