※この記事は2014年03月15日にBLOGOSで公開されたものです

赤木智弘の眼光紙背:第314回

 3月8日に行われた、サッカーJ1リーグの、浦和レッズVSサガン鳥栖で、ゴール裏への入場ゲートに「JAPANESE ONLY」という差別的な横断幕が長時間掲げられ続けた問題について、浦和レッズの社長が会見し、謝罪を行った。(*1)
 会見によると、横断幕を掲げた浦和サポーターたちは「最近、海外からの観光客が増えて応援の統制が取れなくなっている」「ゴール裏は『聖域』。自分たちが応援してきた場所」と、横断幕を掲げた理由を説明し、差別の意図はなかったと主張しているそうだ。

 横断幕を掲げたサポーターたちはこれを差別ではないと考えているようだ。だがそれは、子供に蹴る殴るを繰り返しながら、批判されると「躾だ!」と主張するかのような暴論に過ぎない。
 これは決して単なる外国人差別という話ではない。そうではなく、日本人と日本人以外を「応援の統制」という根拠によって区分しようという、暴挙とも言えるべき考え方であり、単なる外国人に対する偏見ではなく、もっと根の深い問題であると、僕は考えている。

 ネット上でよく「私は普通の日本人」と主張している人達がいる。
 彼らの言動は自分の好みで他人を「普通の日本人」と「それ以外の売国奴」の2つに区別することに終始している。
 自民党を支持するのが普通の日本人。民主党を支持するのは売国奴。
 南京虐殺はなかったと考えるのが普通の日本人。あったと考えるのは売国奴。
 韓国や在日韓国人を嫌うのが普通の日本人。韓国に行ったり韓流スターを好きになるのは売国奴。
 などなど、列挙すればきりがないほど、彼らの考える「普通の日本人」は、彼らの思想や志向によって決めつけられている。
 戦時体制においては「貴様それでも日本人か!」という一発ギャグが流行したと聞くが、いったいそのギャグを放った人たちは、何の権利があって他者を日本人とそれ以外に区別していいと考えていたのだろうか?

 今回、「JAPANESE ONLY」という横断幕を掲げたサポーターたちの思考も、まさにこの通りの二元論である。
 彼らにとっての「JAPANESE」は、レッズのユニフォームを来て、応援のやり方を熟知し、同じ動き、同じコールを入れられる人たちだけなのだろう。そこには、同じJAPANESEでも、異なる考え方をする他者に対する配慮は全くない。実際、Twitterなどを眺めても「こうした連中が嫌いだから、ファンだけどゴール裏へは行かない」という意見も見受けられる。
 他者を追い出し、自分たちと同質の行動をする人たちだけの空間を心地よいものであると考え、それを達成するために他者を異質なエイリアンとして追い出す。そのことこそ「差別」以外の何ものでもないではないか。「JAPANESE ONLY」の横断幕には、差別の意図は無いどころか、差別の意図しか見当たらないのだ。
 そうした明確な差別を行いながら「差別の意図はない」と口にできてしまう、その他者への存在ということをあまりに軽々しく扱う態度に、僕は愕然としてしまう。意図なく、自然に行われる差別ほど。厄介で悪質な差別はないのである。
 真っ当な大人であれば知っているはずのことであるが、全く自分と全く同じ考え方をする人間など、同じ日本人であってもありえない。人はすべてユニークな存在である。他者というものはどのような意味においても、二元論で割り切ることができる存在ではないのだ。

*1:横断幕サポーター20人、無期限入場禁止 浦和が処分(朝日新聞デジタル)