1986オメガトライブのボーカルとしてデビューした日系三世のカルロス・トシキ(52)。今年、25年ぶりに日本でのライブを開催。そして、雑誌のインタビューを受けるのも25年ぶりになるという。本誌では掲載しきれなかった貴重な90分インタビューを、ほぼノーカットで公開しよう!

――YouTubeで当時のインタビュー映像を観ました。もともと、ソロデビューする予定だったとお話されていましたが?

いえ、全然違います(笑)。僕は、日本で音楽の勉強をするために来ました。それが18歳のとき。日本でアルバイトをしながら、ボーカルレッスンを受けたり、CMの歌を歌ったりしていました。もっとCMの仕事を取るために、デモテープを作ったんです。3〜4曲くらい英語と日本語の曲を入れて、いろんなCMの制作会社に配って。そのデモテープがオメガトライブのプロデューサー(藤田浩一氏)に渡って、藤田さんから「会いたい」と連絡があったんです。そしてVAP(レコード会社)だったかな。ちゃんと覚えてないけど、レコード会社のスタジオに入って、そのとき、杉山清貴&オメガトライブの歌を歌ったんです。オーディションみたいな感じでね。

――オメガのどの曲だったか覚えてますか?

『サイレンスがいっぱい』と『ふたりの夏物語』。バラードとアップテンポの曲ですね。

―カルロスさんの『サイレンスがいっぱい』を、ぜひ、聴いてみたいですね。オメガの曲はご存じだったんですか?

いえ(笑)。そこで初めて知って。僕はオーディションだと思ってなくて、あとで知ったんです。藤田さんが、「オメガトライブのボーカルが辞めるから、カルロス、やらないか?」と。ちょうど、オメガがファイナルツアーをやっている頃で、そこでライブを観に行かせてもらって。「このバンドのボーカリストだよ」って言われても、最初はぜんぜんピンと来なかったんです。

――カルロスさんは日本でどんな音楽をやりたかったんですか?

歌謡曲です。ずっと日本の音楽に憧れていました。テレビは、『ザ・ベストテン』『トップテン』『日本レコード大賞』『NHK紅白歌合戦』とか、そういう番組を観ていて、当時は、沢田研二、布施明、野口五郎、西城秀樹とか。日本の音楽が大好きだったんです。だから、日本へ行こうと思ったんです。

――単身で?

そうです。父親が片道のチケットを買ってくれて。ちょっと話は戻りますけど、自分は日本の音楽が好きで、7歳のときから毎日、学校から帰ると4〜5時間、自分の部屋で日本の歌を聴いたり歌ったりして、自分の世界に入っていました。趣味ですね。自分のために歌うのが好きで、それを聴いていたお父さんが、「そんなに音楽が好きなの? 歌手になりたいの?」「うん、なりたい」「日本で歌手になりたいの?」「できれば、日本で歌手になりたい」って。じゃ、ブラジルで有名にならなきゃって。「ブラジルで1位にならないと日本へ行ってもダメだよ。もし、ブラジルで1位になったら日本行きのチケットを買ってあげるよ」って言われたんです。ウチのお父さん、日系協会関係の仕事をしてたから、僕に歌わせたかったんだと思います。だけど、自分は人前で歌うのが大の苦手で、イヤだったんです。緊張というか、好きじゃなかった。お父さんから、ブラジルの全国大会で優勝したら日本に行かせてあげるよ、って言われたとき、本気になって、よし、ブラジルの1位を目指そうって思って。それから毎日練習して、いろんなのど自慢大会に出て、17歳のときに1位になったんです。予選を通過して、市の大会、州の大会、そして全国大会で1位になった。

――のど自慢の全国大会で、何を歌って1位に?

『ブルースカイ ブルー』

――西城秀樹さんの名曲!

そうです。カッコいいもんね。いい曲ですね。それで優勝して、お父さんが約束どおりにチケットを買ってくれて、18歳のとき、日本に来たんです。

――日本に何か当てはあったんですか?

なかった。最初は、ウチのお父さんの姉、叔母さんのところに行ったけど、一人でアルバイトを始めて。デビューまで4年かかりましたね。オメガトライブでデビューしたのは’86年、22歳だったから。来日は’82年です。