豊臣秀頼は二人いたんです!秀吉が公認した「もう一人の豊臣秀頼」ってどんな武将だったの?【完】

写真拡大 (全4枚)

これまでのあらすじ

豊臣秀頼(とよとみ ひでより)と言えば天下人・豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)の後継者として有名ですが、実は秀吉が公認した「もう一人の豊臣秀頼」が存在しました。

彼は幼少の頃に謀叛で父(尾張守護・斯波義統−しば よしむね)を失って織田信長(おだ のぶなが)に仕え、桶狭間の初陣より数多の戦場を渡り歩きます。

養子・安藤源五(あんどう げんご)の討死や「本能寺の変」で居城を追われるなど幾多の困難を乗り越えて秀吉の天下統一に貢献して秀吉から豊臣の姓を賜り、有名な方の秀頼(拾丸)より5年早く元祖「豊臣秀頼」が誕生したのでした。

これまでの記事はこちらから

「もう十年若ければ……」嫡男・秀秋に家督を譲り、波瀾万丈の人生に幕を下ろす

さて、天正十八1590年に念願の居城(信州・飯田城)に返り咲いた豊臣秀頼は50歳を迎え、そろそろ第一線から退こうと嫡男・秀秋(ひであき)に家督を譲って後見。

秀秋の生年は不明ですが、養子の安藤源五が討死する天正十1582年(この時9歳)前後であろうと考えられます。

また、二人の娘はそれぞれ公卿の万里小路充房(までのこうじ あつふさ)と京極高知(きょうごく たかとも)に嫁がせ、まだ幼い我が子のフォローもがっちり固めました。

朝鮮・釜山を攻める豊臣軍。Wikipedia:文禄の役『釜山鎮殉節図』より。

文禄元1592年の朝鮮征伐(文永の役)では肥前名護屋城(現:佐賀県唐津市)の築城普請に携わり、在人して秀吉の傍に控えるも渡海出征の機会はなく、玄界灘を眺めては「もう十年若ければ、槍一本で唐天竺(からてんじく。中国・インド)まで先駆けたものを……」などと嘯(うそぶ)いたのかも知れません。

そして翌文禄二1593年、有名な方の豊臣秀頼(拾丸)の誕生と入れ替わるようにして53歳の生涯に幕を下ろしました。

尾張守護の名門に生まれながら幼くしてその地位を追われ、信長・秀吉の下で一から文武両道の働きで身を立て、大名にまで上り詰めた、まさに波瀾万丈の人生と言えるでしょう。

家督を継承した秀秋の受難

さて、幼くして家督を継承した毛利秀秋(※)ですが、秀頼の遺領10万石の内、9万石は義兄(姉婿)の京極高知が受け継ぎ、秀秋には1万石しか与えられませんでした。

(※)父が秀吉から賜った豊臣の姓がまだ有効であったかは不明ですが、まだ幼く、実績もない事などから空気を読んで憚ったものと考えられます。

嫡男・秀秋の前途に暗雲漂う(イメージ)。

詳しい事情については不明ですが、まだ幼い秀秋が10万石すべて継承するより、所領が隣接している年長者の京極高知に9万石を追加で与えた方が、周辺諸国へ睨みが利く……などと秀吉も思ったのかも知れません。

辛うじて大名としての体面を保つことが出来た秀秋は秀吉の死後、その嫡男である豊臣秀頼(秀頼公)にも仕えますが、豊臣政権の内部抗争である関ヶ原の戦い(慶長五1600年)では石田治部少三成(いしだ じぶのしょうみつなり)率いる西軍に属します。

伏見城の攻略では手柄を立てたものの、西軍が敗れてしまったため、東軍の大将・徳川家康(とくがわ いえやす)によって、1万石の領地を改易(かいえき。没収)されてしまいました。

それでも豊臣家には恩義があるから、と今度は大名でなく一家臣として秀頼公に仕え、5,000石の旗本として召し抱えられますが、この頃既に世の趨勢が徳川に傾きつつあるのを感じていたかも知れません。

そして大阪の陣で散華

以降、家康はあの手この手で秀頼公を挑発し続け、ついに豊臣・徳川の最終決戦となる大阪の陣(慶長十九1614年11月〜二十1615年5月)が勃発します。

秀秋は共に伏見城で戦った毛利豊前守吉政(もうり ぶぜんのかみよしまさ。俗に勝永)の軍勢に加わり、四天王寺(現:大阪府大阪市天王寺区)で徳川方の仙石兵部大輔忠政(せんごく ひょうぶだゆうただまさ)の軍勢と激突しました。

「やぁやぁ遠からん者は音に聞け……我こそは毛利河内守秀秋!……命の要らぬ者はかかって参れ!」

勝ち目はなくても最期まで果敢に戦う秀秋たち(イメージ)。「大阪夏の陣図屏風」Wikipediaより。

かくて勇猛果敢に戦った秀秋ですが、衆寡敵せず力尽きたところを仙石家の家臣・岡田広忠(おかだ ひろただ)に討ち取られてしまいます。

やがて大阪城は陥落、燃え盛る炎の中で主君・秀頼公も自害して豊臣家は滅亡。こうして「豊臣秀頼」は二人とも、歴史の舞台から姿を消していったのでした。

【完】

※参考文献:
谷口克広『尾張・織田一族』新人物往来社、2008年
谷口克広 監修『織田信長家臣人名辞典』吉川弘文館、1995年
黒田基樹『羽柴を名乗った人々』角川選書、2016年
高柳光寿『戦国人名辞典 増訂版』吉川弘文館、1973年