西出ひろ子さん 撮影/齋藤周造

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 両親が言い争う修羅場を目の当たりにして人生が変わった。唯一味方だった父親と弟が自死、実母とは絶縁状態に……。「うちの家族はみんな残念なんです」マナー講師として伝えたいのは“型や作法”ではなく、人が争わず柔軟に生きるための「思いやりの心」。「ハッピー」という決まり文句には、強い信念が込められていた──。

【写真】西出ひろ子さんと仲良く並んで。自死した父親の生前の姿

「マナー界のカリスマ」の講義の実態

 東京都・町田駅に近いアルファ医療福祉専門学校で、ある講義が始まろうとしていた。

 30人ほどの受講者の前に立ったのは、マナーコンサルタントの西出ひろ子さん(54)だ。よく通る声が教室に響く。

「人と人が出会ったとき、まず“第一印象”が発生します。さて、みなさんの隣の人のことをどう思ったか教えてください!」

 数分後、何人かがそれぞれ隣にいる人の第一印象を話す。

「オーラがあって元気な印象」

「頷きながら話をよく聞いてくださる人だなと思いました」

「はい、ありがとうございます。みなさん、いろんな第一印象を持ちましたね。実は同時にみなさんも相手から何かしら印象を持たれたのです。人から自分がどう思われるのか、これってドキドキしますよね。第一印象は、まず視覚から入ってきます。頭の先から足先までが第一印象として相手に伝わります。実は相手から全部見えちゃっていますよ。どんなふうに座っているのかまでね。それによって印象は変わっていきます」

 大きな笑顔の話し手につられて、受講生の表情も穏やかなものになっていく。

「マナーという言葉は英語なんですが、日本語にするとどうなるでしょう?」

「……作法?」

「約束事かな」

「礼儀だと思います」

 当てられた人が立ち上がって答えていく。

「そうですね。実は日本語に直せば、マナーは『礼儀』という意味。『礼儀』の『礼』という字には『思いやり』という意味があります」

 ちなみに『儀』の字は『型』を意味するが、“思いやり”が抜け落ちた型や作法は「マナーとは言えない」と、ひろ子さんは強調した。

 講演会でいつも伝えているのは、『マナーの5原則』。(1)表情(2)態度(3)挨拶(4)服装・身だしなみ(5)言葉遣いだ。

「その人の内面は目の『表情』に表れます。目の表情をよくするには、いつも気持ちをハッピーにしておくこと。『態度』も気持ちの表れです。常に相手のことを思っていれば、どんなに疲れていても、姿勢は正される。例えば椅子の座り方。座面の半分のところにお尻を置いてみる。すると背もたれを使わないので自然と脚、ひざも足先も閉じちゃうでしょ? 少し意識するだけで印象は変わるんですね」

「正解」や「マニュアル」を教えるような言い方を避け、気持ち次第で言動は変わるのだと穏やかに話す。

「『挨拶』の漢字は“心を開いて近づいていく”という意味。じゃあ、どっちから心を開くか。そう、自分からですよね。これを“先手必笑”と私は言います。自分から挨拶を心がける。挨拶をされたら相手はハッピーになる。その喜びが自分もハッピーにしてくれます。ビジネスでは“ウインウインの関係”と言いますね。

『服装・身だしなみ』のポイントは清潔感と機能性です。

『言葉遣い』は相手の立場に立って、相手をハッピーにして差しあげるんだという思いを軸に話すように心がけてみてくださいね」

 講義中、ひろ子さんは「ハッピー」という言葉を何度も口にした。

「具体的な作法や型にこだわるより、マナーには、自分も相手も幸せにする力があることを知ってほしい」

 西出ひろ子さんの著書は97冊以上、「マナー界のカリスマ」と称され、メディア出演、講演をはじめ、その活動は多岐にわたる。

 近年は大河ドラマや映画のマナー監修の仕事を引き受けることも多い。撮影現場に立ち合うと、マナーが素晴らしい役者に感激することがあるという。

 NHKドラマスペシャル『白洲次郎』('09年)で白洲正子役を演じた中谷美紀もその1人。

「私が言うところの“マナー”、要するに周りに対する配慮、心遣いが素晴らしかった」

 ひろ子さんにとって、『白洲次郎』は、ドラマに携わる初めての仕事。何をしていいかわからず、端っこに立っているしかなかったという。 

 そのとき、中谷に「先生!」とみんなの前で呼ばれた。

──ワイングラスの持ち方はこれで大丈夫でしょうか?

