戦前、共にシアトル航路の貨客船として建造された、日本郵船の「氷川丸」と「平安丸」。いまなお横浜港の一角に浮かび広く知られる「氷川丸」ですが、「平安丸」は知る人も少なく、西太平洋の海底に眠っています。2隻のたどった航跡を追いました。

「氷川丸」は3姉妹の長女

 1944(昭和19)年2月18日、当時トラック諸島と呼ばれていた西太平洋チューク諸島近海にて、大日本帝国海軍の特設潜水母艦「平安丸」は米軍の攻撃を受け、海の底へと沈んでいきました。竣工から14年足らずのことでした。


日本郵船の貨客船「平安丸」。氷川丸級3番船にあたる(画像:日本郵船歴史博物館)。

 日本郵船歴史博物館(横浜市中区)にて、2018年1月20日より催されている企画展「グランブルーの静寂〜もうひとつの氷川丸〜」(同年4月22日まで)は、その「平安丸」のいまの姿を伝えるものです。同船は「もうひとつの氷川丸」とうたわれているように、2018年2月現在、山下公園(横浜市中区)に係留されている国の重要文化財「氷川丸」と同型の姉妹船です。しかし、その知名度は「氷川丸」に比べ、はるかに低いものでしょう。

「平安丸」は氷川丸級3番船にあたり、ほか同型に2番船「日枝丸」がありました。3隻とも日本と北米シアトルを結ぶシアトル航路用の1万2000t級貨客船として日本郵船が建造、「平安丸」の船価は当時の金額で665万円(現在の価格で120億円以上)でした。「氷川丸」が1930(昭和5)年4月、「日枝丸」が同年7月、「平安丸」が同年11月に竣工し、それぞれ氷川神社、日枝神社、平安神宮と、頭文字にHのつく神社にちなんで命名されています。3隻とも共通の図面で建造されており、「戦後『氷川丸』に乗船したとあるお客様が、『平安丸』と全く同じだと感想をもらしたそうです」(日本郵船歴史博物館 企画展担当)といいます。


「平安丸」の一等特別室寝室(画像:日本郵船歴史博物館)。

 ところが「平安丸」や「氷川丸」、そして「日枝丸」の、戦前における貨客船時代は1941(昭和16)年8月に幕を閉じます。当時、急速に悪化していた日米関係を受け、シアトルに寄港していた「平安丸」はすべての貨物を陸揚げすると、空荷のまま横浜へ戻ることに。これが戦前におけるシアトル航路の最終航海となりました。

 かくして「平安丸」の、日本郵船の貨客船としての約11年間は終わりを告げましたが、それからおよそ2年半ののち、なぜ帝国海軍の船としてチュークの海へ沈んでいくことになるのでしょうか。

「平安丸」は潜水艦乗組員の癒し手へ

 シアトル航路休止ののち、「平安丸」は1941年9月17日から20日まで帝国陸軍に期間徴用され、同年10月3日付で帝国海軍に徴用されます。これには、1922(大正10)年に日本やアメリカ、イギリスなど5か国間で結ばれたワシントン海軍軍縮条約が関わっています。

 同条約の主な内容は、軍拡競争を抑制するため、締結国間における戦艦や空母の保有を制限するというものです。これを受け帝国海軍は、平時には商船として運用し、有事には軍船に改造し運用できるような大型の貨客船を所望していました。こうして、国内の海運各社に、有事の徴用を前提とした商船が生まれることになります。「氷川丸」や「平安丸」も、そうした経緯で建造された商船でした。


「平安丸」の船名板。リベットで固定されている(画像:ダイブショップ トレジャーズ)。

 帝国海軍に徴用された「平安丸」は、横須賀鎮守府所属の特設潜水母艦へ改造されます。「潜水母艦」とは、潜水艦の補給や修理、乗務員の休憩所などを担う船のことで、「特設」は商船から改造されたものを意味します。「平安丸」の船倉も、魚雷格納庫や弾薬庫、糧食庫などに改造され、船体は迷彩柄に塗装、武装も施されました。

 おもに、当時帝国海軍の要所であったラバウルやトラック(当時)と内地とを結ぶ輸送任務についていた「平安丸」ですが、1943(昭和18)年にはキスカ島撤退戦に参加しています。これは北太平洋アリューシャン列島にあるキスカ島からの、日本軍守備隊の撤収戦のことで、連合軍が島を包囲するなか全員が無傷で撤収に成功した、奇跡とも称される作戦です。ただ、この作戦に関し「平安丸」がどのような活動をしたのか、日本郵船歴史博物館の企画展担当によると「(企画展に際し)戦闘詳報も当たりましたが、今回の調査では明らかになりませんでした」とのことであり、また潜水艦による作戦は、さほど成果を上げられなかった初期段階のものですが、ともあれ奇跡の一端に「平安丸」が名を連ねていたことは確かです。


