1990年、教団総本部などの捜索を受けて記者会見するオウム真理教代表(当時)の麻原彰晃(本名=松本智津夫)死刑囚(写真=時事通信フォト)

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7月6日、オウム真理教の元代表の松本智津夫(麻原彰晃)死刑囚ら7人の死刑が執行された。地下鉄サリン事件で強制捜査が行われるまで、日本ではオウム真理教の攻撃性や狂気に気づく人は少なかった。だが作家の佐藤優氏は「ロシアは日本より先にオウム真理教の危険性を十二分に理解していた」という。それはなぜなのか。佐藤氏と政治学者の片山杜秀氏との「平成史対談」をお届けしよう――。(第7回)

※本稿は、佐藤優、片山杜秀『平成史』(小学館)の第二章「オウム真理教がいざなう千年に一度の大世紀末 平成7年→平成11年」の一部を再編集したものです。

■麻原作曲の大交響曲

【佐藤優(作家)】90年代中盤は、片山先生はどんなお仕事をなさっていましたか?

【片山杜秀(慶應義塾大学法学部教授)】いや、お恥ずかしいことしか。非常勤講師として大学や専門学校で教えながら、それよりも稼ぎはライターや音楽評論家の方が多かったですね。

この頃の音楽評論家としての仕事で覚えているのは、新宿文化センターでカッサパが指揮するキーレーンの演奏会です。93年、オウム真理教がロシア人でキーレーンという名の交響楽団を編成し、来日公演をさせていました。

ソ連は音楽家の宝庫でしたが国家の崩壊で大勢が食いつめた。そこをうまくつかまえて上祐史浩がなかなか上手なプレーヤーたちをお金で集めました。そしてカッサパというホーリーネームの東京音大出身の信者が、麻原彰晃の口ずさんだメロディを麻原彰晃作曲として交響曲や交響詩にして、コンサートで演奏した。

【佐藤】いま、その人はどうしているんですか?

【片山】カッサパの消息はその後、聞きませんね。「ショーコー、ショーコー、ショコ・ショコ・ショーコー」という歌詞で広く知られた「尊師マーチ」もカッサパの作曲と言われています。

演奏会では、麻原彰晃が「この大幻想曲『闇から光へ』は自由な形式で作曲しました」などと舞台中央で説明していました。

【佐藤】口ずさんでいるだけですから、確かに自由な形式ではありますね(笑)。

【片山】そうなんですよ(笑)。創価学会の池田大作が山本伸一名義で作詞したり、天理教の中山みきが「おうた」を作ったり、さかのぼれば親鸞の和讃や、神秘思想家のグルジェフの膨大なピアノ音楽もありますから、教祖が音楽を作るのは宗教の根幹的行為の一つかもしれません。けれど大規模な交響曲まで作るのは珍しい。

麻原彰晃はゴーストライターを使って、一つ極めたわけです。自ら作曲をした思想家だと、たとえばニーチェもそうですが、ニーチェだって歌曲やピアノ曲どまりで、そんなに規模の大きいものは作れていません。この件は後の佐村河内守事件にもつながると思うのですが。

■地下鉄サリン事件まで、その狂気に気付いていなかった

【佐藤】片山さんがキーレーンの演奏会を聞いた93年頃はオウム真理教が松本サリン事件を起こす前年ですね。そして95年3月20日の地下鉄サリンにつながっていく。

【片山】地下鉄サリン事件の日はよく覚えています。

事件の起きたあと、当日の午後ですが、ピアノ調律師で坂本龍一を世に出したことでも知られる音楽プロデューサーの原田力男さんのお見舞いに行ったんです。東急田園都市線沿いにある病院でした。

末期がんで入院していた原田さんがベッドの上にちょこんと座ってテレビで、サリン事件の報道を見ていた。私は「いま外に出たら何が起こるか分からないけれど、病院の中なら安心ですよ」なんて慰めにもならない言葉をかけた。

【佐藤】地下鉄サリン事件では、埼玉県の大宮駐屯地から完全防備の化学防護隊がすぐに駆けつけた。あの映像を見て、私は日本の化学戦対応能力は決して低くないと感心しました。警察はまだカナリアに頼っていたわけだから。

実は地下鉄サリン事件の6日後、3月末日に東京に戻る私のためにロシア人たちがモスクワでお別れパーティを開いてくれたんです。ロシア人の間でもオウムの話題で持ちきりでした。

【片山】オウム真理教は、キーレーンに代表されるようにロシアと縁の深い新興宗教だった。ロシアではどのように受け止められていたんですか?

