大洋、横浜大洋、横浜(現DeNA)で活躍した齊藤明雄氏【写真:荒川祐史】

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川崎球場から横浜スタジアムへ「絶対にホームランは打たれないと思った」

 齊藤明雄氏は、神奈川県川崎市を本拠地としていたDeNAの前身「大洋ホエールズ」にドラフト1位で入団し、横浜市移転後の「横浜大洋ホエールズ」、1993年に改称された「横浜ベイスターズ」の3つの時代の全てで1軍出場を果たした唯一の選手である。口ひげをトレードマークに「ヒゲの齊藤」としてファンに親しまれた元右腕が、チームの変遷と個性的な同僚たちの素顔を語る連載最終回……。

 プロ2年目の78年、大洋ホエールズは本拠地を川崎球場から新球場の横浜スタジアムへ移し、横浜大洋ホエールズと改称した。両翼94.2メートルの横浜スタジアムは、今でこそ12球団の本拠地球場で最も狭いが、当時は1番広かった。「フェンスも高いし、この球場なら絶対にホームランは打たれないと思った」。フィールドも、水はけが悪かった川崎から人工芝へ。ロッカールームも、川崎は真正面に座った選手同士の頭がぶつかりかねないほど狭かったが、横浜では広々とした部屋の四辺の壁に沿ってロッカーが配置されていた。風呂も格段に広くなった。

 ユニホームも一新。川崎時代はオレンジとグリーンが基調のド派手なものだったが、移転と同時にシックなマリンブルー(濃い青)一色へ。「選手はほとんど変わっていないのに、一気にあか抜けて、野球のスケールも大きくなった気がした。これはイケる、勝たなくちゃいかんと思いましたよ」と齊藤氏は振り返る。

 同年4月4日、横浜スタジアムの“こけら落とし”の巨人戦に先発し、1安打完投勝利で飾ったのが齊藤氏だった。その3日前に名古屋で行われた開幕戦に先発したのは当時30歳のエース・平松政次氏だったが、23歳の齊藤氏が“ハマスタ開幕投手”に指名されたのには、新時代を切り開く意味が込められていた。新生横浜大洋はこの年、最下位だった前年と打って変わり、8月まで首位争いを展開。終盤に息切れして4位に終わったものの、7年ぶりに勝率が5割を超えた(64勝57敗9分=.529)。

 環境やユニホームは激変したが、個性的な選手が多いところは変わらない。“カミソリシュート”で知られたエースの平松氏は自身の打席で、当時若手の巨人・西本聖氏からシュート、シュートで内角を攻められ凡打に終わると、マウンドへ向かって「おまえの次の打席では、絶対にシュートでいってやるからな!」と威嚇したという。

ホエールズの魅力「選手の好きにやらせてくれるチームだった」

「ホエールズの魅力? はっきり言って、選手の好きにやらせてくれるチームだったということでしょう。監督、コーチに対しても、自分の意見が通らないと平気で怒りをあらわにする選手が結構いた」と懐かしむ齊藤氏。

 代打を送られたことに激怒した選手が、監督に向かって「どうして俺を替えるんだ?」と食ってかかりベンチ内で言い合いになり、「そこまで言うなら行って来い!」と打席へ送られ、ホームランを打って帰ってきたこともあった。外国人内野手のフェリックス・ミヤーン氏の場合は、代打を送られて監督と言い合いになり、「ゲット アウト! ゴー ホーム!」と怒鳴られると、そのまま帰宅。齊藤氏は「これがプロだ。プロとして生きている集団とは、こういうものだ」と感じていたという。

 個性派ぞろいで野武士集団と呼ばれた大洋には、大勝したと思ったら大敗を喫する、浮き沈みの激しい傾向があり、齊藤氏が在籍した17年間で優勝は1度もなかった。それでも「選手たちはチームの勝利のためにも、まず自分のパフォーマンスをしっかりしなければならないという責任感を持っていたし、少々のケガは隠して休まず試合に出続けていた。そういう選手を見に来ているファンもいた」と証言する。

 一方で、当時毎試合をテレビで全国中継される唯一の球団だった巨人、関西で絶対的な人気を誇った阪神には、対抗意識を燃やしていた。「言葉は悪いけれど、あいつらだけにいい思いをさせておくものか、とね。われわれより、巨人や阪神の2軍選手の方が知名度、人気があったと思いますよ」と苦笑する。

 93年、チームは「横浜ベイスターズ」に改称し、ユニホームやペットマークなども一新。イメージチェンジを図った。齊藤氏は6試合登板0勝0敗に終わり、この年限りで現役を引退した。「大洋ホエールズでなくなってしまった寂しさがありましたね。僕にとっては、球団がなくなってしまったような感じ。同僚の選手も年下ばかりになったし、そろそろ潮時かなと……」。ホエールズとともに生き、ホエールズを象徴した男は、ホエールズの消滅とともにユニホームを脱いだのだった。(宮脇広久 / Hirohisa Miyawaki)