「中谷さんは、本当は知っているはずの作法をわざと聞いてくれているのがわかりました。みんなの前で『この人はマナーの先生だよ』ということを自然にアピールしてくれた。なんて優しい人だろうって思いましたね。

 撮影が終わるたびに毛筆で達筆な心あるお手紙も頂戴しました。今でも宝物として書斎に飾ってあります」

 また、ある現場で不本意な対応をされたときは、椎名桔平が間に入ってくれたという。

「リハーサルのとき、裏でちゃんと伝えたことを現場スタッフが間違えると、監督から叱られるのは私です。すると、椎名さんが『先生はこうしてくださいって言ってましたよね』とフォローをしてくださる。そんな気配りをする人は、マナーの型もさることながら、その本質をよくご存じの方なんですね」

 NHKドラマ『岸辺露伴は動かない』('20年)の主人公、高橋一生は、前向きな姿が印象的だったと明かす。

「役柄の中での動作や所作について『これでいいですか?』とすごく積極的に質問されました。よい作品にしようという気持ちが伝わってきました」

 実は、こうした現場では、マナーの指導を快く思わない役者もいるという。

「恥ずかしくて聞けないというか、聞いたら自分が負けみたいな考えの人もいる。『これ、知ってるから!』と無視する方もいらっしゃいますね」

 一般的に、「マナーをわきまえない」「育ちが悪い」「礼儀がなっていない」という言葉をよく耳にする。そして、「マナー」は、時に人を貶める「ものさし」のように捉えられる節がある。

「〇〇してはいけない」「〇〇すると失礼にあたる」「〇〇はNG」……。メディアに出演するマナー講師は「叱る人」というスタンスを求められ、そのイメージから“マナー”への警戒心が高まっている側面もあるという。

 しかし、ひろ子さんは頑なに「マナーとは、『心』と『思いやり』を行動で示すもので、マナーに正解はない」と説く。

 そんな彼女がマナー講師になった原点は、意外にも“両親の離婚”だった──。

「両親の修羅場」と運命の出会い

「お父さんが浮気してるみたいなんだけど……」

 ひろ子さんの人生は母親からの1本の電話で大きく変わっていく。

 大分県別府市で生まれ、父親が不動産業を営む裕福な家庭で5歳下の弟とともに大事に育てられた。

 高校卒業後、推薦で良妻賢母を目指す大妻女子大学に進学し、上京。女子大生ライフを満喫しようと思っていた矢先の出来事だった。

 まさに青天の霹靂。ひろ子さんは、大学が休みに入るとすぐに実家に戻り、両親の不仲を取りなそうと試みた。

「母親が依頼した探偵と一緒に車で父を尾行したりもしました。浮気相手とラブホテルに入るところを確認し、父が車から降りたところに『お父さん!』と声をかけ、そのまま逃げられたことも(笑)。でも父は、離婚をするつもりはなかったんですよね……」

 ひろ子さんは、必死になって父に手紙を書き、説得した。

 だが、両親の関係は修復せず、別居に至る。離婚協議は難航した。

「私は、父だけが悪いわけじゃないと思っていたんです。父は必ず毎日家に帰ってきたし、外で子どもはつくらないと決めていた。だから、折り合いをつける方法があるんじゃないかと思っていました。

 ところが、父と母は相手の立場に立つことなく、自分の意見だけを言って、相手を非難する。その姿を見たときに、人として美しくないと思いました。自分と同じ人なんて絶対いない。だからこそ、相手が言うことを受け入れられなくても、聞く耳を持ち、受け止めることはできるのではないか、と」