「平安丸」はチューク諸島(環礁)のトノアス島北西、北緯7度23分、東経151度51分に横転した状態で眠っている(画像:日本郵船歴史博物館)。

 やがて1944年2月17日から翌18日にかけ、トラックは米軍の大規模な空襲を受けます。この2日間でおよそ60隻の日本の艦船が沈み、「平安丸」もまたトラック(現チューク)の海で眠りにつくことになりました。

 なお同じく帝国海軍の特設潜水母艦として改造され、のち特設運送船となっていた「日枝丸」は、「平安丸」に先立つこと約3か月の1943年11月、トラックへの航海中に米潜水艦の魚雷で撃沈されています。

一方の「氷川丸」は…?

 一方の「氷川丸」は1941年のシアトル航路休止後、まず日本在留の外国人と海外在留の日本人それぞれの帰国事業のために、逓信省(当時)に徴用されます。のち帝国海軍に徴用され、同年12月には特設病院船へと改造されます。病院船とは、戦地の病院の戦傷病者を収容し日本へ帰国させることを主な任務とし、ほか戦地や艦船への医薬品の補給なども担うものです。国際条約に則り船体と煙突は白く塗装され、船体側面には赤十字マークと緑の帯が描かれました。


帝国海軍に徴用後、特設病院船となった「氷川丸」(画像:日本郵船歴史博物館)。

 特設病院船としての「氷川丸」は主にトラックやラバウル、ジャカルタなど南方の戦地と日本とを往復し、終戦までの約3年半に24回の航海でおよそ3万人を収容、輸送したといいます。この間、米軍機による攻撃や3度にわたる触雷(水中の機雷に接近あるいは接触すること。機雷は爆発する)などに見舞われましたが、修理に入っていた舞鶴のドック(京都府舞鶴市)で終戦を迎えます。ちなみにこのとき、日本郵船の残存船は37隻で、外洋航海ができるのは「氷川丸」のみだったといいます。


2018年2月現在の「氷川丸」(2018年2月16日、乗りものニュース編集部撮影)。

 戦後の「氷川丸」はまず、海外に取り残された日本兵や一般人の引き揚げ輸送などに従事し、のち国内航路船や不定期の外航船といった時期を経て、1953(昭和28)年、12年ぶりに再開されたシアトル定期航路へ復帰します。1960(昭和35)年10月、日本郵船の客船事業撤退にともない「氷川丸」も引退。山下公園に係留されることになり、一時ユースホステルとして利用されるなどしたのち、現在(2018年2月)へ至ります。2016年には国の重要文化財に指定され、スクリューなどは外されたものの、いまなお往時の姿をとどめています。

「平安丸」の「いま」は?

「氷川丸」と明暗を分ける形となった「平安丸」は2018年2月現在、ほぼ原形をとどめたまま、チューク諸島トノアス島の北西に眠っています。


「平安丸」のプロムナードデッキ。写真左方向が海面で、同右側に潜水艦用の潜望鏡が見える(戸村裕行撮影)。

 こうした戦時中の沈没船は、太平洋に点在する当時の激戦地だった各所で見られるものですが、「平安丸」は姉妹船の「氷川丸」が現存しており、往時の姿と見比べられるというケースはまれなものだといいます。1997(平成9)年公開の映画『タイタニック』において、海に沈む「タイタニック号」と、その現役当時の姿が重なり合うというシーンがありましたが、それをリアルに経験することができるというわけです。


「氷川丸」のプロムナードデッキ(2018年2月16日、乗りものニュース編集部撮影)。

 実際に現地に足を運んだという日本郵船の広報担当は、「普段から目にする『氷川丸』は『船』と認識していましたが、海に潜りそれと同じものがサンゴに包まれ横たわっているのを目にすると、戦争のイメージも想い起こされ、船会社の者としては心にくるものがありました」と話します。

「平安丸」が眠る場所は、海面からおよそ16mと比較的浅い場所ということもあり、中級者以上向けのダイビングスポットとなっていて、上級者であれば船内を探索することも可能とか。ただ、やはり老朽化は免れず、ここ数年で急速に損壊が進んでいるともいいます。