1980年代を謳歌!『異邦人』からイカ天まで「俺たちの一発屋」名曲・青春プレーバック
清原果耶主演ドラマ『ファイトソング』で、シンガー役の間宮祥太郎が「世界で一番嫌いな言葉」としたのが“一発屋”。今回は、かつて確かに眩い輝きを放った、1980年代に青春を送った人なら誰もが知る「名曲」を歌ったミュージシャンをプレーバック!一番嫌いな言葉?そんなの関係ねぇ!思い出と共に色あせない、俺たちの、私たちの一発屋たちーー。
【写真】2010年に復活し密かなブームになっている「なめ猫」がニャンともかわいい♪
'70年代末〜'80年代初め 異邦人、完全無欠、ピカピカ、ついには猫まで一発ヒット
松原みきという歌手をご存じだろうか。1979年に『真夜中のドア』でデビュー。おしゃれなシティーポップスを歌える実力派として人気を得たが、2004年に44歳の若さで病死した。
そんな悲運の歌姫が今、再評価されている。一昨年、インドネシアのユーチューバーが『真夜中のドア』をカバー。これを機に、海外のチャートで1位になるなど世界的にヒットしたのだ。
松原がデビューしたころの日本は、世界第2位の経済大国に躍進。音楽にもその豊かさが反映され始めていた。演歌のような湿っぽいものより「ニューミュージック」と呼ばれたポップなものが好まれるようになり、歌の舞台もグローバル化。その一例が、庄野真代の『飛んでイスタンブール』(1978年)であり、松原のひと月前にデビューした久保田早紀の『異邦人』(1979年)だ。
“ユーミンの再来”と称された
シルクロードをイメージさせる『異邦人』は翌1980年にかけて、オリコン1位を7週にわたって独走する大ヒット。今となっては一発屋だが、当時は久保田はユーミンの再来などと呼ばれた。彼女にとってもユーミンは憧れの存在だったが、その後はヒット曲に恵まれず、結婚を機に教会音楽家に転向する。
その理由について、彼女は「男女の愛を歌うラブソングの上手な人は、ほかにたくさんいます」としたうえで、
「私は違うタイプのラブソングを歌っていきたい」
と、語った。
なお『異邦人』はカラーテレビのCMソングでもあった。同様に、斉藤哲夫の『いまのキミはピカピカに光って』(1980年)や五十嵐浩晃の『ペガサスの朝』(1980年)ザ・ヴィーナスの『キッスは目にして!』(1981年)もCMつながりでヒット。『いまのキミは〜』は宮崎美子が世に出たカメラのCMソングだ。宮崎がいまもピカピカなおかげで、ちょくちょく流れるラッキーな曲である。
“ツッパリブーム”と「なめ猫」
コミカル路線では、アラジンの『完全無欠のロックンローラー』やシュガーの『ウエディング・ベル』(ともに1981年)といった一発ヒットが。ただ、アラジンのリーダー・高原兄は約30年後、島田紳助と組み、ヘキサゴンファミリーの作曲担当として二発目を当てた。
また、又吉&なめんなよの『なめんなよ』(1981年)なんてキワモノ的一発も。猫にツッパリルックを着せて楽しむ「なめ猫」ブームから派生した曲だ。歌っていたのはもちろん、猫ではなく人間。ちゃんとしたバンドのボーカルだった。
さらに、ツッパリブームの総本山・横浜銀蝿一家からは、紅麗威甦(グリース)が『ぶりっこROCK'N ROLL』(1982年)をヒットさせた。聖子ちゃん人気にも便乗した、あざとい曲だ。ボーカルを務めていたのは、杉本哲太である。
かと思えば、その対極的な魅力で売れたのが、堀江淳の『メモリーグラス』(1981年)。女性っぽい歌い方や容姿と曲のハマり具合がこれ以上ないほど絶妙だった。
ほかには、あみんの『待つわ』や一風堂の『すみれ September Love』(ともに1982年)もこの時期を代表する一発ヒット。ただ、あみんの岡村孝子はその後、ソロで成功したし、一風堂の見岳章は『川の流れのように』(美空ひばり)などの作曲者として歌謡史に大きな足跡を残すことになる。
この人たちにとって、才能は一発で枯れるものではなかったわけだ。
'80年代ど真ん中 アイドルの陰で吠えた人、泣かせた人、流行りに乗った人
