渋谷さんは、思わず母親を蹴り飛ばしてしまった。本写真はイメージであり本文とは関係ありません(写真:Deja-vu / PIXTA)

上智大学文学部新聞学科の水島宏明教授が指導する「水島ゼミ」は、大学生に小さなビデオカメラを持たせ、この世の中にある何らかの社会問題を映し出すドキュメンタリーの作品づくりを指導している。
若者たちが社会の持つリアリティと向き合い、最前線で活動する人々と出会うことによて、社会の構図や真髄を自ら把握していってほしいという取り組みだ。そんな若者たちの10章のドキュメンタリーをまとめたのが『想像力欠如社会』(弘文堂)である。その中から高橋惟さんによる『道を誤ってしまった君へ〜元非行少年の願い〜』を一部転載する。

「今日、初めて家族が夢に出てきたんですよ」

ボロボロに削れた爪を噛みながら、カケル(22)がつぶやく。車は木曽川を渡り、愛知県に入ったところだった。視線は窓の外に向いたまま、何を見ているわけでもない。ただ、次々に移り変わってゆく景色を、ぼうっと、眺めていた。

「僕、相当心配してるんでしょうね……」

自分のことなのに、まるで他人事のようだ。先ほどまで元気に話していたカケルの声は、次第に力をなくしていく。少年院を出所して3年経った、ある初夏のことだった。  

なお、登場する少年の名前は、プライバシー保護のため仮名である。

見た目と優しさのギャップ

2017年6月初旬、私は1人の男性に会うため、東京から名古屋へ向かった。15時、指定された名古屋市営地下鉄の駅で待っていると、真っ白なセダンタイプの車が目の前に止まった。その日はよく晴れた日で、立っているだけで汗がにじむというのに、中から出てきた渋谷幸靖さん(35)は、長袖のシャツを着ていた。髪はワックスできちっと固め、髭を2〜3ミリに揃えた渋谷さんは「チョイ悪」という言葉がよく似合っていた。


渋谷幸靖さん(筆者撮影)

「荷物多いねぇ、遠かったでしょう」

見た目とは裏腹に、たれ目を細め、優しく笑いかけてくれた。強面な見た目からは想像できないほどの優しい表情や気づかいこそが、彼が多くの少年から好かれる理由なのかもしれない。取材用のビデオカメラを持っている私を警戒することもなく、まるでずいぶん昔からの知り合いかのように学校の話や最近の自分の話をしてくれた。普段はアパレル会社の経営と不動産の営業をしていること、在宅で仕事をしているが少年から連絡が来ると気になって仕事が手につかないことなど、話は尽きなかった。その明るくほがらかな表情からは、彼の抱えている過去など、少しも透けて見えない。

「親がいないのが当たり前だから、寂しいとは思ってなかったんです」

1981年に生まれた渋谷さんは、幼稚園の時に両親が離婚。以来、母子家庭で育った。母親は、美容院やエステなど多業種の経営者であったため家計に困ることはなかったが、毎日夜遅くまで家に帰って来なかった。仕事で忙しい母親は、1人息子の渋谷さんに、愛情の対価として沢山のゲームを買い与えた。気付けば家のタンスの引き出しはゲームで溢れていた。

渋谷さんは学校が終わっても友達と遊べば1人になることはなかったが、夕方になるとみんな、夜ごはんを食べるため家に帰ってしまう。夜ごはんもない誰もいない家に帰り、ゲームで暇を潰す毎日だった。

「自分でも気付かなかった寂しさが、ずっと胸の奥で消えていなかったんです」

中学校に上がると、次第に帰る時間が遅くなり、家にいる時間も減った。物で溢れた母親のいない家に居場所など見出すことができなかった。次第に自分と似たような境遇の友達を見つけ、つるむことが多くなった。彼らの大半は家庭に問題を抱えており、いわゆる「不良」の集団だった。コンビニエンスストアに溜まって、カラオケで一夜を過ごす日々。誤った道を進もうとする渋谷さんを止める人は、誰もいなかった。

母親を蹴り飛ばした

中学3年生の時、先輩が使わなくなった原付バイクを無免許で運転。普通のゲームだけでは埋めることができなかった寂しさを埋めるため、必死でスリルを求めた。寂しさを消すほどの刺激が必要だった。もっと悪いこと、もっと危ないこと……。窃盗、恐喝と、次第に非行はエスカレートしていった。


かつての渋谷さん(写真:渋谷さん提供)

そして皮肉にも、今まで褒められることのほとんどなかった渋谷さんが唯一周りから褒められる場所は、不良仲間だった。仲間の誰よりも悪いことをした時、「お前すごいな!」と認めてもらえることが気持ちよかった。そして褒められれば褒められるほど、どんどん悪いことをしたくなったのだった。そこは紛れもなく、渋谷さんの居場所になった。