 卒業後の就職先は、父が地元でまとめてくれることになっていたが、離婚騒動により白紙に。やむなく就職活動を始めた彼女は、運命の人と出会う。面接の仕方を学ぶため受講したセミナーのマナー講師、岩沙元子さんだ。

「初めてお会いしたときに、その美しいお姿とともに品のある話し方やしぐさ、心の美しさにすっかり魅了されました。なんというか……岩沙先生には人としてのやわらかさがありました。同時に、母の姿が浮かんで、つい、2人を比べてしまったんですね」

 専業主婦の母親は、料理などの家事はもちろん、作法が完璧な人だった。

「それこそ『女性は三つ指ついて……』の世界の人。中秋の名月にお団子を作り、鏡餅もおせちもすべて具材から調理するような、慣習にきちんとしている人。妻はこうでなくてはいけない、という『型』を重んじるタイプですね。

 母はマナーを『型』で捉えていた。でも、岩沙先生からは心、内面からにじみ出るものを感じたんです」

 両親の争いを目の当たりにしたひろ子さんには、岩沙先生がとても美しい存在に映った。母と岩沙先生、どちらも礼儀を大事にする人であったが、両者は「似て非なるもの」だと感じたのだ。

「先生のように、人として美しく生きたい──」

 ひろ子さんはマナー講師になることを決意した。

 当時、活躍していたマナー講師のほとんどはCA出身者だったため、客室乗務員の専門学校に通い始めた。ところが、視力に問題があり、試験に臨んだ航空会社は全滅。見かねた校長先生に、国会議員の秘書の仕事を紹介された。

「議員秘書といっても、鞄持ち。朝早くから先生について、何時に終わるかわからない夜の会合にも同行しました。先生が会食中は外で立って待ちます。朝コンビニでアンパンを3つ買って、先生が会食中、出てくるのを待つ合間をぬって、トイレで食べることも(笑)。当時はお休みがなくて時間も不規則でしたね。でも、初めての仕事だったので、当たり前だと思っていました」

 議員秘書、政治経済ジャーナリストの秘書を4年間務め、エレベーターでの案内の仕方、名刺交換の仕方など、「マナー」の基礎を学んだ。

 休日は、本格的にマナーを学ぶために岩沙先生の自宅兼事務所にも足しげく通った。

 27歳のとき、マナー講師として独立。軌道に乗るまでは、生計を立てるために派遣社員として大手商社でも働いた。

「名の通った大手企業から依頼をいただくことが、マナー講師としてのひとつの成功であると思っていました。そのチャンスを逃さないためにも、大手企業の仕事がどんなものか、身をもって知っておくことが必要だと思ったんです」

 平日は派遣社員として働き、週末にほそぼそとマナー講師をする生活が続いた。

 母親や友人がみな、マナー講師の道を反対する中、唯一「やりたいことをやれ!」と背中を押してくれたのは父親だった。

 しかし、思いもかけずその父親が急逝してしまうのだ。

父の自殺、弟の借金問題

 1996年の秋のことだった。遺書はなかった。

 亡くなったのは大分郊外の山の中。木にロープを巻き、首を吊るかたちで父親は自らの生涯を閉じた。まだ55歳の若さだった。

 生前、大きな詐欺事件に遭い、「これ以上やっていけない」とこぼしていたらしい。

 ひろ子さんとは、25年以上の付き合いになる福尾由香さん(57)は、父親の訃報が届いたとき、隣にいた。

「『お父様が亡くなられた』という電話が突然かかってきて。大変なことが起きたのに、すごく健気に振る舞ってて、『この年齢で受け止められるのはすごいな』と思いました。彼女は『お嬢様』って感じの可愛らしいタイプ。なのに、その後も、ずっと『独り立ちしなきゃ』と自分にプレッシャーをかけていたのが印象的でしたね」

