西野朗監督【写真:Getty Images】

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1996年アトランタ五輪、「守備的」との評価への反骨心

「攻撃的でファンタジックなサッカーを進めていく素晴らしさを強烈に感じ、それは持ち帰ったつもりです」――西野朗(日本代表監督)

 現役時代の西野朗は、早熟で天才肌のプレーメーカーだった。現役を退いた後は、高校で指揮を執る姿を描いていたが、日本サッカー協会(JFA)に請われてU-19日本代表監督に就任する。ここから指導者人生が始まり、1996年アトランタ五輪でブラジルを1-0で破る「マイアミの奇跡」を演じた。

 だが当時JFAの評価は「守備的で収穫なし」と手厳しいもので、捲土重来を期す西野はバルセロナへ視察に出かけるのだ。

 アトランタ五輪で対戦したブラジルには、6年後の日韓ワールドカップ(W杯)で世界一に輝くスターが顔を揃えていた。ロナウド、リバウド、ロベルト・カルロス……、それに対し日本は全員がJリーガーだった。

「60〜70%もボールを支配される状況が確実なら、相手の長所を消すことから入るのは当然。高いステージになればなるほど、自分たちの理想のスタイルを貫くのは難しくなる」

 当然の論理は否定され、ヨハン・クライフが哲学の基盤を築き、攻撃的スタイルでは世界屈指のバルセロナで学ぼうと考えた。

「前に人を割き、個々のスタイルを重視し、ピッチを最大限に利用して、彼らが化学反応を起こして創造的なパフォーマンスを展開していく。消極的なプレーを選択する選手は認めてもらえない」

 西野がバルセロナのピッチで目にしたのは、そんな光景だった。

「日本代表を激変させたかった」

 2002年にガンバ大阪の監督に就任すると、早速宣言した。

「ガンバは攻撃的に行く」

 シーズンを追うごとに攻撃性は高まり、時には先制すると、さらにオープンな攻撃戦に引き込もうとする采配さえも見られるようになった。

「宣言通りのサッカーが定着した。それは凄いことだったと思う」

 個性は長所になり、それが化学反応すれば、人の心を躍らせるパフォーマンスが生まれる。

 前任のバヒド・ハリルホジッチが実践してきたように、ロシアW杯でも日本代表が結果を出すには堅守速攻が得策との見方が大勢を占めていた。だが西野は、引かずに果敢に繋ぎ、そして攻めた。

「日本代表を激変させたかった」

 見事なリベンジの完結だった。(文中敬称略)(加部 究 / Kiwamu Kabe)

加部 究
1958年生まれ。大学卒業後、スポーツ新聞社に勤めるが86年メキシコW杯を観戦するために3年で退社。その後フリーランスのスポーツライターに転身し、W杯は7回現地取材した。育成年代にも造詣が深く、多くの指導者と親交が深い。指導者、選手ら約150人にロングインタビューを実施。長男は元Jリーガーの加部未蘭。最近東京五輪からプラチナ世代まで約半世紀の歴史群像劇49編を収めた『日本サッカー戦記〜青銅の時代から新世紀へ』(カンゼン)を上梓。『サッカー通訳戦記』『それでも「美談」になる高校サッカーの非常識』(ともにカンゼン)、『大和魂のモダンサッカー』『サッカー移民』(ともに双葉社)、『祝祭』(小学館文庫)など著書多数。