私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第12回
オフトジャパンの快進撃とドーハの悲劇〜 柱谷哲二(2)

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 1992年8月のダイナスティカップ(現在のE−1サッカー選手権の前身)を直前に控え、日本代表は徐々にまとまりつつあった。

 ハンス・オフト監督の気さくな性格が見えてきて、監督と選手が打ち解け始め、また柱谷哲二キャプテンの「まずは監督の言うとおりにやってみよう」との声掛けに、一部の選手たちが賛同していたのだ。


オフトジャパンの時のキャプテンとしての苦労を語った、柱谷哲二

 だが、ラモス瑠偉は自分のサッカーを曲げられず、オフトと内戦状態になっていた。ダイナスティカップは、日本にとって非常に重要な大会になる。柱谷は再度、ラモスのところを訪れ、キャプテンとして話をしにいった。

「この頃、オフトはラモスとぶつかって、鬱陶しいなって感じていたと思う。でも、ダイナスティで結果が出れば、チームはまとまる。ここが勝負どころだと思ったんで、ラモスに『ここで結果が出なかったら文句を言いましょう。それまでは監督が要求することをやってください』って言いました」

 柱谷の言葉をフォローしてくれたのがカズ(三浦知良)だった。

 カズは、中学卒業後、単身でブラジルに行き、プロになり、日本に戻ってきた。ラモスと共に日本代表にプロフェッショナルという新しい血を入れ、アマチュアだった選手のメンタルをプロに昇華させてくれる存在で、ラモスも一目置いていた。そのカズが「そのとおり、プロは監督に言われたことをやらないといけない。プロってそういうもんだから」と言ったのだ。

 92年8月22日から29日まで、中国の北京でダイナスティカップが開催された。

 日本はグループリーグ初戦の韓国に引き分けた。だが、続く中国と北朝鮮に勝利してグループ1位。2位韓国と戦った決勝は、2−2からPK戦で勝利し、優勝した。日本が海外の国際大会で優勝するのは初めてで、柱谷は大きな自信と可能性をチームに感じた。

「前回大会は、韓国、中国、北朝鮮に全敗だった。負けて何もできない状態だったのが2年後に韓国に勝って優勝した。オフトの言うことを守りつつ、自分たちがプラスアルファでやっていけば十分にやれるんだって自信がついた。結果が出たことで、みんなオフトについて行くみたいな感じになって、一段と結束力が増した感じだった」

 オフトは無名の外国人監督として、ラモスをはじめ選手たちから疑心暗鬼の視線で見られてきた。だが結果を出して、選手たちの信頼を勝ち取ることができた。オフトは、最初の大きな賭けに勝ったのだ。

 だが、それでもラモスだけはオフトのサッカーに納得していなかった。

 ラモスは大会中、ケガを抱えていたこともあって4試合すべて途中出場だった。決勝の韓国戦の2得点は、ラモスがつくったチャンスから生まれたもので、「違い」を見せつけた。だが同時に、出場すると中央突破にこだわり、潰され、攻撃が停滞するシーンが増えた。柱谷は「外! ワイド、ワイド、福田(正博)を使え」と叫んだが、ラモスは聞こえないふりをして中央にボールを運んでいった。

「結果が出てもラモスだけは不満な表情だった。なんか気に食わないんだろうね。でも、現実はサイドで福田が活き活きとしていいプレーしている。それなのにラモスはサイドを使わない。それに『武田(修宏)はダメだから高木(琢也)に代えてくれ』とか、自分の使い勝手のいい選手を要求していた。

 ラモスには、プロとしてのプライドと共に、こういうサッカーをして勝つんだという勝ち方に対してもプライドを持っていた。この人は自分のサッカー観を曲げない。でも、プロの監督としてオフトは結果を出した。結果を出した以上、我儘は許されない。みんなもオフトを信頼し始めていたんで、この空気を壊すわけにはいかないと思い、ラモスにキャプテンとして釘を刺しに行ったんです」

 ダイナスティカップで祝杯をあげる前、柱谷はラモスに最後通告をしようと決めていた。だが、相手はラモスである。言おうと思っても簡単にできることではない。同部屋の森保一が、部屋の中でうろうろし、落ち着かない様子の柱谷を見て、怪訝な表情を浮かべていた。ようやく言う決心をし、「しゃー!」と気合いを入れてラモスの部屋に行った。

