歌丸さんが愛した「地元」と、歌丸さんが愛しぬいた「妻」。あたたかい哀悼秘話
50年にわたり、演芸番組『笑点』に出演していた国民的落語家、桂歌丸さんが7月2日に亡くなった。
「小学生のときに教壇で落語をし、そのころから落語家になると決めていたそうです。中学3年生のときに5代目古今亭今輔に入門。'66年に笑点の前身となる『金曜夜席』のレギュラーになったんです。'68年に真打に昇進し、そのころからやっと落語だけで食べられるようになったそうですよ」(スポーツ紙記者)
1日50本のヘビースモーカー
そんな歌丸さんの死因は慢性閉塞性肺疾患(COPD)。
「歌丸さんは'09年に肺気腫を患い、'17年正月にも肺炎になり入院。そのころから日常生活でも酸素ボンベを携えるようになりました」
そう明かすのは演芸関係者。歩くことのつらさを如実に示すエピソードがあると続ける。
「現在『笑点』の司会を務める春風亭昇太は画面の右側から登場し、回答者の後ろを歩き、画面左にある司会者の席に座っています。歌丸さんも当初はそうでした。
ただ肺を患ってからは、その距離を歩くだけでも息が切れてしまう。司会を降板するしばらく前から、歌丸さんは画面左のふすまから出てそのまま司会者席に座るようになりました」
'09年に肺気腫になるまで、歌丸さんは超がつくほどのヘビースモーカーだったという。
「缶ピースを1日に1缶ほど。本数にすると少なくとも50本です。師匠のかばんの中の缶ピースの在庫を切らさないことが、入門したての弟子が最初に覚える仕事でした」(寄席関係者)
歌丸さんの病因であるCOPDについて、日本医科大学呼吸ケア・クリニック所長の木田厚瑞先生は、
「タバコの煙を主とする有害物質を長期間にわたり吸い込むことで生じる肺の炎症疾患です。喫煙者の15〜20%が発症するといわれています」
と解説する。'20年には世界の死亡原因の3位になるといわれている深刻な疾患で、日本には約660万人の潜在患者がいるとされている。
「喫煙し始めて約20年で発症するため、40歳前後でせきや痰が出る初期の症状が現れます。粘膜の免疫力が低下するため、ウイルス感染しやすくなり、風邪をひきやすくなってしまうんです。
でも症状は風邪と同じですから、病院に行く人は少ない。50代になると息切れの症状が出てきて、やっと“あれ、おかしいな”と思い受診する方が多い。それでも禁煙できずに悪化する方もいます」(木田先生)
つまり'09年の段階で歌丸さんの症状はかなり深刻だった……。実際その後、入退院を繰り返すことになる。
「せきの回数や痰の量が増えて、普通の生活ができなくなるほど息切れが強くなる。これを“増悪”といい、入院を余儀なくされます。
1回の入院治療は約3週間。日常の生活力が急激に落ち、手足がどんどん細くなってしまいます。自宅で生活を続けるには、歌丸さんのように酸素吸入器をつけて生活せざるをえなくなってしまいます」(木田先生)
入院のたびに医者に太れと言われていたが、「食べられないんだからしょうがない」と嘆いていた歌丸さん。
それでも、落語に対する執念はすさまじく、ほかの噺家の追随を許さないほど。歌丸さんが落語に没頭できた背景には、妻・冨士子さんの献身があった。
「落語、やめようかな」に奥さんが……
神奈川県横浜市真金町─。表通りからは車の入れない細い路地の中に、築30年近くの一軒家がある。建坪は約10坪と狭い。人気番組の司会者としては質素な住まいだ。
「町内の別のところからここに引っ越してきて50年くらいは住んでいると思いますよ。30年ほど前に今の3階建てに建て替えたんです。冨士子夫人の実家がすぐ前。とにかく真金町が大好きで、売れた後もここから出ようとしなかったですね」(近隣住民)
もともと歌丸さんは、真金町で遊郭を営む祖母に育てられた。子どものころから落語の廓噺(遊郭を扱った噺)を地でいく世界で、大人たちの喜怒哀楽を垣間見て成長した。過去の週刊女性のインタビューでも、「落語の下地はできていたんでしょうね」と答えていたことがある。
「結婚当初はまだ師匠が落語でお金を稼ぐことができなくて、冨士子夫人が化粧品の営業をして家計を支えていたそうです。歌丸さんがたまにもらう高座のギャラで食パンを買ってきて、うれしそうに奥さんに渡していたって話を聞きましたよ」
そう明かすのは近所の主婦。
「2年くらい前から、車イスで表に出て車に乗るようになりました。冨士子夫人は、必ず表通りまで出て見送るんです。奥さんは師匠より背が高くて、とても美人さん。
仲がよくってね。最近は顔色もよくなかったけど、10年近く前までは地元の盆踊りで師匠が1時間近く太鼓を叩いてくれて盛り上がりましたよ」(自宅近くの別の住人)
自宅から徒歩で3分、歌丸さんが名誉顧問を務める横浜橋商店街には、行きつけの理髪店『理容ユカワ』がある。
店主の湯川豊さんに話を聞いてみると、
「師匠は、うちの親父のお客さんだったんです。20日に1回のペースで来てくださり、かれこれ66年くらいになると思います。髪型はずっとあのオールバック。初めから変わってないですよ。髪の毛の量は変わったけどね。必ず1週間くらい前に予約を入れて、予約の10分前には来てくださるんです」
店に入ってすぐの席が歌丸さんの指定席。先代がカットし、マッサージなどは奥さんがするのは、代替わりしても同じだ。
「親父は'93年に亡くなりましたけど、'92年からは私が師匠のカットを担当しています。髪染めとマッサージは妻の仕事。妻がマッサージをすると“1本抜けたら1000円もらうよ”なんて言って、みんなを笑わせてくれる方でした」(湯川さん)
落語で稼げるようになると「横浜市に何か恩返しがしたい」と、『理容ユカワ』の先代店主と横浜市の鈴木正之市議会議員と3人で『歌丸会』を発足させ、毎月1回、老人ホームを慰問し落語を聞かせていた。会は3年くらい前まで続いていたという。
「体調が悪くなり趣味の渓流釣りもできなくなって、盆栽もできなくなった。それで師匠が奥さまに“落語、やめようかな”って相談したことがあったそうです。そしたら奥さまに“やめたら何もないじゃない。落語しかないでしょ”って言われたっておっしゃっていましたね。
本当に仲よしで、うちから帰るときも必ず“今から帰るよ”って電話されるんですよ」(湯川さん)
妻を愛し地元の暮らしも愛した。庶民寸法の暮らしから生まれた芸は、落語ファンの耳に残り響き続ける。