私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第12回
オフトジャパンの快進撃とドーハの悲劇〜 柱谷哲二(3)

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 1993年10月、アメリカW杯最終予選に向けての日本代表メンバー22名が発表になり、初のW杯出場を目指す日本代表を応援しようと国内の熱が高まっていた。Jリーグが開幕し、日本中がサッカー一色になり、その勢いが日本代表にも伝播したのだ。

 W杯最終予選前に、国内でアジア・アフリカ選手権が開催された。


アメリカW杯最終予選、ドーハの悲劇について語る柱谷哲二

 この大会前、日本代表のキャプテン・柱谷哲二は、肝機能を低下させるウイルス性の風邪のために8月上旬から1カ月ほど入院生活を送った。コートジボワールとの試合の時は復帰して2週間しか経過しておらず、ぶっつけ本番だったのだ。

 ハンス・オフト監督からは「前半だけ出ろ」と言われたので、そのつもりでプレーした。試合は直前のスペイン合宿で露呈した守備の脆さがなくなり、相手を封じ込めた。前半0−0で終わり、「交代だな」と思い、ロッカーでオフトを探した。

「チェンジと言われると思ってオフトの顔を見ていると、ぜんぜんこっちを見ないんですよ。目を合わせないまま結局後半もゴーになり、出ることになった。延長までやってカズ(三浦知良)がゴールを決めて勝だったんだけど、ゼロに抑えたことで自分はできる、これならやれるなっていう自信がついた」

 ただ、柱谷の病気は完治したわけではなく、37度2分の微熱がつづき、体の節々に痛みを感じた。アメリカW杯最終予選のカタール・ドーハに入ると、暑さの影響で熱が下がらず、それまで肝臓に負担がかかると飲用しなかった薬を飲み、試合に臨んだ。

 アメリカW杯最終予選のサウジアラビア戦は0−0のドローに終わった。続くイラン戦、日本は1−2で敗れて早くも土壇場に追いやられた。

「サウジはいちばん力があるチームなので、ドローはまあしょうがないという感じだった。でも、次のイランに負けたのは誤算だった。ロッカーでラモス(瑠偉)が『向こうがユニフォームを泥だらけにして必死に戦っているのに、俺たちは誰のユニフォームが汚れている? これで勝てるわけねぇーだろ』って怒っていた。そのとおりだなって思ったね」

 イランは、ラモスを徹底的にマークして潰し、左サイドバックに入った三浦泰年のサイドを集中的に攻撃してきた。その結果、柱谷曰く「最悪のゲーム」をして勝たなければいけない試合を失った。ホテルに戻っても敗戦のショックが続いていたが、中山雅史と都並敏史が盛り上げてくれた。

「その時、3つ勝てばいいじゃんって気持ちを切り替えた。そもそも最終予選は全勝が目標だった。2つは取り損ねたけど、あと全勝すればなんとかなる。オフトも気持ちを切り替えて、次の北朝鮮戦でシステムを4−3−3にした。勝負に出たなって思いましたね」

 長谷川健太を右のウイングに置き、サイドを徹底的に突くことでチームに勢いと流れが生まれた。北朝鮮戦に3−0で勝ち、韓国戦もカズの決勝ゴールで、1−0で勝利した。この時点で日本は得失点差でサウジアラビアを抜いてグループ首位。最終戦のイラク戦に勝てば、W杯初出場が決まることになった。

「韓国に勝って、カズやみんなが泣いて、俺も一瞬、グっときたけど、ラモスの顔を見たら厳しい表情をしていたんでハッとしたよ。すぐに、『テツ、まだ終わってないよ。これからだよ』って言われた。たしかに自分たちは、韓国に勝つためにここに来たわけじゃない。韓国戦はW杯に行くための通過点にすぎない。ただ、そのことをラモス以外は、あまりわかっていなかったと思う」

 韓国に勝ってもW杯に行けるわけではない。まだ何も決まっていないのに、決まったかのように泣いて喜ぶ選手たちに、ラモスは違和感を覚えたのだろう。その日からイラク戦までメディアはもちろん、チームメイトも遠ざけるようになった。

「イラク戦までの2日間、ラモスはほとんどしゃべらなかった。なんで話をしないのかなって不思議だったけどね。ベンチにひとりで座って、独りごとを言っていた。集中していたのか、ビビっていたのかわからないけど、俺は普通にしていればいいのにって思った。そういう行動をとることでイラク戦が特別な試合だとみんな意識してしまうし、実際そうなった感があったからね」

 柱谷は大事な試合だと理解していたが、あくまで最終予選の1試合というスタンスで、余計なプレッシャーを自ら掛ける必要がないと思っていたのだ。

 イラク戦のキックオフ前、柱谷は、それまで中2日で試合をこなしてきた疲れが蓄積されたせいか、疲労困憊だった。

「試合の前半が始まる前にもう後半のような感じで、体が重かった」

 試合は、カズの先制ゴールでリードした。

 だが、イラクは大量点を取ればW杯出場の可能性が残されていたため、失点しても怯むことなく攻撃を仕掛けてきた。日本は受け身に回り、勢いに押される展開になった。

 ハーフタイムに入ると、選手は自分の近いポジションの選手と意見をぶつけ始めた。ロッカールーム内に大きな声が響き、いつもの静寂と冷静さが失われていた。

「シャラップ!!」

 オフトが怒鳴ると、ロッカールームは水を打ったように静まり返った。そして、ホワイトボードに「GO TO USA 45MIN」と書いた。オフトの指示は、それだけだった。