 遺産相続は放棄したが、父親は生命保険をかけており、ひろ子さんと弟に分配された。

 ところがある日、九州の国税局から連絡が入る。

「弟さんが相続税を納税していないので、お姉さんが納めてください」

 弟は、東京の大学に入学し、塾講師のアルバイトをしながら頑張っていると聞いていた。

 しかし、知らぬ間にギャンブルの世界に身を置き、父親が遺した生命保険金はすべてギャンブル仲間に巻き上げられていた。

 すぐに弟の未納分を肩代わりしたが、事は収まらず、「弟さんにお金を貸してるから、お姉さん返してくださいよ」と悪い仲間から電話がかかってくるようになる。

 ひろ子さんは、探偵の力を借りて、消息がわからなかった弟の居場所を突き止め、九州へ逃がした。

 何とか弟には更生してほしい──そんな思いで福祉の専門学校への入学を手配。離婚後、福岡に移り住んでいた母親に弟を託した。

「弟は幼いころから成績もよく、学校で生徒会長を務めるほどの人気者でした。東京の大学に進学して商社に入社、営業成績もナンバーワンだったのに……。それが大金を手にしたことで、人生を狂わせてしまったんですね」

 弟の騒動が一段落したころ、ひろ子さんは疲弊しきっている自分に気づいた。

「せっかくマナー講師になる夢を叶えて羽ばたこうとしているのに、次々と邪魔をするようなことが起きる。もう、いいかげんにしてほしいって。それに、このまま日本にいると、弟を甘やかしてしまいそうで……。この機会に日本を離れ、マナーの本場である英国では何をもってマナーといっているのか自分の目で確かめたいと思いました」

 両親の離婚、父の自死、弟の借金、家族の問題で疲れ果てた彼女は、31歳のとき、自由を求め、イギリスに飛んだ。

英国で見た本場のマナー

 ひろ子さんは、イギリス・オックスフォードにある語学学校に通い始めた。

「英語がまったくダメだったので、まずは言葉を何とかしようと。ハロー、サンキューくらいしか言えなかったんです(苦笑)。 

 イギリスではマナーの学校に通うことはありませんでした。それよりも、イギリスの人たちの生活そのもの、街中で見かける何げない風景のすべてが私にとっては、マナーの学校でしたね」

 バスに乗ったとき。乗り込んできた乗客は必ず運転手に「グッモーニン」「ハロー」と挨拶をする。すると運転手も必ず返してくれる。降りるときも必ず「サンキュー」と言って降りる。運転手も必ずひとりひとりに「サンキュー」と返していた。

「最も印象的だったのは、建物に入るためにドアを開けるとき、必ずみんなが後ろを振り返ること。そこに人が居合わせたら老若男女問わず、『お先にどうぞ』と通してくれる。

 道路を横断しようと道の端に立てば、車が途切れるのを待つまでもなく、車はすぐに止まってくれて、笑顔とジェスチャーで『どうぞ』と横断させてくれる。日本でほとんど見ることのない光景が、イギリスでは当たり前にありました。そして、日常のありとあらゆるところに『サンキュー』が飛び交っていたのです」

 洋食のテーブルマナーも、イギリスでの実体験から直接学んでいった。

 イギリスでの生活にも慣れたころ、ひろ子さんは現地で知り合った友人と起業する。

 英国在住の日本人学生が、帰国後に就職活動をするための準備として、また日本企業に就職したい外国人向けに「日本のビジネスマナー」を教える会社を立ち上げようということになったのだ。

 さらに、オックスフォードとケンブリッジ大卒の学者を集めた「知的人材バンク」の事業もスタート。日本人の研究者たちの論文を英訳し、『ネイチャー』や『サイエンス』などの世界的に有名な雑誌に投稿するサービスだった。

「普通の翻訳会社と違って質がよかったみたいで大当たり。私はときどき日本に戻って営業をしに行きました。今、私が講演で話す“ビジネスマナー”は、このときの営業経験がもとになっているんです」

