川崎フロンターレが、サンフレッチェ広島に0-1で敗れた試合。揉めたのは、終了間際、川崎が広島ゴールを揺らした際の判定だった。副審はゴールを認めるような動きをしたが、広島の選手が詰めより、主審と協議をすると、一転、試合はノーゴールの判定で再開された。

 長谷川が押し込んだボールは、広島ディフェンダーに当たって跳ね返ったボールだった。本来なら得点は認められるべきシーンになるが、パチンコ球のような目の錯覚を誘う動きをしたので、審判泣かせのシーンであることは確かだった。こちらも、事の詳細を理解したのは帰宅して映像を見た後で、等々力の記者席で見る限りでは、「微妙な判定」の域を脱し得なかった。なんだかよく分からないまま、試合は広島の勝利で終了した--という印象だった。

 判定にビデオシステムを導入すべきだとの声が高まるのは、当然といえば当然だ。しかし、それ以上に不満を覚えるのは、現場で僕を含めた観戦者が、放置されたことにある。これだけニュースになりながら、現場で観戦者には何の説明もされなかった。不親切とはこのことだ。

 プロ野球も、大相撲も、審判がマイクを使い、いきさつを説明する。ファンはそれを聞いて納得する。そうした手続きを踏む仕組みが、サッカーには構築されていない。

 もちろん、日本に限った話ではない。ビデオ判定システムが導入されていない限り、サッカーはすべてこの有様だ。しかし、問題はその後だ。本場では、メディアが、そのもやもや感をたちどころに回収してくれる。少なくともテレビでは、誤審か否か、問題のシーンを幾度も、幾度もスロー再生する。これでもかと言うぐらい、えげつないほど徹底的にやる。夜のスポーツニュースでもしかり。

 日本のメディア、とりわけテレビの事なかれ主義は、サッカーを前にすると鮮明になる。事件に遭遇しても「微妙ですね」と、話をサッとまとめようとする。しかし、スカパーなどで放送されている海外サッカーの場合は、そんなことはない。現地の映像が、問題のシーンを繰り返し流すので、実況も解説も否応なくそれに向き合おうとする。実況と解説は、現地人になったかのように熱くなる。

 そのノリをJリーグ中継にも反映していただきたいとは素朴な感想だ。海外の試合にはナチュラルな反応を示す人が、Jリーグの中継になると嘘臭いほど行儀よくなる。無理を感じてしまう瞬間だ。

 日本代表の報道にも、反映して欲しいノリだ。ハリルジャパンが、この時期に及んでなお、これだけ不甲斐ない戦いをしても、批判をする人は何人かに限られる。それが国民性だとすれば、気質的にサッカーに向いていないのではと心配になる。
それはともかく、等々力には電光掲示板が2台ある。ホームの川崎がゴールすれば、瞬間、その模様が映し出されるのが恒例だ。この日は結局、ノーゴールに終わったので、画面に映像が流れることはなかった。

 等々力はこの日、24000余人のファンでほぼ埋まっていた。主審、副審の回りを選手が取り囲む光景を見ながら、それほどの数の観衆が現場でストレスを抱えていたのだ。ビデオ判定を検討するのもいいが、もっと重要なことは彼らへのサービスではないのか。放映権を持っているのはDAZN。問題箇所の映像を切り出し、電光板で紹介することなど、朝飯前であるハズだ。

 それは半分、ビデオ判定を兼ねたものになる可能性がある。混乱の元になるから映し出すことを避けているのだろうが、その言い分は、自分たちの都合だ。観戦者の視点は無視されている。

 一方、そうした曖昧さこそがサッカーの魅力であり文化だとする声も少なくない。誤審は天の配剤。長い目で見れば、誤審の被害をある特定のチームが被り続けることはない。誤審あってのサッカー。ビデオ判定システムが導入されたら、サッカーは窮屈になる。逆にサッカーらしくなくなるとする、誤審に対して寛容な声だ。

 思わず納得したくなる。何を隠そう、僕にもそうした気質は流れているので気持ちは十分理解できる。日本人に、本場のような誤審との向き合い方ができるのなら、不要だと言いたくなる。まさに誤審を愉しむ文化があるのなら。

 日本は誤審を恐れる。表沙汰にはならないように、テレビもそれに協力する。臭いものに蓋をする文化が蔓延っている。それをサッカー的なものにひっくり返すためには、明るみに出ざるを得ない環境にするしかない。その都度ハッキリさせて、ガス抜きをしていかないと、世の中には有耶無耶な空気が充満することになる。

 結局、活用されなかった等々力の電光掲示板に、ビデオ判定システムの映像が流れれば、どれほどスッキリしたことか。これは、外国人より日本人に必要なものだと思う。誤審を愉しむ文化が醸成されるのを待っていると、日は暮れてしまう。