1980年代中盤は、アイドルの時代だ。1980年デビューの松田聖子や田原俊彦、1982年デビューの中森明菜、1985年デビューのおニャン子クラブといった顔ぶれがオリコン1位を独占した。
そのぶん、アイドル以外の人は一発屋になりやすい。例えば、せつない恋を歌い上げたちょっと地味な男性歌手たちである。
『想い出がいっぱい』(1983年)のH2Oに『初恋』(1983年)の村下孝蔵、『シャイニン・オン 君が哀しい』(1985年)のLOOK。『想い出が〜』はアニメ『みゆき』(フジテレビ系)のエンディング曲で、彼らのデビュー第2弾はドラマ『翔んだカップル』(フジテレビ系)のエンディング曲だった。当時のラブコメブームにぴたりとハマったデュオといえる。
ドラマ主題歌が大ヒット
これに対し、女性シンガーは吠えまくった。『ボヘミアン』(1983年)の葛城ユキに『ふられ気分でROCK'N' ROLL』(1984年)のTOM CAT『ヒーロー』(1984年)の麻倉未稀、『翼の折れたエンジェル』(1985年)の中村あゆみ。このうち『ヒーロー』はドラマ『スクール☆ウォーズ』(TBS系)の主題歌である。
実はこの時期、TBSのドラマから特大の一発ヒットがいくつも生まれた。1985年には『金曜日の妻たちへ3』の主題歌『恋におちて』(小林明子)、1986年には『男女7人夏物語』の主題歌『CHA-CHA-CHA』(石井明美)、1987年には『男女7人秋物語』の主題歌『SHOW ME』(森川由加里)という具合だ。
『金妻』は不倫ドラマで『恋におちて』も不倫ソング。「土曜の夜と日曜の貴方」が欲しいとか「ダイヤル回して手を止めた」といったリアルでその時代っぽい歌詞が共感を生んだ。また、小林はのちに、カーペンターズのリチャードに「カレンに似ている」と気に入られたボーカルの持ち主。不倫ソングなのに、どこか清々しいところも支持につながったのだろう。
一方、アイドル系でも一発屋的な人がいる。例えば『僕笑っちゃいます』(1983年)の風見しんごだ。歌よりもダンスや笑いが売りだったが、隙間狙いの戦略は長続きしなかった。
それでも、第4弾『涙のtake a chance』で見せたブレイクダンスは語り草だ。最近も『中居正広のダンスな会』(テレビ朝日系)で当時の映像が紹介され、ネットをざわつかせた。
ちなみに、風見はデビュー前、劇男零心会という集団に属し、原宿で踊っていた。この集団はその後、劇男一世風靡となる。そのメインメンバーたちが結成したのが、一世風靡セピアだ。1984年にデビュー曲『前略、道の上より』がヒット。哀川翔や柳葉敏郎がここから大成していった。
また、この時期はチェッカーズがアイドルバンドとして絶大な人気を誇ったが、二匹目のどじょう的な感じで売れたのが『バージンブルー』(1984年)のSALLY。こちらはチェック柄ではなく、市松模様の衣装で歌ったりした。
そして、カルロス・トシキも忘れられない存在だ。杉山清貴&オメガトライブから杉山がソロになるにあたって、1986オメガトライブとして再出発した際、ボーカルとして加入。デビュー曲『君は1000%』(1986年)などをヒットさせた。日系ブラジル人で、童顔と片言という甘いテイストで人気者に。現在はブラジルで農業に従事し、ニンニクの品種改良などをやっているという。
「クロマティに似てるほう」
女性では、BaBeというアイドル的デュオもいた。業界ドラマ『アナウンサーぷっつん物語』(フジテレビ系)の主題歌『I Don't Know!』(1987年)がヒット。ただ、翌年デビューのWinkほどにはメンバーの名前を覚えてもらえず「クロマティに似てるほう」「富田靖子みたいなほう」などと呼ばれていたものだ。
ところで、1980年代は広告主導の時代でもあった。CMのキャッチコピーがそのまま歌になり、ヒットしたケースも多い。
中原めいこの『君たちキウイ・パパイア・マンゴーだね。』(1984年)はその典型だ。カタカナ系の食べ物が憧れだった時代の空気も反映されている。
同様に、カタカナ系の職業も憧れの対象に。スタイリストにコンサルタント、さらには空間プロデューサーを名乗る人もいた。そんな世相から生まれたのが、ややの『夜霧のハウスマヌカン』(1986年)だ。