 クライアントは、主に東大や京大などの研究者と製薬会社。『イギリスが本社』と説明しても怪しまれ、なかなか信用してもらえず、苦労した。

「まずは人に信用してもらうことからスタートだと思い、『マナーの基本5原則』を活用しました。

 また、この営業で実践したのは『ハイ!』と感じのよい返事をすること。そして『相手の名前を呼びながらコミュニケーションする』ということでした」

 イギリスでは必ず、『ヒロコ!』と名前を呼んで声をかけられた。それがヒントになったという。

「名前を呼ばれると、社会的に認められた気持ちになって、私にはとても心地よかった。名前を呼ぶコミュニケーションを日本でもきちんと定着させようと思いました」

 営業のコツを少しずつつかみ、顧客は増えていった。

 だが、困ったことにイギリスの人たちは納期を守らなかった。注意しても、改善されない。ひろ子さんは日本の研究者たちからのクレーム対応に追われた。

「どんなに怒鳴られても、相手が困っていらっしゃることを想像し、心の底からお詫びをする。電話で1、2時間ブワーッとクレームを言われても、何時間でも相手の話を聞きました」

 謝罪の言葉を繰り返しても、そこにちゃんと気持ちが入っていないと慇懃無礼で相手には何も伝わらない。

「多少言葉遣いが間違っていようとも、相手の立場に立って、『お気持ちは大変よくわかります。申し訳ございません』と本当に心を込めて伝えることで、めちゃめちゃ怒っていた先生たちが、最後には新しい仕事を依頼してくださり、電話を終えられるんですね」

 クレーム処理はマイナスの事態だが、そんなときこそ、心を込めたマナーのある応対で、相手の印象をプラスに変えることができたという。

 31歳から35歳まで、都合4年間、ひろ子さんはイギリスに滞在。その間もときどき帰国しながら、マナーの仕事や秘書業、営業をこなしていた。

 そして2002年、大手飲料メーカーのヨーロッパ支社に勤める日本人会社員と結婚。日本に拠点を移し、本格的にマナー講師の活動を再開する。

 '03年には、初めての著作となる『オックスフォード流 一流になる人のビジネスマナー』を上梓。2年後に発売された『完全ビジネスマナー』がヒット、'06年には『お仕事のマナーとコツ』が28万部のベストセラーとなり、マナー講師としての立場を確立できるようになっていった。

最高裁で母と争った末に……

 九州で母と暮らす弟は、介護福祉士として再スタートを切っているはずだった。しかし、彼はいつの間にか、雀荘の店長になっていた。そして、あちこちで借金を繰り返し、母を苦しめていた。

「人材の育成に携わる自分が実の弟の育成すらできていない。これはおかしな話だと思ってしまって……。弟を自分の会社に引き取って更生させようと試みました。でも、私がやりたいことはいつも応援してくれた夫が、初めて大反対したんですね。私は土下座して頼み、承知してもらいました。ありがたかったです」

 しばらくは弟も姉のサポート役としてまじめに仕事をしていた。彼なりに人生をもう一度立て直したいという思いでいることが、ひろ子さんには伝わっていた。

 ところが──。弟はやはりお金が原因で問題を起こしてしまう。

「弟は完全に壊れていました。病気ですね。平気で嘘をつけるようになっていたんです。ある日、『病気だったら治せるから、あなたの上司としてではなく、お姉ちゃんとして治してあげるから、一緒に頑張ろうね』と弟を抱きしめたんです。彼もワンワン泣きながら頷いてくれました。どこかで、母のため……という思いがあったんです。小さいころから弟を可愛がっていた母が悲しむから、私が何とか更生させなきゃって……」

 そう言って口を噤(つぐ)んだひろ子さんは涙を見せた。病院にも連れていってみたが、やはりどうにもならなかったという。

「弟が私の会社で悪さしたのは、私のせいだと母に言われて……。心が折れてしまいました」

 結局、後ろ髪をひかれる思いで、弟を母のもとに戻す決断をする。

 だが、その後、マナー講師の仕事に打ち込み、事業も順調に展開し始めていた2009年、とんでもないことが起こる。

 母親から訴状が届いたのだ。

「ある日、母から『実印と福岡の土地の謄本を持って帰ってきなさい』と突然電話がかかってきました。『え? なんで?』と聞いたけど、理由を言わない。放っておいたら訴状が届いたんです」