「ラモスさん、話があります」

「何? テツ」

「今回、ダイナスティで優勝し、チームがまとまりつつあるし、戦う集団になってきました。みんな、オフトについていけば結果が出ると信用するようになってきたけど、ラモスさんだけはそうじゃない。秋にはアジアカップがあるし、優勝しないといけない。俺らはずっとラモスさんと一緒にやりたいけど、今後、代表で集まった時、オフトのことでうだうだ言うようなら、自分から代表を辞退してください」

 柱谷は、キッパリとラモスにそう言った。

 それを聞いたラモスは、キョトンとしていたという。柱谷は、言うだけ言い、ラモスの返事を聞かずに部屋を出て行った。

 柱谷の言葉は、ラモスが想像できないものだったが、カズと共にラモスがいちばん信頼している選手の言葉である。テツが言うなら仕方ないか、と理由づけができたことで静かに受け入れてくれたようだった。ラモスはオフトのサッカーは嫌いだったが、仲間の声は信じていたのだ。

 ダイナスティが終わり、オフトとラモスの摩擦は解消の方向に進んでいくだろうと柱谷は考えていた。だが、強烈なオフト批判をした記事を見たオフトは、「このままにしておけない」と激怒した。オフトは、ついにラモスと1対1の話し合いに臨んだ。

 アジアカップ広島大会前、日本代表が集合した。

 その際、柱谷は、オフトとラモスの雰囲気の違いにすぐに気がついた。

「なんかふたりの雰囲気が違うんだよね。ずっとふたりで話をしていて、いきなり仲がいいわけ。変な感じだけど、まあよかったなってホッとしました」

 92年10月〜11月にかけて行なわれたアジアカップは、翌年から始まるアメリカW杯予選の前哨戦、しかもホームでの開催なので絶対に勝たなければいけない大会だった。「われわれは歴史を変えるんだ」という旗印の下、指揮官と王様が和解した日本は快進撃をつづけた。決勝でサウジアラビアを破り、ダイナスティカップにつづいて優勝を果たしたのである。

「アジアカップで優勝できたのはラモスがいたからです。これまで真ん中ばっかり攻めてゲームを壊すこともあったけど、今大会ではそういうのがだいぶなくなった。彼の才能がアクセントになって、しかもチームに溶け込んでくれた。ラモスがちゃんと20人の中のひとりになった大会だった」


92年アジアカップに臨む日本代表。快進撃を遂げて優勝を果たした photo by AFLO

 日本で開催されたアジアカップ優勝で、日本代表は俄然注目されるようになった。翌93年5月のJリーグ開幕に向けて代表の優勝が呼び水となり、サッカーが大きなムーブメントになろうとしていた。

 そして、環境もプロへの移行で変化した。1年前は日当1万円だけの支給で勝利ボーナスも優勝賞金の分配もなかった。それをカズが中心になって「プロになるのに」と異議を唱えて、柱谷が協会と交渉し、91年のキリンカップ優勝時、勝利ボーナスが初めて支給された。それはオフト監督になっても継続され、優勝賞金も分配された。また、新幹線はグリーン車になり、飛行機もビジネスクラスに変わった。

 リラックスルームができたのも、オフトが監督になってからの合宿で、東京プリンスホテルに投宿した時だった。トレーナーを1人から3人に増やしてもらい、大きなリラックスルームの奥にマッサージルームをつくった。リラックスルームでは飲み物やサッカーのビデオなどを置き、選手が集まって話ができる環境づくりをした。当時、リラックスルームで一番話をしていたのが福田、井原正巳、中山雅史、そして森保だったという。

 また、ダイナスティカップで優勝したあと、ユニフォームに日の丸を復活させた。

「うちの兄貴(柱谷幸一)が代表の頃は日の丸が入っていたんだけど、横山(兼三/前監督)さんの時代になくなって、その時は『つけてください』とは言えない雰囲気だった。オフトになって、やっぱり日本のために戦うので、日の丸が欲しいと協会にお願いをしたら左袖につけてくれた。俺はキャプテンマークで隠れてしまうからという話をしたら、キャプテンマークに日の丸を入れてくれたんですよ。やっぱり重みが違うし、日本のためにという意識がより強くなった。W杯予選に向けて、チームも環境もプロとして整ってきて、あとはやるだけだなって思っていました」

 柱谷は、キャプテンとしてチーム環境の向上に尽力した。協会との折衝役になり、今の代表チームの環境の基礎づくりをしていったのである。そして、93年10月、プロになった選手たちは、チームに完全融合したラモスと共に、いよいよ決戦の地、カタールのドーハへと向かうことになるのである。

(つづく)

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