無能と呼ばれた男を支えた愛。戦国時代随一のおしどり夫婦、今川氏真と早川殿の一生

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再評価高まる戦国大名とその妻

2017年大河ドラマ『おんな城主直虎』にも登場する戦国武将・今川氏真(いまがわうじざね)。

現代に至るまで「無能」という不名誉なレッテルを貼られていた氏真ですが、最近では彼を再評価する動きが見られるようになりました。その一方、氏真を愛し、生涯に渡って氏真を支え続けた糟糠の妻・早川殿について語られることは多くはありません。

今川氏真(集外三十六歌仙)

今川氏真は、「海道一の弓取り」と讃えられた駿河国の大名・今川義元の嫡男として誕生しました。

名家の跡取りとして何不自由ない生活を送る氏真は、16歳のときに早川殿を妻に迎えます。早川殿は、相模国の大名・北条氏康の長女です。戦国の世の習いである政略結婚により結ばれた縁でしたが、ふたりの仲はそれは睦まじいものでした。

ところが、順風満帆だった氏真の人生に暗雲が立ちこめます。1560年に、当主である今川義元が織田信長率いる織田軍によって討たれてしまったのです。そう、有名な「桶狭間の戦い」で起きた悲劇でした。

時代の寵児から一転、敗者へ

父の後を継いで今川氏12代当主となった氏真。しかし、激動の世を生き抜くには運と実力が及ばず、駿河侵攻を狙う武田信玄の猛攻を前に、今川家は衰退の一途をたどります。

名門としての地位や名誉を失い、行くあてを失った氏真ですが、苦境の折にも氏真の傍らにはいつも早川殿が寄り添っていました。そんな二人が頼ったのが、早川殿の実家である北条氏です。

北条氏の3代当主・北条氏康は「相模の獅子」と謳われる名将で、かの武田信玄や上杉謙信と並び称される大器でした。氏康は、寄る辺なき身となった娘夫婦を小田原で庇護します。絶大な力と人望を持つ氏康を味方につけたふたりは、さぞかし胸をなでおろしたことでしょう。

北条氏康(小田原城天守閣所蔵品)

しかし、そんな安寧もつかの間。氏康が没し、嫡男である北条氏政がそのあとを継ぐと、北条氏は武田氏と和睦してしまいます。

北条と武田が手を組めば、氏真の身に危険が迫ることは必至。そんな状況に奮起したのが早川殿です。信玄の命で、氏真を討たんとする刺客が仕向けられていることを知った早川殿は激怒。夫を守るため、旧知の人間を集めて急ぎ船を仕立て、氏真を連れて小田原を脱出した、というエピソードが『校訂 松平記』に残されています。

小田原は早川殿の実家であり、慣れ親しんだ故郷。そんな地に未練を残すどころか、武田信玄や、武田と和睦した兄・氏政(※)に対して腹を立てながら小田原を去った早川殿。その行動からは、夫に対する思慕の念がよく伝わります。※兄とも弟とも諸説有り

流転の日々と晩年の平穏

小田原脱出後の氏真の消息は断片的にしか残されていません。ときには徳川家康を頼り、ときには父の敵である織田信長と交流するなど、さまざまな地、多くの人の間を渡り歩いたようです。夫婦仲は変わらず円満だったようで、早川殿は次々と子を成し、最終的には4男1女に恵まれたといいます。

晩年の詳細は不明ですが、家康に与えられた江戸品川の屋敷で、穏やかに暮らしていたとされます。

そして1613年。長年連れ添った愛妻・早川殿がこの世を去ります。その2年後に氏真も死去。享年77歳、波乱に満ちた生涯でした。

失い、奪われ、追われ……平穏とは程遠い人生を歩んだ氏真と早川殿ですが、ふたりは常にお互いを慈しみ合っていました。没後間もなくして、氏真と早川殿の対となる肖像画が遺族の意向で描かれたことからも、その様子が察せられます。

左:早川殿 右:今川氏真(個人蔵)

最後まで仲睦まじく、支え合いながら生きた氏真と早川殿。ふたりは死してなお離れがたいとでもいうように、今も隣あった墓で静かな眠りについています。

画像出典:Wikipedia