「ヨッシャー!」

 柱谷は大きな声を出して気合いを入れ、再び戦場へと向かった。だが、気持ちはファイティングポーズを取っていたが、肉体的には生気が失われていた。

「後半、自分の視野がどんどん狭く、暗くなっていったんです。体が本当にキツくて、声を出し続けていないと倒れるんじゃないかっていう状態だった。同点に追いつかれたゴールは俺がかぶったからだけど、いつもボールに触れているはずなのに跳べていない。普段できていることが、その時はできていなかった。自分の体が消耗して、もうありえない状況だった」

 柱谷に視野が戻ってきたのは、中山雅史がゴールを決めたあとだった。その後もイラクの怒涛の攻撃を受けたが、柱谷は闘志の炎を必死に燃やし、踏ん張っていた。

「北澤(豪)を入れてくれ!!」

 柱谷とラモスが大きな声で叫んだ。

「4−3−3だったんだけど、イラクに攻められていたんで、北澤を入れて中盤を4枚にしてほしかった。北澤が入れば守備が計算できるから。でも、オフトは武田(修宏)を入れた。武田が悪いわけじゃないけど、この時、初めてオフトが自分たちの考えとズレた采配をした」

 なぜ、武田なのか……。

 この時、柱谷はその理由を考えようとも思わなかったが、数年後、監督になり、ひとつの答えが見てきたという。

「オフトは3点目を取りに行ったんじゃないかな。イラクは前掛かりになっていたので、後ろはスカスカだった。そこにスピードのある武田を入れて3点目を入れて試合を終わらせる。自分が監督になった時、そういう考え方もあるなって思った。でも、当時の現場は『えっ3点目? 2−1でいいよ。北澤入れてくれよ』って感じだった」

 柱谷とラモスは、電光掲示板の時計を確認し、レフェリーを見た。

 レフェリーが「ワンモアプレー」と言い、柱谷は次がラストであることを確認した。次にボックス内の守備を確認した。中央を締めており、ボールが入っても跳ね返せる自信があった。イラクのCKがショートコーナーになった。「カズ行け!」と叫んだ刹那、そこから柱谷は地獄に突き落とされたのである。


日本中がショックを受けたドーハの悲劇。キャプテンの柱谷哲二も号泣した photo by Getty Images

「もう真っ白だよね。同点にされてから、まだ時間があるとか言われたけど、できねえよ、そんなもん(苦笑)。悔しくて泣いて、周囲もみんなそんな状態だった。ただ、サポーターに挨拶しないといけないと思い、ひとりで行くかって思ったらみんながついて来てくれた。この時、キャプテンやってよかった。みんなに信頼されていたんだなって思ったね」

 松永成立はバスの中でも泣き続け、部屋に戻ると森保一もベッドで泣いていた。柱谷も、頭の中で最後の失点シーンが何度もリプレイされ、涙した。しばらくすると、ホテル内からW杯出場を決めた韓国の選手団の歓喜の声が聞こえてきた。

 サッカーの神様に見放された、あまりにも悲しい夜だった。

 それから……柱谷はパウロ・ロベルト・ファルカン監督の日本代表でもキャプテンを任され、加茂周監督になってからもしばらくキャプテンマークを巻いた。「闘将」と言われ、日本代表では72のキャップを刻んだが、98年に引退した。

 オフト時代のキャプテンは柱谷にとって、かけがえのない大事な時間だったという。

「代表のキャプテンになる前は、ラモスのことが言えないぐらい人のことなんて考えてこなかったし、自己中心的だったけど、代表のキャプテンになってから変わったね。自分のすべきことを整理して、ひとつずつこなしていった。そうしてダイナスティで優勝した時は本当にうれしかった。キャプテンはしんどい役割が多いけど、いちばんうれしいのは優勝した時最初にカップを持てるところ。キャプテンとしてチームを引っ張り、優勝したからこそ、自分がやってきたことが正解だったと思えるんでね」

 柱谷は、オフトの時のキャプテンは、自分なりに手応えを感じていた。だが、その後はキャプテンとしてうまくいかないと感じていたという。

「オフトの時は、ラモスとかわがままな選手をうまくとまとめていくことができたけど、ファルカンの時は若い選手と噛み合わないと思ったし、加茂さんの時もそうだった。やっぱりそのチームに合う、合わないがあると思うよ、キャプテンにも。

 井原(正巳)は、俺とは違うキャプテンシーでフランスW杯に行ったし、(長谷部)誠は3回もW杯に出ている。誠は浦和レッズ時代に3年間教えていたけど、当時からキャプテンに向いていた。オフトはいくつかの選手のグループの中間に立ち、常にバランスを取ってくれと言っていた。誠はそれが20歳ぐらいからできていた。上の選手とも若い選手とも話ができていたからね」

 柱谷は、そう言って表情を崩した。

 昨年、ドーハでは同部屋で、いろんな話をした森保が日本代表監督になった。そして、苦い思い出となったドーハから30年後に、同じ場所で行なわれるカタールW杯を目指して戦うことになる。まるで運命の巡り合わせのようだ。

「森保は、どこかで壁が来るかもしれないけど、まずはW杯予選を乗り越えてもらって、カタールのW杯でベスト8の壁を越えてほしい。そのために俺らは協力を惜しまない」

 森保はオフト時代、ラモスに怒鳴られても中央にパスを出さなかった芯の強さとブレない心を持つ。監督になってもそれが変わらない。だからこそ、柱谷は楽しみにしている。

 あいつならできるよ、と。

(おわり)

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