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不登校ひきこもりの声を伝える専門紙「不登校新聞」(発行元・NPO法人全国不登校新聞社)編集長の石井志昂(しこう)さん(36)は、中学2年のある日を境に、学校へ行かなくなった。人生に何の希望も持てず、自己否定する日々を救ったのは「不登校新聞」の取材活動だった。

「昔はなぜか『強くなければならない』『なぜこんな弱くなってしまったのだろうか』と思い苦しんでいました。でも、思春期は心が揺らいで当然です。学校に行きたくないという気持ちがあっておかしくない。10代は自分なりの楽しみ方を見つけるのに費やしていい」。

●中学受験に失敗「人生を踏み外した」

中学受験に失敗し、地元の公立中に進んだ。そこで待っていたのは、理不尽な校則。靴下と下着は白色のみ、女子の髪色ゴムは黒か紺のみで茶色は不可。鉄製の水筒は「昔それで人を殴った人がいる」から禁止だった。「人としてバカにされているのかなと思いました。理不尽な校則に怒りがわいたんです」

「スクールカースト」といった生徒間の上下関係も激しかった。「上位」にいる生徒からいじられ、自分も「下位」の生徒をいじめた。

つるんでいたグループで、万引きが流行った。そのうちの一人が先生にバレて呼び出される。友人は「一緒にやっていた友人の名前を言え」と6時間以上、生徒指導室から出してもらえず、先生に殴られた。

「まるで『スケープゴート(生け贄)』でした。名前を言わない限り、解放されないんです。それから一人ずつ事情聴取が始まって、仲間を売るようになる。お互いに疑心暗鬼になり、人間関係はぐしゃぐしゃになりました」

「いい学校に行かなければいい人生はない」「偏差値50以下の学校に行った人は人生終わったと思ってください」。中学受験のため小学5年から通っていた進学塾で、講師が繰り返していた言葉を思い出した。

「自分が中学受験に失敗したから、今こんな目にあっているんだ。人生を踏み外してしまった」。講師が話していたとおり、一切の希望が絶たれたような気がしていた。自己否定に繋がって行った。

原因は一つではないが、疲れ果ててしまった。「明日学校に行きたくない」。ある日の深夜、母にそう呟いた。言葉にして初めて自分の気持ちに気づき、号泣した。それ以来、学校には1日も行かなかった。

●取材活動で自己肯定感を取り戻した

不登校は許されるものではない」。当時はそんな感覚から、すぐにフリースクールに通い始めた。驚いたのは、最初に「ここにくるのはあなたの意思ですか」と問われたことだった。

「学校みたいなものだろうと予想していたんですが、いい意味で裏切られました。これまで純粋に自分の意思を聞かれることはなかった。学校では空気を読んで、その流れの中で答えを見つけなければならなかった。だから自分の意思を尊重してくれることに、とてもびっくりしたんです」

高層ビルを非常階段だけで登ったり、棒が倒れた方向にひたすら歩いたり。「ほとんど遊んで過ごした」が、日本で開催された世界フリースクール大会の実行委員として、通訳のコーディネートにも携わった。そんな中、転機になったのが1998年に全国の不登校の関連団体が母体となり創刊した「不登校新聞」の取材活動だった。

「学校では先生の持っている正解に対して、どれだけ間違ったかの減点方式ですよね。でも、取材は自分の持っている違和感や問題意識が財産となりました。取材相手から『いい質問だね』と言われたり、自分の疑問に共感されたりすると、自分が肯定されたような気持ちになって楽になりました」

●「人は弱くていい」

「自分と同じような思いを感じて欲しい」。そんな理由から、現在も「不登校新聞」の中に「子ども若者編集部」を置く。不登校ひきこもり経験のある10〜30代の130名が所属し、記者として取材に関わっている。

8月には「子ども若者編集部」による著名人へのインタビュー集「学校に行きたくない君へ」(ポプラ社)が刊行された。樹木希林、横尾忠則、羽生善治ーー。その豪華なラインナップにも驚くが、他ではなかなか読めない人生観や物事の捉え方が綴られている。

「インタビュアーの主語は自分。本の中では数行に間引かれているが、インタビュアーは自分のことを切々と話す。彼らはインタビューで自分がどう生きていったらいいのかを聞いているんです」

子どもたちはもちろん、この本を親や祖父母にも読んで欲しいと語る。

「親も『学校に行け』と言われて育ってきていますから、子どもに同じように思うのは仕方ない面もあるのかもしれません。でも、人生の価値観の尺度を複数持つことが大事だと思うんです。学校だけが人生ではない。そして、人は弱くていい。周りを見れば同じような人がいる。その人たちと繋がって生きればいいと思うんです」。

【プロフィール】

石井志昂(いしい・しこう)1982年生まれ、36歳。中学時代に不登校になり、フリースクール「東京シューレ」に通う。17歳の時に1998年5月に創刊した不登校新聞にインタビューされたのをきっかけに、同紙の取材に携わるようになる。2001年より正規スタッフとして勤務を始め、06年に編集長。同紙は月2回発行のタブロイドで、3200部(18年7月末現在)。WEB版もある。

(弁護士ドットコムニュース)