※この記事は2014年05月24日にBLOGOSで公開されたものです

 もう、食傷気味になっている人もいるのかもしれないが、「美味しんぼ 福島の真実編」の問題について、もう一つだけ論じておきたいことがある。

 「最終話が出るまで、批判は待って欲しい」と言っていた雁屋氏だが、自身のブログで「まだ冷静な議論をする状況にないと判断」したとして、次に来日する7月末以降まで、取材を受けるのを先延ばしにするという。

 また、一部で「休載はどこかから圧力がかかったからではないか」という疑念が生まれていたことに対して、自ら「休載は去年から決まっていたこと」として、予定通りの休養であると、自ら明かしている。(*1)

 うん。つまり雁屋氏としては、もうこの問題に触れられたくないんだろね。
 連載中は「次はもっとすごいことを書く」「批判は最終話が出てから」と煽り立て、美味しんぼを大きな話題にして注目度をあげ、連載分が終わったらさっくりフェードアウト。これが雁屋氏のシナリオなのだろう。

 そして雁屋氏は、このシナリオを成立させるために「連載マンガ」というメディアの特性を活用してきた。

 まず「最終話まで批判は待って欲しい」という言い方は、議論の公平性を主張しているかのようにみせて、実のところは、連載という特性を利用した議論開始の先延ばしに過ぎなかったということ。

 そして、最終話が出たら出たで、今度は「雁屋氏は風評被害の問題も取り上げていたし、福島の真実編全体をみないと、批判はできない」などと、雁屋氏を擁護する人たちが言い出す。

 確かに、主張の全体を把握することは重要だし、議論の根幹に係る問題なので、それをおろそかにすることはできない。

 しかし、全体を見ろと言っても、単行本化された部分は読めても、すでに発売されて店頭に並ばなくなった号に掲載されていた話は、単行本化されるまで、漫画喫茶に行ったり、バックナンバーを取り寄せたりといった労力をかけなければ、読むことすらできない。

 ビックコミックスピリッツ編集長の村山氏は編集部の見解として「あらためて問題提起をしたいという思い」があると主張している(*2)が、ならば単行本化されていない部分の作品のうち、週刊誌の発売期間を終えたものについては、ウェブサイト上で公開するなど、ちゃんと福島の真実編の全体を提示する必要があるはずである。文字媒体であれば、話題になった言論をその雑誌のサイトや、著者のサイトで全文公開するというのは、普通に行われることなのだし。

 もし、マンガそのものをウェブサイトに載せることに抵抗があるのであれば、登場人物のセリフや行動などをプロットに書き起こしたものでもいい。そうしたものを公開して、多くの人に読んでもらってこそ、問題提起であると胸を張って主張できるのではないだろうか。

 雁屋氏も編集長も、口先だけは立派であるが、結局はここに至るまで、この問題に対して全く真っ当な姿勢を示していないと僕は考えている。雁屋氏はオーストラリアに逃げ帰り、ほとぼりが覚めるのを待つだろうし、編集長もこの騒動で雑誌や単行本が、いつも以上に売れることを期待しているのだろう。

 このことは、雁屋氏とビックコミックスピリッツ編集部が、福島を利益のために一方的に利用し、多くの人達を傷つけたのみならず、マンガという表現手法の価値をも大きく引き下げることになったと、僕は考えている。

 なぜなら、こうして「連載マンガ」というフォーマットを利用して、批判から逃げおおせてえるという現実が示されてしまった以上、マンガという媒体の言論活動における利用価値が大きく損なわれてしまったことに他ならないからだ。

 マンガによる言論活動といえば、すぐに思い浮かぶのは、小林よしのりの「ゴーマニズム宣言」シリーズだ。僕は小林氏の言論に同意することはほとんどないが、少なくとも彼は雁屋氏のような無責任な逃げ方はしなかったと評価している。

 また、批判のために行われたコマの引用が、絵は引用しないというこれまでの慣習に反するものであり、著作権法に違反するのではないかとして行われた、いわゆる「脱ゴーマニズム宣言裁判」(*3)は、マンガのコマを絵を含めて引用したとしても、それが引用の要件に該当する限り、著作権法違反にならないという明確な判断を示した。

 このことは、絵であっても文字媒体と同じように相互批評が行えるようになったということを示している。つまり、この判決が出たことによって、マンガという形式を利用した言論活動が文字媒体と同じように扱えるようになり、その表現の幅が広がったのである。

 このように、ゴー宣が各方面から批判を受け、ゴー宣側もそれに答えたことにより、マンガによる言論活動という道は、徐々に開けていく状況にあった。

 しかし、今回の問題で、結局はマンガ家(雁屋氏は原作者であるが、わかりやすくするためにマンガ家とする)と編集部がグルになれば、いくらでもマンガの商習慣を利用して、言いっぱなしのまま、相互批評から逃げおおせることができると証明してしまった。

 これでまた、マンガは文字媒体と異なる異質なメディアに逆戻り。マンガの可能性が1つ潰えてしまった。
 僕は、このことがマンガという表現手法に落とした影は、けっして小さなものではないと考えている。僕はマンガを描くことができないが、マンガを描く人たちはこの点についてどう考えているのだろうか?

*1:色々と(雁屋哲の今日もまた)
http://kariyatetsu.com/blog/1691.php
*2:『美味しんぼ』福島の真実編に寄せられたご批判とご意見、編集部の見解(ビッグコミックスピリッツ編集部)
http://spi-net.jp/spi20140519/spi20140519.pdf
*3:脱ゴーマニズム宣言事件(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%84%B1%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%82%BA%E3%83%A0%E5%AE%A3%E8%A8%80%E4%BA%8B%E4%BB%B6