※この記事は2016年08月06日にBLOGOSで公開されたものです

 相模原で起きた知的障害者施設での殺傷事件の被害者の実名が公表されていない件について、神奈川県警は「被害者の家族が公表しないで欲しいとの思いを持っている」という理由で公表していないと説明しているという。(*1)

 まず、僕は基本的に事件における被害者の名前を公表する必然性はないと考えている。だから、公表しなかったこと自体ははいい。ただ問題なのはそれが「被害者の家族の意向である」ということだ。

 被害者家族が様々な思いにかられているのは当然だ。実際にはある一定の確率で知的なり肉体的に何らかの傷害を持った子供が産まれてくるものだが、世の中にはそうした子供を産んだ家族や親族を「血が汚れているからだ」として忌避するような差別を好む人達もいる。また施設に預けることを「無責任だ!家族で面倒をみるべきだ!」と他人事だからこそ、そのように断じて悦に入る人もいる。

 そうした差別的対応を受けてきたであろう被害者家族の方々が「氏名を公表しないでくれ」と主張することは、決して間違ってはいない。今回の警察側の非公表に対してマスコミが批判をしていることに対して、「悲しみにくれる家族に取材攻勢をかけるなんてとんでもないことだ」と反発している人もいる。その気持は分からなくもない。

 しかし、一方で、それに対応して被害者の名前を公表しないということを判断していいなら、同時に「加害者の氏名も加害者家族の意向で公表しない」という判断がされるべきではないのか。

 被害者家族が被害者の死の悲しみにくれる一方で、加害者家族は加害者が他人を殺すような犯罪を犯したことに対する悲しみにくれている。そして最悪なことに、加害者家族は世間から「加害者」として扱われてしまう。犯罪者を育てた親や、その兄弟。果ては親類縁者の血筋まで「汚れた犯罪者の血が流れている」とばかりに喜び勇んで差別する人は少なくない。

 被害者の実名を公表しないことによって、被害者家族はマスメディアの取材などから逃れることができるかもしれないが、加害者家族は常にマスメディアに付きまとわれる。また、個人情報を報道されることにより、ネットでは「検証」がされる。今回の事件でも被害者の父親の務めているであろう場所らしきものがすでに特定されてしまっている。

 かつて1988年から1989年にかけて発生した、東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件では、犯人の父親が自殺。犯人の兄弟も婚約を破棄されたり会社を辞職せざるを得なかった。もちろん嫌がらせも相当にされたという。

 加害者自身は留置場や刑務所という檻の中で守られるが、加害者の家族は世間のむき出しの悪意に晒され、ただ殺人者の身内だったというだけで下を向いて生きていくことを余儀なくされ、人生が大きく狂ってしまうのである。

 世間は被害者家族に対して「何の罪もないのに、家族を失った人たち」として同情するが、ならば加害者家族に対しても「何の罪もないのに、家族の犯行に巻き込まれてしまった人たち」という同情があって然るべきなのだ。

 ところが日本では「被害者家族の想い」という文脈において、さも「被害者家族の主張を聞き入れるのが、正しい刑法の有り様だ」と言わんばかりに、飲酒運転をはじめとする人の死に至る犯罪を重罰化することを善しとしてしまっている。

 こうして被害者家族が加害者の重罰化を叫ぶ一方で、加害者家族はさも加害者であるかのように扱われ、声を上げることもできずに、ただひたすらに加害者の身代わりとして、好き放題に扱われる。

 そこには「個人の人権」に関する精神はなく、ただ犯罪というものを、被害者家族を持ち上げ、同時に加害者家族を叩くことによって、自らの良心を顕示する場として消費する行動があるだけである。

 被害者家族を「家族だから被害者と等しい」と考えたり、加害者家族を「家族だから加害者と等しい」と考えることは、個人の人権を否定し、さも「家族が社会の最小単位」とみなすがごとき考え方である。

 そしてこの概念はまさに自民党憲法改正草案による、家族概念なのである。

 先日の都知事選で、自民党東京都支部連合会は、会長である石原伸晃、幹事長である内田茂、党紀委員長である野沢太三の名前で、自民党員に対して公認である増田寛也氏以外への応援などを禁じる文書を出した。そしてこれには「親族等が非推薦の候補を応援した場合は除名等の処分対象になる」旨が記されていた。

 この文書が小池百合子の有利に働いたと見られているが、重要なのは「応援行為」(もちろん文書には書かれてないが、投票行為も含まれる)という、個人の自由に関する重大なことがらを、一方的に制限していいという、自民党の家族観が、まさにこの文書に現れているのである。

 多くの人達はこの文書をバカにして、石原伸晃を批判する声が上がったが、それは一方で加害者家族を加害者とみなす考え方と全く変わらない。日本はすでに「個人の罪は一族郎党の罪」という社会になってしまっているのである。

 僕は加害者のプライバシーにかかわる報道が完全に不要だとは思わない。

 事件を起こした背景には、今回のように全く理解が及ばない問題もあれば、2008年に秋葉原で発生した通り魔事件の用に、個人の置かれていた状況を見れば、なんとなくそうした事件に至った理由を察することができることもある。事件を理解すれば、そうした犯罪の発生確率を下げることくらいはできるのかもしれない。

 しかし、そうした事件に対する理解や、今後にそうした犯罪が発生しないようにという考えではなく、ただ「犯人はどんな酷いやつだったか」とか「犯人の家族はどんな顔をしてやがるんだ」という出歯亀根性で、多くの国民が犯罪報道を眺め、加害者家族を生け贄として捧げ続けることに違和を感じないのなら、その社会には加害者のプライバシーを探る権利などないのだといえる。

 そうした社会である状況をすぐに正すことはできないが、被害者家族の意向を聞けるのなら、加害者家族の意向も聞くことができるはずだ。被害者家族はもちろん、加害者家族も犯罪者ではないのだから、扱いに差をつける理由はない。

 今後警察は、犯人の実名においても加害者の家族の声を聞いて、公表をしないで欲しい。

*1:<相模原殺傷>神奈川県警、被害者の実名「発表しない」(毎日新聞)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160726-00000120-mai-soci