「戦時中は小学生も読んでいた」終戦後にGHQが真っ先に禁書にした"ある書籍"
※本稿は、佐藤優『危ない読書 教養の幅を広げる「悪書」のすすめ』(SB新書)の一部を再編集したものです。
■「日本のファシズムの教科書」の意外な中身
日本が太平洋戦争に突入する4年前の1937年、文部省から『国体の本義』が発刊された。当時は小学校でも読まれた本である。
戦後GHQ(連合国軍総司令部)が真っ先に禁書にしたこともあり、『臣民の道』(1941年、文部省教学局)と並んで「日本のファシズムの教科書」というイメージを持つ人が多いが、この本ほど誤解されている作品はないかもしれない。
時代背景から記そう。この作品が世に出る数年前、日本では軍部主導の国体明徴運動があった。アカデミックの世界で主流となっていた「天皇は日本を統治する機構のひとつにすぎない」とする天皇機関説に対して、軍部や右翼が「天皇こそ統治権の主体である」と主張し、クーデターなどを起こした一連の事件である。
この運動の結果、天皇機関説を主張していた美濃部達吉の本は発禁となった。『国体の本義』が発行される前年には2・26事件も起きている。
こうした軍部の右傾化に対して政府は危機感を覚えていた。
なぜなら「神がかり的な大和魂」といった精神論ですべての理屈を通してしまうと、近代化に欠かせない西洋文明までも否定することになってしまうからだ。それではゼロ戦も戦艦大和もつくれない。産業も興せないし科学技術の進歩も望めない。
そこで文部省主導で日本とはどんな背景で生まれた国で、その国体、すなわち国の根本的なあり方とはなにかといったことを改めて整理することで、行きすぎていた国体明徴運動を軌道修正しつつ、西洋的なものを受容する下地をつくろうとしたのである。
この作品のベースを書いたのは日本哲学の第一人者、和辻哲郎であり、それゆえ本としての完成度は極めて高い。現在、この本は呉PASS出版の『定本 国体の本義 臣民の道 合冊本』などで読むことができる他、拙著『日本国家の神髄』(産経新聞社)でも全文を掲載しながら解説をしている(なお『日本国家の神髄』では、立花隆氏との対談を引用する形で「中心的執筆者の一人が橋田邦彦」と書いたが、ここに訂正する)。
■ファシズムを否定するはずが…
本作品を読み解くうえで最大のポイントはファシズムの否定である。結果的にその願いは実現せず、むしろファシズムを勢い付かせる結果となってしまったことは事実だ。
しかし『国体の本義』が本来どのようなメッセージを含んでいたのかを正しく理解することは日本人として必要なことではないかと思うのだ。
当時の日本にファシズムが適さないことは、この書の結語の次のような文からも見てとれる。
この著者は「全く不可能」とまで言っている。
そのロジックを簡単に説明すると、ファシズムもナチズムもしょせん、前提とするのは個体がバラバラの状態であり、それを政治的な力で束ねようとする思想である。
■個人主義を越えた「日本人の和」
しかし『国体の本義』ではこうした個人主義的人間観自体を否定し、「日本人の和」でそれを超越しようとした。
たとえばこのような記述がある。
そしてこの後に聖徳太子の「和を以て貴しと為し、忤ふることなきを宗と為す」という有名な憲法十七条を引き合いに出し、これがまさに日本における和の大精神であると説いている。
■「醇化」の重要性
『国体の本義』の使命は西洋の文化を受け入れる余地を残すことだった。ここに関しては次のようなことが書かれている。
「醇化(じゅんか)」という言葉は耳慣れないかもしれないが、余計なものを省きながらじわじわと自分のなかに取り込んでいくイメージである。海外からやってきた技術なり文化なり考え方はそのまま受け入れるのではなく、自国の国民性に合うかしっかり吟味し、しかるべきローカライズ(土着化)をすべきであると言っている。
当たり前のことのようだが現代でも通じるメッセージである。たとえば近年、世界中でさまざまなAI技術が開発されている。もしくはアメリカ型の人事評価システム、雇用形態、管理手法などが「最先端の経営手法」としてよくビジネス書のテーマになる。教育や子育てにおいても、しばしば欧米のメソッドが話題に上がる。それらをそのまま無批判に受け入れることはいかがなものかと言っているわけだ。
しかし、逆にいえばローカライズさえきちんとすれば海外発祥の文化であろうと日本の文化と一体化させることは可能だと言っている。
■なぜ『国体の本義』がファシズムに利用されたのか
『国体の本義』はファシズムだけではなく、共産主義も自由主義も日本には合わないとした。国のあり方としては、自助型でも公助型でもない、共同体や家族の延長線上としてお互いを助け合う「共助」の国家であるべきだと言った。現代でも通用する至極真っ当なことを言っている。