 母親は弟の借金返済のため、お金が必要だったと後で知った。

 裁判は結局、最高裁までもつれた。

「最終的に私はその土地を売って母のために清算しました。法廷では母とは『これで最後だろうな』という覚悟で会いましたね」

 そして係争中、あろうことか、ひろ子さんは、相手の弁護士を通じて弟の死を知らされたのだ。

「耳を疑いました。弟は自ら命を絶ってしまったのです。発見された場所は彼が学生時代を過ごした東京のある公園の公衆トイレでした。母に宛てた遺書があったようで、警察はまず母に連絡をしたみたいですね。母は『遺骨を引き取りには行けない』と言い、遺骨は飛行機で母のもとに送られたと聞きました。いくら係争中だとはいえ、東京にいる私になぜ、すぐに連絡してくれなかったのか……」

 ひろ子さんをそばで支えていた夫も気が気ではなかったという。

「お母さんとのトラブルは、私の立場から安易に立ち入れない。裁判中は、彼女と『なんでこんなことになるの?』と話すこともありました。弟さんも残念でした。本当に彼女もつらかったと思います。でも、そんなことがあっても、彼女は明るい。仕事も懸命に続けていました」

 現在、母親とは音信不通。居場所さえ知らないと言う。

「私はずっと母に『幸せになってもらいたい』と思ってきました。なのに、母は言いがかりのような訴えを起こしてきた。私は途中で和解案を持ちかけましたが、母はそれさえも拒絶してきました」

 両親の離婚のとき同様、何とか折り合いをつけたいと最後まで願ったが、叶わなかった。

「いちばん大切なのは、相手の立場に立って、思いやる心を持つこと。そして決めつけないこと。母はこうでなければならないと譲らない人でした。言っていることは正しいかもしれないけど、人生には杓子定規にいかないことも起きる。母ももっと生き方を上手にできれば、こうはならなかったのかなと。人としての柔軟さがないと、幸せにはなれないんじゃないかって思うんです。だから、うちの家族はみんな残念なんです。父も母も弟も……」

 あまりにいろんなことが起きすぎたため、子どもをつくることは怖かったと告白する。

「夫には申し訳ないのですが、あまり子どもが欲しいとは思わなかったんですよ。万一、同じようなことが起きたら……って。これは、私の代で終わりにしなきゃいけないな、と思ってしまったんです」

 冒頭の講義で「ハッピー」という言葉を何度も繰り返し伝えていたひろ子さん。その笑顔の裏には、家族の問題を反面教師にして生きたいという強い思いが込められていた。

「こんな事態を招かないような世界にしたい。私はマナーという形で“思いやりの心”を伝え続けているんです」

テレワークマナーで大炎上

 昨年9月、『テレワークマナーの教科書』という本を出版。コロナ禍でテレワークが一般的になった現在、タイムリーな企画だったが、ネットで大炎上した。

「驚きました。本の内容について『これはひどい』『うるせーばーか』『害悪』『こんな創作マナー出てくると思ったわ』という批判が殺到して。でも、炎上していた内容はその本に書かれていないものでした」

「リモート会議では5分前にルームに入室」「お客様より先に退出してはいけない」など間違った投稿に多くの人が反応し、次々と批判コメントが拡散された。

 だが、本の中では、「先に入室してないから失礼だ、などと思わないことこそが真のマナー」というアドバイスを添えていた。

「この騒動を通して、マナー講師につけられた『失礼クリエーター』という異名を知りました。『〇〇しては失礼』という新しい『失礼』を創出(クリエイト)して提唱する人、という意味。明らかに侮辱の感情が込められています」

 さすがに落ち込んだひろ子さんを救ったのは、夫の言葉だったという。

「私、元来落ち込みやすいし、気にしちゃうタイプなんですよ、グジグジと。あのときも、批判コメントに対してお詫びのメールを書こうとしていたくらい(苦笑)。でも、夫に『記憶から消せ』と繰り返し言われて、前向きに変わっていけました。注意されたら『言葉の花束』をプレゼントされたと思おう。マイナスのことが起きたときは、プラスに変えなきゃって」