【佐藤】麻原彰晃の定宿だったモスクワのオリンピック・ペンタホテルにプルシャ(オウム真理教のバッジ)を着けた信者が集まって話題になったり、モスクワ放送で「オウム真理教放送」というラジオ番組を流したりしていた。

そしてサリン事件の2、3年前から家族が入信して困っているという相談が日本大使館に寄せられはじめた。

【片山】サリン事件前まで日本ではオウム真理教の攻撃性や狂気に気づいている人は少なかった。宗教学者の中沢新一や島田裕巳らもオウム真理教に理解を示していた。

一般的にも神秘主義的でオカルト、超能力を売りにしているけど、平和的な宗教団体という認識でした。夜中に自宅のポストに麻原彰晃の伝記マンガ入りの広報誌が投げこまれていたりして、やや不気味にも思いましたが。

■オウムの危険性、ロシアでは理解されていた

【佐藤】ロシアでは日本とは違って、オウム真理教の危険性は十二分に理解されていました。それはオウム真理教のドクトリンが、19世紀末の思想家・ニコライ・フョードロフの影響を受けているからです。

モスクワのソクラテスと呼ばれたフョードロフは、本がたくさん読めるからとロシア国立図書館で住み込みで働いていた。彼のもとにはドストエフスキーやトルストイらが訪ねています。キリスト教ではイエス・キリストとともにアダムとエバ以降のすべての人が復活すると信じられていますが、フョードロフは自然科学の発達によって近未来に万民が復活すると考えた。

ただし万民が復活すると地上に土地と空気が足りなくなる。だからほかの惑星に移動しなければならないと主張した。その思想はアポロ計画やソユーズ計画に活かされ、やがてフョードロフはロケット工学の父と呼ばれるようになる。

【片山】科学時代の終末思想ですね。オウム真理教はフョードロフの思想で理論武装して、ロシアでの布教に活かした。ロシアから輸入した思想をロシア人が喜ぶ形で循環させ再帰させたわけですね。

【佐藤】その通りです。その万民復活の終末思想が、オウム真理教のポアの論理とつながっていくんです。ルターはドイツ農民戦争(1524−1525)で「権力に反抗する農民をできるだけ早く殺せ」と指導しました。権力に刃向かって傷ついた魂は復活できないから、魂が傷つく前に殺せ、という論理です。

そのロジックはオウムのポアに活かされている。大量虐殺やテロは単なる恨みや辛みから行われるわけではありません。背景には必ず全人類救済事業のような思想があるんです。

■日本の伝統的感覚から離れた「60年代生まれ」

【片山】そもそも終末論は日本人の時間意識、歴史意識にはなじみにくい。「言霊の幸ふ国」というくらいで天皇陛下がお言葉を発し続けているかぎり、今の秩序が永遠に続くと考えたがるのが古代からのこの国の思想なのですから。

その伝統的感覚からかなり離れたのが「60年代生まれの世代」だと思うのです。私も佐藤さんも多くのオウム信者と同じ60年代前半生まれ。私たちは70年代にブームを呼んだ、99年に人類が滅亡するというノストラダムスの大予言に少年期に引っかかった世代でもある。

【佐藤】しかも1999年は単なる世紀末ではなく、千年に一度の大世紀末でしたからね。

【佐藤】オイルショックの前年(1972年)には地球上の資源が有限だと指摘する『成長の限界』が発表されました。これも人類の滅亡や文明の破綻の空気を醸成した。

【片山】73年に刊行されてベストセラーになった小松左京の『日本沈没』もそう。『ノストラダムスの大予言』だけでなく『成長の限界』も『日本沈没』も一緒に人類滅亡というリアリティを植え付けた。それと並行して流行したのが、エクソシスト、オーメン、そしてこっくりさんにスプーン曲げ少年。そんなのが束になって襲いかかってきた(笑)。

【佐藤】そうそう。給食のスプーン全部曲がっていたもんね。

【片山】うちの小学校でも昼休みにバケツ一杯分、スプーンを曲げる同級生が出てしまいました。大人なら一過性のブームですんだかもしれないけれど、子どもにはインパクトがありすぎでしたね。オカルト的宗教、超能力、近代文明の破綻、終末論など、のちのオウム真理教の思考パターンを支える価値観が集中的に供給された。世界滅亡にリアリティを持ったまま青年になった人たちがオウム真理教に惹かれていった。

■ロシアの闇とシンクロしたオウム真理教

【佐藤】私にはオウム真理教を支えたその価値観がロシアの闇とシンクロしたことがとても興味深かった。

【片山】サリン事件発覚後、ロシアの教徒が麻原彰晃奪還を企てているという報道もありましたね。

【佐藤】奪還計画は確かにありました。ロシアにはいまだに麻原彰晃を信じるカルトのコミューンがある。

【片山】コミューンは複数あるんですか?

