「葬儀不要」には思わぬ落とし穴が? 遺族が「大変だった」と語る葬儀後の苦労をうかがいました(写真: (c) SOURCENEXT CORPORATION/amanaimages)

近年、冠婚葬祭の儀式の簡略化にともない、自分の死後は「葬儀不要」「お墓はいらない」という人が増えています。しかし逝く側、送る側の思いにギャップが生じ、遺された人が苦悩するケースも珍しくありません。

「死んだら火葬だけでいい」という父親

田中義明さん(仮名、59歳)の父親は、脳梗塞で肢体不自由になり、数年前から特別養護老人ホームに入居していました。しかし2度目の脳梗塞を発症し、状態は一進一退。医師からも余命を告げられ、葬儀のことを考えなければならないと覚悟を決めました。そんな中、田中さんは以前から父親が言っていた一言が気になって仕方がありませんでした。

「自分が死んだら、火葬だけでいい。墓もいらない」

その真意はどこにあるのだろう、と気になりながらも、冠婚葬祭イベントはできるだけ合理的にすませたほうがよいのでは、という自身の考えもあって、「父親の葬式は不要」だという考えに賛成でした。

万が一のときのために、あらかじめ近くの葬儀社をピックアップし、火葬のみの直葬(ちょくそう・通夜や告別式を行わず、納棺後すぐに火葬する葬儀のこと)プランで見積もりを出してもらいます。その費用は約30万円。遺体を斎場で安置してもらうとしたら、プラスで1日2万円程度必要であることもわかりました。もし、通夜、葬儀・告別式など儀式をするとしたら、祭壇や料理、返礼品などが加わりこれにプラス60万〜100万円。寺院に読経をお願いするとしたら、さらにお布施が必要となります。

「葬儀はしなくていい、といったのは、自分たちに金銭的な負担をかけたくないからだろう」と、田中さんは父親の真意をくみ取ることができたような気がしました。

数カ月後、田中さんの父親は亡くなり、その遺志どおり葬式は行わず、火葬のみの直葬を行いました。親戚も高齢であるため、「知らせると、かえって気を遣わせてしまう」と事後報告にし、近所の人にも亡くなって1週間程度経ってから知らせることにしました。

しかし、そこからが怒涛の日々のはじまりです。火葬後、母親は年金、保険、各種手続きなどに追われ、息つく間もありません。それに加えて、「この度はご愁傷様でございます」とお悔みの電話や来客、御香典の対応など、一つひとつ手間のかかる作業をこなしていかなければなりませんでした。

お花やお線香を送ってくださる方の心遣いはありがたいと感じつつも、それに対してお返しをするとなると出費が伴うばかり。お香典の整理をしたりリストを作ったりしながら、「訃報をお知らせしたうえで、小規模でも葬儀を行っていれば、少なくともこの手間は省けたのに」と思ったものでした。それに輪をかけて大変だったのが四十九日法要の準備でした。

弊害というと言葉は悪いですが、直葬で困ったのは四十九日法要だったと田中さんは振り返ります。「何となく位牌はあったほうがいい」「やっぱり一区切りとして法要はしたほうがいいと思う」という意見は母親も含めて家族全員一致。特別に信心深いわけではないのですが、「法要、お盆、お彼岸などを通じて、亡き人へ思いを馳せるという行為はきちんと子や孫に伝えていきたい」という思いがどこかにあったのでしょう。火葬しておしまい、という形にはしたくなかったようです。

しかし、そうなると、「お坊さんはどうする?」「戒名って必要なの?」と葬儀の際に考えるべきことを、改めて考えなければいけなくなるわけです。さらに会場の手配や、親戚に声をかけるときの案内状、位牌の準備などがあり、「実は葬儀そのものよりも、葬儀後のほうが数倍も大変」だという現実に気がつくことになります。

僧侶は「Amazon」で手配

亡き父親の実家の墓は東北の田舎町の寺院境内にあり、その寺院との付き合いはほとんどありません。そのため、東京で僧侶を探すことになりました。インターネットで探すと、僧侶派遣サービスがAmazonにあることを知ります。その費用、法事法要の手配と戒名授与で6万5000円。

僧侶の手配はAmazonで注文し、法要会場は都市部のホテルを利用することにしました。ホテルよりもリーズナブルな会場もありましたが、案内状の作成、引き物の準備、装花などそれぞれ別に手配する余裕などありませんでしたから、すべて一括で手配できるホテルを選びました。