成人してもなお詐欺、恐喝をしていた。妻子はいたが、週に1回家に帰り、何とかして手に入れた大金を置いていくだけで、ほとんどの時間を悪いことや愛人に費やしていた。

理不尽な怒りに任せて、母親を蹴り飛ばしたこともあった。はっとした時にはもう遅かった。頑丈で気が強い母親が、涙をこらえ、悲しみとも苦しみとも取れるような表情を浮かべていた。あばらの骨が3本折れていた。

「あの時の母の顔が脳裏に焼き付いていて今でも忘れられないんです」

気が強い母親のもろい一面を見た瞬間だった。

「もしあの時目の前に自殺ボタンがあったら、すぐに押してました」

堕落した日々に終止符を打たねばならない時が来た。繰り返す詐欺行為が発覚し、詐欺罪で逮捕された。当時24歳。地元の名古屋から離れた埼玉県にある少年刑務所に送られることになった。働いていた会社はクビ、当時いた妻とは離婚、2人の娘とは絶縁状態。他人を犠牲にして娯楽に生きた日々は一変した。

教育を中心とする「少年院」と刑罰を中心とする「刑務所」のちょうど中間に存在する少年刑務所は、「更生できる最後のチャンス」として、3つの中で最も厳しい場所だった。無機質な空間。番号で管理され、ご飯もお腹一杯食べることができない。死ねるものなら今すぐ死にたい。塀の向こうは地獄の日々だった。

月に4回、母親からの手紙

月に4回、母親からの手紙が届いた。初めの方は手書きで、励ましの言葉や、実家で飼っている猫の様子、母親の日常の話などが綴られていた。文章の端々に、愛情がちりばめられていた。しかし、少年刑務所生活は長く、毎回長い手紙を書く母親の手は、次第に限界を迎えていた。

「文字を書いていると、指がこむらがえりを起こして思うように動きません」

「この手紙を書くのに、3日かかりました」

気付けば手紙は、手書きから、ワープロで書かれた文字になっていった。2007年12月、外はクリスマスモード一色に染まる中、少年刑務所の独房でたった1人、実家に住む母親から届いた手紙を読んでいた。

「遠く離れて会えないけどお誕生日おめでとう」

2つ折りの画用紙の表には、ワープロの文字と折り紙を切って作られたクリスマスツリー。中には、メッセージとともに、実家で飼っている猫の絵が描かれていた。母親は決して絵が得意なわけではなかった。手を傷め、文字が書けない中で、遠くにいる息子にできる精一杯の愛情表現だった。涙が、止まらなかった。

何度もひどい言葉を投げつけては、暴力を振るうこともあった。そんなひどいことをしてもなお、母親は無償の愛を与え続けてくれた。もう、裏切ることはできない。牢獄の中で1人、母親からの便りに更生を強く誓った。

きっかけは、何気なく夕方に見ていたテレビ番組だった。2年の刑を終え、義理の父親の会社で営業の仕事をしていた渋谷さんは、毎日を過ごすことに必死になっていた。獄中で、「社会に出たら自分と同じような境遇の少年を助けたい」と思ったこともあったが、実際に出てみると、そんな余裕など少しもなかった。以前つるんでいた暴力団や右翼団体、不良仲間などから来る連絡を断り、ひたすら目の前の「更生」に向けてがむしゃらに走っていた。


そんなある日、ふとテレビを見ると、とあるNPO団体が特集されていた。その団体は元非行少年が設立した団体で、少年院に入ってしまった少年達のサポートをしているという。拠点は愛知。「やるしかない」。気付いたら電話を握りしめていた。出所から8年経った日のことだった。

NPO団体として関わる時期は、少年達が出所して半年間。それ以降はNPO側の担当の人間と少年達との個人間のやりとりに変わる。現に、渋谷さんが現在個人的に連絡を取り合っている少年は20〜30人。そのうち、NPOの保護期間にある少年は、わずか5人だ。雑談から真剣な相談まで、様々な場面で渋谷さんは彼らと連絡を取っている。少年達の多くは深夜に連絡をしてくるため、毎日朝の4時まで眠ることができない。しかも、深夜の連絡のほとんどは、深刻なトラブルであるため、深夜に電話をかけたり車を走らせたりすることも少なくない。

【8月10日15時00分追記】初出時、渋谷さんが支援を行った少年のエピソードを転載していましたが、ご家族からの申し出があり、当該箇所を全文削除しました。

そばで寄り添うということ

少年達を支えても、彼らをとりまく環境が更生を阻止することがほとんどで、目に見える成果は簡単には得られないのが現状だ。しかし、それでも彼らを決して諦めず、信じた先に、彼らの心からの笑顔があれば、それで幸せだという。

「4畳半の小さな部屋でもいいから、いつか彼らが築き上げた家族と一緒に鍋を囲んで、思い出話に花を咲かせたい」。そんな日を夢見て、彼は今日も少年達のところへ向かう。