秋元康の「作詞の妙」が要因!稲垣潤一、ミリオンヒット誕生秘話語る
人間洞察のプロであるインタビュアーが、さまざまなジャンルのトップランナーたちの知られざる真実を明かしていく新感覚のインタビュー番組『ザ・インタビュー 〜トップランナーの肖像〜』(BS朝日)。
©BS朝日
5月28日(日)に放送される同番組では、『クリスマスキャロルの頃には』『ドラマティック・レイン』などのヒット曲で知られる歌手・稲垣潤一に、編集者・森下康樹が迫る。
稲垣のファンだという森下の豊富な知識と誰もが一度は耳にしたことのあるヒット曲のライブ映像を織り交ぜながら、歌手・稲垣潤一の半生をたどっていく。
◆稲垣潤一の原点に迫る
大の洋楽好きの両親のもとで育った稲垣は、幼少のころから家のラジオで音楽を聞いていた。
そんな彼は、中学1年生のときに友人たちとバンドを結成し、ドラムを担当することになる。初めて人前で演奏したときから、すでにドラムをたたきながら歌うというスタイルだった。
「なぜ、ギターやベースではなく、ドラムを選んだのか?」「ドラムをたたきながら歌うのは、大変では?」などとさまざまな質問をぶつける森下に対し、稲垣は実際にドラムをたたきながら、現在のスタイルがどのように誕生したのかを語っていく。
◆就職するも1日で辞め“ハコバン”生活に
そんな稲垣は高校でも音楽三昧の日々を送り、卒業後はいったん就職するも、わずか1日で辞めてクラブやキャバレーなどで演奏する“ハコバン”生活に入る。
米軍キャンプやビアガーデン、ディスコなどさまざまな場所で演奏するが、客の目的は酒やホステスであり、バンドはあくまでBGM。金銭的な待遇も悪く、多くのバンド仲間たちが“ハコバン”生活から去っていくなか、稲垣はプロのバンド演奏者として約9年間活動を続けた。
その甘い歌声は話題となり、「仙台に稲垣あり」といわれるまでになる。そして、ついには東京からスカウトが訪れ、1982年に『雨のリグレット』で世に出たのは28歳のときだった。
プロになった稲垣は、歌や音楽と向き合う姿勢が大きく変わったという。その心境の変化とは?
◆ミリオンセラー曲を生んだ秋元康の作詞の妙とは?
その後、『夏のクラクション』『ロングバージョン』などつぎつぎとヒットを飛ばし、いつしか大人向けのロック、いわゆるAOR(Adult-oriented Rock)を代表するミュージシャンと呼ばれるように。
さらに、デビュー10年目の1992年、今も歌い継がれるクリスマス曲の定番『クリスマスキャロルの頃には』が誕生、ミリオンヒットとなった。
同曲の作詞を手がけたのは、秋元康。この曲がヒットした要因のひとつに、秋元の作詞の妙があるという。はたして、大ヒットの理由とは?
貴重なライブ映像をみながら、その秘密をひもといていく。
◆稲垣「音を楽しんでこそ、音楽」
デビュー35周年、さまざまな記念ライブやコンサートが開かれるなか、プライベートでは中学時代に友人たちと組んだバンドを再び結成。 2008年からは、中森明菜、太田裕美、柴咲コウなど、さまざまな女性ボーカルとデュエットしたカバーアルバム『男と女』をシリーズで発売した。
デュエットという新ジャンルを開拓し、最近では人気アイドルNMB48の山本彩との “40歳差”デュエットも大きな注目を集めた。60代にして今なお挑戦し続けるミュージシャン稲垣潤一は、これまでどのような思いで音楽と向き合ってきたのか?
「音を楽しんでこそ、音楽」と語る稲垣の足跡をヒット曲とともにたどる。