「ホテルなので割高感はありましたが、集まった親戚20人ほどで、ゆっくりと故人をしのぶことができましたので、四十九日法要はしっかりと開催することができてよかったです」

父親が亡くなって、まもなく1年になる田中さん。一周忌を前に、遺志である「墓はいらない」という言葉に戸惑いをみせています。「墓はいらない」という遺言は、たとえ公正証書であっても効力はありません。しかし、思いを伝えるという意味で遺しておくことは可能ですし、エンディングノートなどに気軽に記しておく人もいます。

墓を持たない選択肢としては、「海洋散骨」があります。海への散骨には賛否両論ありますが、「墓地、埋葬等に関する法律」で規制されていないため、「節度をもって行う」など、それぞれの倫理感、また各自治体で出されているガイドラインの範囲内で行われているのが実情です。

山中など土地への散骨については、「私有地なら節度をもって行えば可能」という見方もありますが、近隣とのトラブルになったり、永続性が保たれないという安定しない土地になるため、一般的には推奨されていません。なお、近年は「散骨禁止条例」等で、散骨を規制している自治体もあります。

結局、お墓を探すことに

田中さんは、「父は東北の山深い町で育っていますから、海に特別な思いがあったとは思えません。散骨というのはなんだか違うような気がします」と語ります。さらに「この1年の間にお彼岸、お盆の行事などがありましたが、もし遺骨がなくなったらどうなるんだろう、と考えちゃうんですよね。やっぱりお墓ってあったほうがいいのかな、って」と続けます。

また、母親の意見は「お父さんはお墓はいらないと言っていたけど、私は自分が死んだら普通のお墓に入りたい。子や孫がお墓参りとかに来てくれたらうれしい」とお墓肯定派。夫婦によっても意見が違うので、単に父親の遺志だけをくみ取るというわけにはいかないようです。

「一周忌には間に合いませんが、三周忌までには母を含めて自分たちが納得のできるお墓を探したいと思っています。あまり派手なことを好まなかった父の意向も反映できたらいいですね」と、田中さんのお墓探しは現在進行中です。

ここ数年、葬儀からお墓など、一連の葬送儀礼の低価格化や合理化が進んでいます。無駄なものは省き、コストカットをしようという動きで、「葬儀・お墓不要論」も表出しています。確かに、「遺体の処置」だけに着目すれば、火葬だけで済ませたり、遺骨は散骨にしたりするという方法が合理的でしょう。火葬場によっては、遺骨の引き取りさえも拒否する人が増えているとも聞きます。

しかし「遺体の処置」のみを葬送儀礼というのであれば、有史以来、世界で弔いの儀式が今日まで続くこともなかったでしょう。そもそも冠婚葬祭などの通過儀礼は、第三者には不合理で非論理的に見えるものです。

田中さんは、Amazonの「お坊さん便」を利用しましたが、合理的な方法であると理解しつつも、これがいいとは正直思えませんでした。僧侶は丁寧で不満はありませんでしたが、今後、法要のたびにAmazonを利用して違う僧侶にお願いするのにも違和感がありました。

「父は自分たちに負担をかけたくないという思いで、葬儀不要、お墓はいらない、と言っていたのかもしれませんが、自分たちに限っていえばコストに反映されない負担の部分が大きかったような気がします」と振り返ります。

「逝く側」「送る側」のギャップをどう埋める

葬儀もお墓も、弔い方は時代とともに変わっていくものですから、形式にとらわれる必要はありません。戦後数十年の動きだけみても、火葬率が上昇し、葬儀の会場は自宅から葬儀専門式場へ移り、お墓は納骨堂や樹木葬墓地など多様化しています。宗教観の変化、葬儀に対する意識の変化などもあり、死後に対する考え方もさまざまです。

しかし、選択肢が増えてしまったために、逝く側の思いと送る側の思いにギャップが生じたり、家族間での意見の食い違いなどが出てきたりするケースが多々みられます。

昨年、厚生労働省は、ACP(アドバンス・ケア・プランニング)の愛称を「人生会議」とし、11月30日を「人生会議の日」とすると発表しました。ACPとは人生の最終段階における医療・ケアについて本人が家族等や医療・ケアチームと繰り返し話し合う取り組みのことを言います。11月30日にしたのは、「いい看取り・看取られ」の語呂に合わせたとか。

残念ながらこの「人生会議」の考え方に、死を迎えた後どうするか、という視点は含まれていません。せっかく最終段階を考えようという方向に舵を取っているのですから、「看取りの後はどうするか」という人生会議も必要ではないでしょうか。