【佐藤】いくつかあります。ロシアだけでなく、ウクライナにもある。95年当時、ロシアに2万4000人の信者がいた。今はどれぐらいいるかわかりませんが、数千人いてもおかしくない。

極論かも知れませんが、オウム真理教とイスラム原理主義、あるいはキリスト教の違いは単なる数に過ぎない。終末論的なドクトリンを内包する宗教は、キリスト教でもイスラム教でも暴発すれば、オウム真理教と同様の行動に走る危険性がある。

【片山】地下鉄サリン事件は、いまの国際社会が抱える問題の端緒といえます。イスラム国も使っていない大量破壊兵器を使って首都でテロを起こした。ある意味で世界史の最先端を行ったのが、オウム真理教だった。

事件直後、上祐史浩が毎日のようにメディアに登場して、関与を否定したり、教義について説明したりしていました。國松孝次警察庁長官が狙撃されて、一時は死亡説も流れました。犯人はプロの狙撃手としか思われず、異常な興奮状態で次に何が起きるか予想できなかった。いっときは国家崩壊と完全なアノミー(社会秩序の崩壊)の出現まで心配しました。2・26事件とちょっとダブる感覚もありました。

■破防法で解散させなかった理由

【佐藤】地下鉄サリン事件は、日本が法治国家ではない現実を浮き彫りにしましたよね。信者がドライバーを持っていれば銃刀法違反で、駐車場に足を踏み入れれば建造物侵入で、微罪逮捕した。これは法治国家のやることではない。

【片山】オウム真理教に対して超法規的に対応すべきだという戦時体制的な空気が確かにありました。でも結局は破防法を適用せず、解散までには追い込まなかった。

【佐藤】そこが日本のインテリジェンス能力の高さだと思うんです。解散させたところで、オウム真理教は非合法に残って地下に潜ったはず。それなら合法的な組織として残し、行動や全体像を把握した方が賢明です。

【片山】その通りで、反社会勢力の非合法化が逆効果なのは歴史が証明している。

19世紀のドイツ帝国でも社会主義者鎮圧法で社会主義運動の非合法化をはかりましたが、名称や表向きの趣旨を変えては出てきて、かえって活動を盛り上げてしまう。ロシア帝国でも弾圧がかえって反体制運動に強固な地下組織を作らせ、単に不気味さが増大しただけでした。

しかもオウム真理教の場合は、教義と連動するように阪神・淡路大震災が起きましたね。震災がオウム真理教の終末論にぴたりとはまり、やはり日本の破局は近づいているのだと信者を刺激して、テロ機運を高めることになった。大地震は世界の終わりの予兆。これは古今東西、人類の思考パターンの定石ですね。

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佐藤 優(さとう・まさる)
作家
1960年、東京都生まれ。1985年、同志社大学大学院神学研究科修了の後、外務省入省。在英日本国大使館、在ロシア連邦日本国大使館などを経て、外務本省国際情報局分析第一課に勤務。2002年5月、背任と偽計業務妨害容疑で逮捕。2005年2月執行猶予付き有罪判決を受けた。主な著書に『国家の罠―外務省のラスプーチンと呼ばれて』(毎日出版文化賞特別賞)、『自壊する帝国』(新潮ドキュメント賞、大宅賞)などがある。
片山 杜秀(かたやま・もりひで)
慶應義塾大学法学部教授
1963年、宮城県生まれ。思想史研究者。慶應義塾大学法学部教授。慶應義塾大学大学院法学研究科後期博士課程単位取得退学。専攻は近代政治思想史、政治文化論。音楽評論家としても定評がある。著書に『音盤考現学』『音盤博物誌』(この2冊で吉田秀和賞、サントリー学芸賞)、『未完のファシズム―「持たざる国」日本の運命』などがある。

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(作家、元外務省主任分析官 佐藤 優、慶應義塾大学法学部教授 片山 杜秀 写真=時事通信フォト)