 心ない言葉の数々を目にして、反論したい気持ちはなかったんですか? 思わず筆者がそう水を向けると、ひろ子さんは首を横に振った。

「自分の至らなさを自省する機会になりました。一方で、ほとんどのマナー講師が、マナーを作法や型として教えている。『上から目線』に見える部分もあるのかもしれない、と思いました。それに、裏を返せば、マナー講師という仕事にそれだけ影響力があるということ。茶道にいくつも流派があるように、マナー講師の教え方もさまざまです。自分がいいと思えば、それを取り入れればいいし、『どうなの?』と首を傾げるものだったら、スルーすればいいだけなんですよ」

「母」に残した「頼みの綱」

 現在、ひろ子さんは、企業のマナーコンサルタントとしても引く手数多である。

 7年前から社員研修を依頼している『国立音楽院』代表の新納智保さん(56)が言う。

「『仕事とは何か?』、経営者の立場に立った話から、経営のあり方、企業に合わせたさまざまな研修をしてくださるので驚きました。もともとはスタッフ向けにお呼びしたのですが、今は就活中の学生たちにも“ためになる”と人気です」

 今年、新たに自営業者向けのコンサルティングも始めたばかり。「相手の立場に立って、顧客が欲しがるものを提供する」思考は、マナーの得意とする分野だと言う。

 彼女の助言で、ネットを利用した新たなビジネスを始めた大阪の和食屋があった。コロナ禍でお店は休業。「お弁当を作って売ればいい」と周囲から言われたが、ご主人の大将は職人肌で、生ものにこだわっていた──。そこで、女将さんによる「和食のマナー講座」をオンライン化したのだ。

 有料の動画講座には申し込みが殺到。自粛期間でも収入を得ることができた。

『和処Re楽』の女将・裏野由美子さん(51)は長年、和食の文化をお客様に伝えたいと思ってきたと話す。

「西出先生のオンライン講座を知って参加したのがきっかけです。店側からしたら、マナーは知ってほしいけど、やはり『どうしたらお客様に楽しんでいただけるか』が大事。それを西出先生に言葉で示してもらえた。動画には大将もうれしそうに出演したんですよ(笑)」

 ひろ子さんの本を読んで、弟子入りし、マナー講師になった人もいる。吉村まどかさん(50)だ。

「西出先生は、仕事に対しては厳しいですね。一貫してマナー最優先で人間関係に対応されるところも、尊敬しています。マイナスポイントは、完璧すぎるところ。仕事に妥協を許さないから、2日も3日も徹夜しちゃう。先生の身体も心配だし、周りのスタッフも大変ですよね。

 先生は甘いもの、可愛くて美しいものが大好き。携帯のアクセに凝ったりして。それがご自身のブランディングになってるところもすごいんですが……(笑)」

 今年、ひろ子さんは55歳になる。父が亡くなった年齢だ。

「母とは、もう会うことはないと思います。でも、唯一の頼みの綱は残してあるんです。父や祖父が入っている納骨堂の施主が母になっています。施主として母の名前があるということは、まだ元気でいるということ。それだけは確認しています。そこの住職に『何かあったら、いつでも連絡してきてほしい』と伝えてあるんです」

 そう言ってひろ子さんは、「私、あっけらかんとしてるところもあるんで。終わったことはもう、ね」とおどけてみせた。

 けっして母親のことを諦めたわけではないのだ。

 ネット上で、マナー講師を批判する発言があっても、反論するどころか、批判した人の気持ちを想像しながら言葉を紡ぐ。あれほどのトラブルを持ち出した母親にも、まだ心遣いを欠かしてはいない。

「マナー(思いやり)には、自分も相手も幸せにする力がある──」

 きっぱりと断言する彼女の信念は、少しも揺らぐことはないのである。

(取材・文/小泉カツミ)

こいずみ・かつみ ノンフィクションライター。社会問題、芸能、エンタメなど幅広い分野を手がける。文化人、著名人のインタビューも多数。著書に『産めない母と産みの母〜代理母出産という選択』など。近著に『崑ちゃん』『吉永小百合 私の生き方』がある