おしゃれな仕事に見えても、食事はシャケ弁当だったり、カリアゲヘアは毛を剃るのが大変だったり、などなど、その実態をおちょくった内容。歌ったのが、ポップス出身なのに北島三郎に拾われた苦労人の女性歌手だったところも含め、なんでもあり的な1980年代を象徴する一発ヒットである。
'80年代末〜'90年代初め 「イカ天」と「やまかつ」が起こした一発屋バブル
1988年ともなると、アイドルブームも下火に。そんななか、ある大物アイドルがボーカルを務めたロックバンドが一発屋になった。ラ・ムーだ。
工藤静香あたりがやるならともかく、ラ・ムーを始めたのはロックとは程遠いイメージの菊池桃子。デビュー曲『愛は心の仕事です』には、
「桃子なのにラ・ムーなのはなぜなの?」
と題された解説文が挿入されていたが、その答えは曲を聴いてもわからなかった。
また、秋元康が手がけた男性アイドルグループ・幕末塾もすぐに失速。秋元系ではおニャン子の男性版・息っ子クラブに続く一発屋となった。それでも、彦摩呂がグルメタレントとして生き残ったおかげで、たまに話題になる。先日も『あいつ今何してる?』(テレビ朝日系)で元メンバーが集まり、デビュー曲『Come on Let's Dance』(1989年)を披露していた。
しかし、アイドルは下火でも、日本は元気だった。バブル経済が絶頂に向かいつつあり、それを象徴するような一発ヒットがCMから誕生。時任三郎が“牛若丸三郎太”名義で「24時間戦えますか」と歌った『勇気のしるし』(1989年)や、鷲尾いさ子と鉄骨娘が「ソーレソーレ」と踊った『鉄骨娘』(1990年)である。
また『私の彼はサラリーマン』(1989年)のような珍品も。大手企業社員の2人組・SHINE'S(シャインズ)によるコミックソングだ。
「イカ天」と「やまかつ」
そして、1989年には一発屋と縁の深いふたつの番組がスタート。『三宅裕司のいかすバンド天国』(TBS系)と『邦ちゃんのやまだかつてないテレビ』(フジテレビ系)である。
前者は「イカ天」ブームを巻き起こし、数多くのアマチュアバンドを世に送り出した。なかでも『さよなら人類』(1990年)のたまはオリコン初登場1位や『紅白』出場といった快挙を達成。ただ、アンダーグラウンドな芸風を自覚していた彼らは意外とさめていた。メンバーのひとりは、
「もし、百人が百人、たまをいいと思ったら、気持ち悪すぎます」
などと語っていたものだ。少数派向きという傾向は『お江戸』(1990年)のカブキロックスなど、多くの「イカ天」系バンドにも当てはまる。今も生き残っているのは『恋しくて』(1990年)のBEGINくらいだろうか。
一方、後者は山田邦子の冠番組で、テーマ曲にKANの『愛は勝つ』(1990年)や大事MANブラザーズバンドの『それが大事』(1991年)が使われ、爆発的にヒットした。どちらも年をまたぐかたちで、オリコン1位を独走。つまり、2年連続して年末年始に一発屋ソングが流れまくったわけだ。
こちらは「イカ天」系とは逆に、万人受けするポジティブなメッセージが売り。ただ、それだけでやっていけるほど芸能界も人生も甘くない。そこがわかっていたのか『愛は勝つ』のカップリングは『それでもふられてしまう男(やつ)』という曲だった。
一発でも当てるのはすごい
ほかに、沢田知可子の『会いたい』(1990年)やJAYWALKの『何も言えなくて…夏』(1991年)平松愛理の『部屋とYシャツと私』(1992年)といった一発ヒットが誕生したが、このあたりからJポップの時代が本格化する。
「イカ天」に出た際、なぜか酷評されて落とされたGLAYをはじめ、長く安定して売れるアーティストが続々と登場。一発屋が生まれにくくなっていくわけだ。
ところで、現在放送中のドラマ『ファイトソング』(TBS系)はヒロインが一発屋シンガーに恋をする話。そのシンガーは「一発屋」について「世界でいちばん嫌いな言葉だ」などと言ったりする。
とはいえ、ほとんどの人がデビューしても何も残せずに消えていくなか、一発でも当てるというのはやっぱりすごい。一発屋もまた、勝ち組なのだ。