ところがこの作品が国民に広まる段階でごく一部のテキストが恣意(しい)的に切り取られ、本来の趣旨とは正反対の使われ方をされてしまった。なぜそのようなことが起きたのか。
それは結局、人間の読解力は自分の先入観を超えることが難しいからだろう。
読む前に無意識の結論があり、パッチワークのように都合のいいところだけを読み取っていくのが多くの人の本の読み方である。客観的にテキストと向き合い、テキストの論理に内在して読む行為ができるのは、特殊な訓練を受けた人に限定されてしまうのだ。
たとえば魯迅の処女作で『狂人日記』という短編小説がある。
神経衰弱症の主人公による一人語りの手記という体裁をとられており、作中には人の肉を食べることを妄想する場面が出てくる。この主人公には四書五経を読んでも、「人」「食」「肉」という言葉しか記憶に定着しないのだ。
この作品に対する一般的な解説を見ると、「当時の儒教をベースとしたかたちで、中国の封建制を批判している」と書かれていることが多い。しかし、私は魯迅の小説はイデオロギー的な読み方をしないほうがいいと思っている。
自分の考え方は一旦脇に置き、相手の論理に内在しながら作者が作中でどんなことを考えているのか読み取っていく。そうしたメタの立場からの読書は、日頃からの訓練で可能になる。
■「寛容を説く本」が不寛容を助長する道具になった
『国体の本義』を読み解くうえで右翼と左翼について整理しておく必要もあると思う。
もともと右翼と左翼という言葉はフランス革命時の国民議会から来ている。議長席から見て左側に陣取ったのが革新派で、右側に陣取ったのが保守派だった。
左翼陣営の特徴は個人の理性を尊重することだ。十分な情報を与えられ虚心坦懐な議論をすれば結論はひとつになると考える。裏返していえば個人の力を結集することで理想的な社会を構築していくことができると考えている。
立派な教育基本法をつくれば立派な日本人をつくることができるとか、マニュアルを使って愛国心を育むことができるといった発想は右翼的のように見えるかもしれないが実は左翼的思想だ。
それに対して右翼的思想は個人の理性に限界を認める。人に理性があるといっても育つ環境も文化も違うし、人には偏見があるのだから、いくら虚心坦懐に議論しても結論は1つになるとは限らないと考える。
となると、複数の結論があるなかで人々が共存するためにはお互いを尊重するしかないという多元主義と寛容の発想に行き着く。
『国体の本義』を読めば、寛容を説く本であることは明らかだ。それが軍国主義という不寛容を助長する道具として使われてしまったことは皮肉である。
■アメリカから持ち込まれた3つの価値観の限界
『国体の本義』を通してわれわれが考えなければいけないもうひとつのことは、戦後的な価値観である。『国体の本義』が禁書となったかわりに、戦後の日本はアメリカから三つの価値観を植え付けられた。「個人主義」、「合理主義」、「生命至上主義」だ。
この三つの価値観はいま危機に瀕している。
たとえば東日本大震災では原発事故が起きた。東京電力は民間会社なのでそこで働く人々には職業選択の自由があり、もし作業者が「個人主義」「合理主義」「生命至上主義」を掲げて「こんな怖いところで命を懸けて仕事をすることほど非合理的なことはありません。今日で失礼させていただきます」と言ったら、それを止めることができる法律はない。
コロナ禍にしてもそうだ。感染の危険のある状況において医師や看護師に対して医療活動に従事しろと命令することはできない。医療に限らず、ライフラインに関わる仕事をしている人全員に言えることである。
もちろん自分の権利を主張して辞める人もいる。そうした行為を「勇気のある決断だ」と褒める人もいる。しかし、いまの社会は「誰かがやらないと社会が維持できない」という献身的な態度によってなんとか維持できているわけだ。
戦後的価値観は今後もますます浸透していくだろう。そのとき果たして社会が維持できるのかという深刻な問題が浮かび上がる。『国体の本義』を改めて読みながら、そんなことを思った。
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佐藤 優(さとう・まさる)
作家・元外務省主任分析官
1960年、東京都生まれ。85年同志社大学大学院神学研究科修了。2005年に発表した『国家の罠―外務省のラスプーチンと呼ばれて』(新潮社)で第59回毎日出版文化賞特別賞受賞。『自壊する帝国』(新潮社)で新潮ドキュメント賞、大矢壮一ノンフィクション賞受賞。『獄中記』(岩波書店)、『交渉術』(文藝春秋)など著書多数。
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(作家・元外務省主任分析官 佐藤 優)