※この記事は2014年05月31日にBLOGOSで公開されたものです

 Twitterで、京浜急行で発生した人身事故の動画がアップされていると話題になっていたので、消されたないうちにと動画を見てみた。(*1)

 電車がホームに進入して少しすると、明らかに意識的に電車側に近づいてくる人物が目に入る。電車は警笛を鳴らし急ブレーキをかけるが間に合わず、その人物と電車は接触し、窓ガラスにヒビが入る。そして音声として冷静に対応しようとする運転手のアナウンスや、女性が驚く声、子供の声。そして「あー、人身だよ」とつぶやく男性の声などが入っているというものだった。

 電車と人が接触した時の音を真似ているのだろうか? 最後に子供が「パン パン」と無邪気に声を発しているのがとても物悲しい。

 これを単純に「電車の前面眺望の動画です」と言われて見たのであれば、トラウマものの映像であろう。しかし、最初に「事故動画です」と言われて十分な警戒心を持って見る分には、血の飛び散りや、ぶつかった男性のその後の映像といった露悪趣味的なショッキングシーンもなく、淡々と「事故が起きた」という事実のみが明確に伝わる動画となっている。

 さて、僕が気になったのは、この映像自体というよりも、この映像に対するネットユーザーの反応である。もちろんJ-CASTニュースの記事(*1)にもなっている、この動画をアップしたことの是非ということも気にはなるのだが、それよりも映像中で「あー、人身だよ」とつぶやいた男性に対する批判の声が、わずかではあるが上がっていることが気になって仕方がない。




 批判している人には、どうもこの言葉が「死ぬなら(俺に)迷惑をかけずに死ね!」という意味の言葉に聞こえているらしい。確かにその言葉は他人事のような無責任な言葉と認識することもできる。だが、人身事故という場面に遭遇したその瞬間に、自分がどのような言葉をつぶやくのかなんて想像もつかない。つい悲鳴をあげてしまうのかもしれないし、単純に「迷惑だなー」と思うのかもしれない。

 しかし、本人がその瞬間にどう考え、どういう行動をしようと、こうして録画され、ネットなどにアップされ、多くの人に共有された途端に、あかの他人がその行為の善悪を論じてしまう。僕にはそのことがとても怖く思える。


 こうした不意打ちの瞬間の行動に、その本人の本性が現れると考える人がいる。

 こうした時に瞬発的に悲しみの声をあげることができる人物は優しく、非難めいた言葉を使う人間は卑劣なのだという。

 そう考える人達にとって、まさにこの動画は「人間の本性を垣間見ることのできる動画」なのだと思う。だからこそ、動画に登場する人物に対する批判も苛烈になるし、「俺はこういう時にはこういう行動をする・しない」などという主張合戦になるのだろう。  しかし、僕はこうした瞬間の行動こそ、その当人の性格や本性とは最も遠いところにある行為だと考える。人間性とは、あくまでも理性の働きによって規定されるものであり、不意打ちによる反応は理性の外にあるからだ。

 仮に、突発的な怒りによって人を殴ったとして、そのことがその人の暴力性を示すことにはならないと僕は考える。他人を「暴力的である」と認識するのは、その暴力を本人が肯定したり、それを継続的に行うような考え方をしていることが明確である場合であり、その暴力を反省するような人を暴力的と言うべきではないだろう。もちろん、暴力と反省を繰り返すようでは、それはちゃんと反省していないということなのだから、十分に暴力的とみなすべきだけれども。


 そのように考えると、電車事故の映像というのは、あくまでも突発的な状況であるし、ただ「あー、人身だよ」とつぶやいたことだけを指して、その人の人間性を云々することはできない。

 一方で「動画に対するコメント」という行為は、突発的ではなく、その人の理性に酔って行われている行為なので、それこそが人間の本性を明確にあわらすのである。

 そして、人身事故といつ突発的な状況にあった人に対して、その心労を慮るのではなく、それを自身の正しさを主張する道具に利用する人間の自分勝手さが、僕には凄く怖く、そして滑稽に思えたのである。

*1:京急線「人身事故」の決定的瞬間 衝撃動画の公開是非巡りネットで賛否(J-CASTニュース)